バタン_


トイレの扉を閉めると同時。隔離された空間に入ったと身体が認識して、それを塞き止めていた何かが外れた。


「っ、うっ――」


そうして溢れだす涙は、自分でも止める術がなくて。けれども声は上げられなくて、誰にも気づかれたくなくて、ライは声を押し殺して泣いた。


「っ...」


何故今になって、なんて分からない。彼らに余計な心配をかけたくなかったからか、彼らが自分とは違う事を強く認識してしまったからか。…自分が、その手で人を殺めてしまった事に対してか。

消えない残像が何度も何度も頭を過っては、溢れるそれに拍車をかける。酔っているから余計なのかもしれない。ぐらぐらと揺れる視界、遠のいていきそうな意識。…このまま眠ってしまえたら、明日はもっと楽になれるのだろうか。吐き出せるだけ吐き出せば、そうしてこの世界に"慣れ"れば――




バァン_!!


「っ、?!!?」

「――ライちゃん?」


その時だった。いきなりの破壊音にライはピタリと泣く行為を止める。誰かが近づいてる事にまったく気付けなかったのは狭い空間に自分を隔離していたせいか、その人が忍び足だったからかは分からない。
…そしてあろうことか耳に入ったその声の持ち主は、いつも自分の保護者のように傍にいてくれる彼ではなく、


「…どーしたの?大丈夫?」


…いつも自分にちょっかいを出してくる、彼だった。


*


「――大丈夫?」


セイウチはふら付きながらトイレへと向かうライをしっかりその目で追っていた。そうして何分たっても帰ってこない彼女を懸念して、その場にかけつけたのだった。

彼女が泣いている事はトイレに入る前から分かっていた。本人はきっと声を押し殺して泣いているつもりだったろうが、騒音から離れたその場でそれは外に丸聞こえで、何かあったのだと思ってセイウチはライに了解を取るまでもなくトイレのドアを蹴破ったのだ(やる事がいちいちすごい事は今更なので、スルーしておくことにするが)。


「っ、」


彼女が誰にも見られたくないが為にそこで泣いていた事は重々承知で、セイウチはライをつれて甲板へと出る。今ならそこに誰もいないはずで、酔いを醒ます目的もあって、心地よい風に当たれば少しは気が紛れると思ったからで。
それでも、彼女の涙は止まる事を知らない。大丈夫か何かあったのかと聞いても首を横に振るだけで、ライはまだ口を割らない。


「ライちゃん」

「ぐすっ、」


トイレから持ってきたトイレットペーパーで溢れる涙と鼻水を拭き続けるライ。そのゴミが増える一方で、セイウチも結局どうしたらいいかわからなくなっていた。

出会ってから今日に至るまで、船長ペンギン、ベポの次に自分がライの傍に良く居たと思っている。だが、目の前で彼女の泣き顔を見るのはこれが初めてなような気もした。いつも彼女は笑っていたから。自分の冗談にもちょっかいにも本気で怒ることなく、良きツッコミを入れてくれた。それが楽しかったし、セイウチは嬉しかった。


「…………ライちゃん、」


だからそう、泣いている彼女への"正しい"接し方をまだ自分なりに確立させていないから、どうしたらいいかわからなくて。


「っ…!」


セイウチは、そっとライを腕の中に閉じ込めてしまった。


「…大丈夫」


ポンポンと、まるで母親が子をあやす様に、ゆっくりとしたリズムで頭を撫で続ける。いつもの冗談が効かないならば、"僕らしく"いる必要なんてない。


「落ち着くまで待ってるから」


いつもと180度違うセイウチの優しさに包まれ多少驚いたが、ライはそれを拒むことをしなかった。寧ろそれにいつかの彼が重なった気がして、そうして溢れるのは涙だけに止まらなくなっていく。


「…………ウチ、」

「?」


あの時の状景が、その感触が、今でも鮮明に焼き付いて離れない。そしてこれからも、きっと消え去ってはくれない。あの時は正当化することで何とか乗り切っていたけれど、後から後からこみ上げる罪悪感、そして、彼等との"相違"に、ライはついに押し潰されてしまったのだった。


「…人を、殺した」


人を殺してはいけない。たとえそれが正義でも、自分の身を守る為でも、そう思って生きてきた。…否、自分の住んできた世界でそれを"躾け"られていた。この世界の摂理とそれが違う事も分かっているつもりだが、だからといってそう簡単に割り切れるものではない。身体と心が覚えきってしまったそれを切り離すのは難しい。ましてや人の生死に関わることなら、専ら。


「…人を、殺したんだよ」


けれど、それだけが問題ではない。やはりこの世界は"畏怖"で出来ている。海賊がどういうものでハートの海賊団だってそれと同じだってことも、最初から分かっていた。でも、彼らが与えてくれる平和に甘えて、彼らも自分と同じ"人"であって、"心"をちゃんと持っているいい海賊なんだって、思い込んでしまっていた。


「なのに、なんで、」


怖い体験を何度もした後でも、この世界に慣れようと、その溝をも埋めようと努力した。大丈夫だって、やっていけるって、どこか安心しきって、クルーの一員になったという上辺だけに喜んで。確証もないもので自分は強くなったと思い込んでしまっていた。


「喜ぶの…?」


でもそれは…そう、全て、"つもり"だった。頭は理解していても実際体感すれば―目の当たりにすれば、それが多大な衝撃となって自分を打ち砕くものと化す事でさえ知らずに。

人を殺めて笑っている船長、その後ろで楽しそうなクルーたち。戦うことに喜びを感じてそれを厭わない。それが彼らの全てであることだって。
人を殺めたのにもかかわらず、対峙した海賊と同じような非道をしたのにも関わらず、命を助けてもらえるならそれがヒーローと化す事だって。


「っ、わからない」


自分には、分からない世界。


「人を殺すって、簡単な事やないよね…?」


たとえそれが、自分の身を守る為でも。


「…何も思わへんの?」


死にゆくそれに、目もくれないで。


「…なんで、そんな普通でおれるの?」


人を殺めた手で、仲間と肩を組んで。


「…なんで、そんな笑ってられるの…?」


人を殺めた後だと、思わせないくらいに。


「みんななんでそんな顔出来るん?…なんで、なんで」

「……」


セイウチはライの口から溢れ出る思いに、何も返さなかった。ただ優しくポンポンと、あやすように頭を撫で続けるのみ。


「…一緒、戦ってるときのみんなの顔…今の顔と変わらへん」


いつも通り、平然で。恐怖も罪悪感も何もない。


「やっぱり、海賊って…怖い」


そうして一瞬にして崩れた、彼らとの間に芽生えた感情。自分が考えていたよりも、それはもっともっと残酷で、非道である事を知ってしまった。自分は彼らの表面しか知らなかった。…否、それしか見ようとしていなかったのだ。


「ウチはやっぱり"この世界"に、おれへん――」


ライはキュッと、セイウチの服を握る。

知らない、誰も知らない、彼女の悲痛の叫び。それはやたら深くセイウチの心に刺さった。
まさかそんな風に彼女が考えているなんて、彼は夢にも思っていなかっただろう。…セイウチは、ライの素性を何も知らないから。


「ウチ、やっぱり――っ!?」


そうして、突然だった。フッと一瞬離れたセイウチの身体。体で感じていた彼の温もりは、けれどもすぐにまた己に熱を加える。


「っ、?!」


自身の、唇に。


「っセイぅ…っ!」


息つく暇もないくらいに、セイウチはその隙間を埋めるように、ライを自身の方へと引き寄せその唇を奪っていた。…何故、なんてそんなのセイウチ自身だってわかっていない。
ただ、もう堪えられなかったのだ。海賊というものを、"自分"というものを、彼女に否定されるのが。彼女の泣いている姿も声も、もう見たくなくて、聞きたくなくて。


「んっ、――」


セイウチはライを壁際へと押しつけて、貪るようにその唇を深く味わい始める。酒の匂いと、彼女の香気。自身を引き離そうと少し抵抗を見せるその動作も、それとは裏腹に時たま漏れる甘い声も。…セイウチをその気にさせるのにそれは十分すぎる要素となって空気に溶けていく。


「ーーーー、」


今自分が何をしでかしているのかも、セイウチはとっくの昔に気づいていた。…でも、もうどうでもよかった。今はそんな事、どうでもいい。目の前の誘惑に勝てずに、誘われるがままに。言葉を紡ぐ事も、そうして自身から離れることも許すまいとするかのごとく、


「ライ――」


セイウチは、その行為を止めることが出来なかった。



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