気分が悪ィ
とりあえず、その一言だった。

何事もない一日の筈だったのに、出航直前に消えたシロクマの捜索が全ての始まりだったのかもしれない。この島は航海で立ち寄ったただの通過点に過ぎなかった筈で、そのシロクマが姿を消した事だって彼のただの気まぐれから起こったものだった筈で。まさかそれを探しに行った方がトラブルを抱えて戻ってくるなんて、想像だにしていなかった。

そしてそれはまたとんでもない一物だった。ペンギンとシャチが連れて帰ってきたトラブルは、あろうことかその数分前に船にノコノコと帰ってきたベポと全く同じ格好をしていたのだ。
ローは一瞬目を疑った。この世界にあのシロクマと同じモノが存在しているなんて、一体誰が思っていただろう。

そうして事情を聞くも、その女は自分たちに萎縮してしまってか、その正体をバラすまいと必死なのか、一言も言葉を発する事はなかった。
ローはその時、かなりのフラストレーションを溜めていた。クヨクヨしたりハッキリしない輩は正直いってウザったい。聞いているのに質問に答えようとしない態度も。懇願するように潤んだ目を向けるその態度も。自分の仲間の格好を平然としているその態度も。何もかも。…何もかもが、気に食わなかった。


「……」


だからって、そのままその島に放っておいたって何の問題もなかったのではと言われれば、そうだと即答出来る。いつもの日常が戻ってくるだけで、単に"イベントに遭遇"したと思えばそれで事済んだ筈だった。…なのに、どこか気になったのだ。スパイであれどうであれ、何故彼女は一番目立つベポの格好をしているのかという事が。船員に紛れるならば、白いツナギに目深に帽子を被っているほうがバレる確率はそれよか幾分低いだろう。
それほどまだ名を上げていない自分たちにスパイを仕掛けようなんぞ考える輩はどこのどいつだろうか、なんて。恨みを買うことには慣れているが、よりによってあんなガキを―女を送り込んでくるなんてどうかしてるとも思える。


「……チッ」


…そしてもう一つローが懸念した事。それは、その模倣の対象にあった。

自分と同じ格好をしてる奴には不信感を抱くのが普通だと思うが、あのシロクマ―ベポが喜ぶ事など目に見えていてた。その見てくれから昔は―まだ力の無かった頃はよく苛められていて、その反動あってか自分を厭わない存在に出会えば、ベポはその好意を拒否しない。だからローは、ベポをそれに会わせるなとペンギンに念を押していた。ややこしいことになるのを避けるためだ。…なのに、あの野郎。言って早々会わせやがって、この野郎。


「……、」


考えれば考えるほど、どんどんと沸き起こって止まない苛立ち。しかし、それを考えて一人でイライラしているのは無性に気に食わない気もして、ローは面倒臭そうにその重い腰を上げた。
何故そんな事で自分が悩まねばならないのだと。面倒な事になる前にあの女を捨ててしまえばいいだけの話なんだと。…どうしてそれに今まで気づかなかったのかなんて、考えてもその理由を探すのも最早面倒臭い。

自身の気まぐれを多少後悔しながら、今一度あの場所へと足を向けようとした、


「――っキャプテン!!」


その時だった。自身の部屋の扉をノックも無しに開けたのはベポ。…このシロクマにはモラルってもんがねェのかという苛立ちは、焦った表情の彼が次に発する言葉によってかき消された。


「あの子、死にかけてる…!!」

「…!?」



***



「――っおい!しっかりしろ…!」


ローがその場に辿り着くと、ペンギンの腕の中でぐったりと横たわる小さなベポの姿があった。
入った瞬間に感じた冷気と、食事のトレイから漂うスープの匂いが、ヤケに全身を刺激する。…一度も手をつけていないのだろう、それは運ばれた時のままの量と形態を保っていた。


「酷い熱なんだ!風邪ではなさそうなんだけど」

「……ペンギン、お前が入った森は、」

「普通の森さ。あの島にそういった症例はないはずだ」

「…キャプテン!助けてあげて!!」


ローは今一度小さなオレンジの塊に目を向けた。荒々しく上下する胸。額に光る汗。そしてその頬には、流れた涙の量がわかるほどにくっきりと痕が残っている。
…それらを確認して刹那、心に湧き上がるは感じた事のないエモーション。
しかしローはそれに気付かぬフリをした。ただただ自分はこの状況に戸惑っているだけなのだと、言い聞かせて。


「…船長、」

「…………ベポ、点滴の準備しとけ」

「っアイアイ!」


そしてその戸惑いは、自分のベクトルを異なる方向へと導く。助ける義理なんて何処にも存在してなかった筈だった。切り捨てようと考え、この場所に向かっていた筈だった。
なのに、今己は目の前の"患者"を救おうとしている。医者としてのプライドがそうさせているのか、はたまた何か別の思いが働いたのかは分からない。


「……伝染病の可能性は捨て切れねェ。一応血液とって検査にかけろ」

「あぁ、」

「ったく、面倒臭えモン連れてきやがって――」


そんな矛盾を持った心に向けて、大きく舌打ちをして。
ローは、その場を後にした。



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