「――…、」


目を覚ませば目の前にローの姿があった。吃驚した。何故病人と同じベッドで彼は寝ているのだろう。いや、確かにここは彼のベッドであって何もおかしい事はないのだが、いやしかし病人と同じベッドで寝るか、普通。


「……」


あれからどれくらいの時間がたったのかはわからないが、おそらくもう夜更けだろうと思われる。彼から漂う匂いはお風呂上がりである事を語っており、そうなれば彼が布団に入っているのも納得出来る…いや、だから、そもそも、


「……、起きたのか」

「!」


彼がここに入ったのはきっと数時間前くらいだろうか。結局あれから―昼過ぎから、何度か起きては寝て起きては寝てを繰り返していたから。


「…気分はどうだ?」


その度に思う事があった。その度にいろいろ考えた。
…その度に、心は苦しんでいた。


「…だいぶ、いいです」


しかし思った以上に、今はスッキリした目覚めだった。それは彼が隣で寝ている事に驚いた事も含まれるのだろうが、既に熱が無い事は医学をかじっていない自分でもわかる。薬と長い休息が効いたのだろう。


「…なァ、ライよ」

「……、」


名を呼ばれても返事が出来なかったのは、彼を見た瞬間に湧きおこったとある感情に支配されたからで。彼と目が合えばどこか恐縮する感じは今までにもあったようにも思うが、きっと今の感じはそれとは違う。


――、


彼が怖いのではない。距離感が分からず、隔たりを感じているのではない。

違う。

きっと今自分は、彼に"隠し事"をしていると気に病んでいる。心に巣食った蟠りを、彼に見透かされるのが怖いのだ。


「……」


一瞬見せた表情はしかし、どこか気まずそうに伏せられて。ローは出かかった言葉をグッと飲み込んでしまった。

分かっている筈だった。彼女は自分とは違う人間だって事も。己らが手を差し伸べなければ、彼女がこの世界について来られない事も。彼女が自分を避けるのには理由があって、けれども自らそれを曝け出そうとはしない事も。…たとえ拒まれたとしても、全てを受け入れなければ前に進めないことも。


「……今日は、背を向けねェんだな」


彼女の眼が大きく見開かれる。ローはそっと、ライをその腕に包み込んだ。


「…っ!」


まさかの彼の行動に思考回路は一瞬停止し、刹那ぶわりと揺れる視界が熱く変わった。

…隠しきれない、そう思った。
いつもその温もりを感じていた筈なのに、今日はどこか違う。痛いくらいに温かくて、苦しいくらいに優しくて。
彼に感じていた恐怖も、敬意も、どこかに飛んでしまった。淡く脆く、ライの心の中で頑なに結ばれていたそれはいとも簡単に融解していく。


「っ、私、……――」


まとまっていない自身の思いを相手が理解できる事も考えぬまま、ライは泣きながらしかし懸命に言葉を紡いだ。


わかっているつもりだった。この世界が"そういった"世界である事。戦う事が常で、殺戮が行われている事。自分はそれを見てきた。そういったシーンも含め、全てを見てきたつもりだった。けれどもそれは、あくまで紙面上の出来事。現実はそれと似ても似つかないものだということをこれっぽっちもわかっていなかった。

最初にそれを感じて、平和な世界で生き過ぎてきた自分はそれを理解できないこともわかっていたくせに。この世界の摂理という迷路に入り込んで、周りが見えない事を良い事に淡々と進み続けてきてしまった。自分はトリップという名の現実逃避を、結局楽しんでいたんだって。


「……――」


ローはポツリポツリと放たれるその言葉一つ一つを受け止めるように、ポンポンとライの背中を撫で続ける。

やはり、思っていた通りだった。彼女はあの時の出来事に悔悟し続け、そしてそれを受け入れられずにいる。どうして最初から気に留めてやれなかったのだろうかと今更後悔しても仕方がない。自身もその事実から、逃げようとしていたのだから。


「……私…この船に、いられるかな、」

「...」

「...この世界に、おって、ええんかな...」


殺戮の繰り返される世界に居られなくなる。それはこの船に居続ける事が難しくなる、イコール船を降りるという事に繋がるだろう。けれども、それを彼女自身が断定でなく疑問として己に投げかけるという事は、彼女もまた何かに迷っている証になる。
いつか…いや、きっとあの時―彼女がこの世界の"日常"に触れてから、彼女の口からその類の言葉が出る可能性があることをローは予知していたのかもしれない。だから先手を打ってきたつもりだった。少しずつ慣れることで免疫が付けばそれでよかったのに、けれども結局それが仇となってしまったのだ。…例えば箱入り娘のようにこの部屋に鎖で繋げておけば、彼女があんな目に遭う事も、こんなに苦しむこともなかったのかもしれないのに。


「、……船を降りて、どうするつもりだ」

「…」

「充ても何も、ねェんだろうが」


そう、何もない。自分が知る限りでは、彼女はまだ自身の世界への手がかりを微塵も見つけられていない。だから船に乗せた筈だった。この世界で女1人―ましてや非力で無知な異世界人が生きていけるとは思えなかったからだ。

何故こんなにも彼女は弱いのだろう。力を込めれば折れてしまいそうなその身体も。この世界の摂理に対応できないその精神も。
…そう、だから守ろうとした。自分がいれば、彼女は無事平穏でいられるとどこか過信があった。…けれどもそうじゃない。そうじゃなかったのだ。自分の力だけではどうにもならないことが存在するなんて、想像だにしていなくて。それを認めたくなくて、それが怖くて自分は逃げていたのかもしれない。

今までそんなモノに直面した事が無かったローは、それによってフラストレーションを溜めだす。そしてそれは次第にローの手に現れていって、


「……い、痛い、ですけど、」

「…うるせーハゲ」

「、ハゲて、ない…」

「その口塞ぐぞ」


すみません。怖気づいたのか、ライはより一層縮こまってしまった。
マズかったかとローは多少後悔したが、刹那キュッと握られた自身の胸元。


「…私、…どうしたらいいですか、」


今になって、ライはわからなくなっていた。自分は一体何に怯えているのだろう。
人を殺めた事か。彼らとの相違を感じた事か。この世界にいられない事か。

…否、違う。

それによって、彼らと一緒にいれなくなることではないのだろうか。


「…私は…っ」


この世界に慣れようと必死だったのはこの世界で生きていく為でもあるが、それ以前に彼らと共にいたかったからではないだろうか。海賊として自分を認めてくれた彼らを拒む事しか出来ない今の状態を、きっと自分は悔やんでいる。
彼らは自分とは違う。そうして彼らを怖いと思ったのも事実。…けれども一番怖いのは、彼ら自身にその相違を明確にされることなのではないだろうか。

ここにいたくない、この世界にいられない。そう思ったってどうにも出来ないのが現実。だから結局、自分がこの世界の摂理に慣れるしかないということは頭の隅では分かり始めているように思う。
けれどもそれには相当な時間がかかるだろう。それに受け入れられるようになるのかも定かでない今、それよりも先に彼らの足手まといとなって、そうして見限られ見捨てられるのを恐れている。船を降りる選択を迫られ、一人置き去りにされることを。この世界で今彼らを失ったら自分がどうなるか―その先が、見えない為に。


「……馬鹿野郎が」

「っ」

「だったら最初からこの船に乗せたりしねェ」

「…!」

「誰もお前を責めたりしねェよ。……俺たちは、仲間だろうが」


溢れるそれを止める術を知らずに。ライはローの胸で泣きじゃくった。ローは何も言わずに、今度は優しくあやす様にその頭を撫で続ける。


「っ、ごめんな、さ――」


曝け出された彼女の心情。どれほどの葛藤なのか、それはローには分かり得ない。それでも彼女は壁を作りすぎている、なにもかも1人で抱え込みすぎている、甘える事を、知らなさすぎると思った。


「……謝らなくていい」


他のクルーにはどうか知らないが、自分に謙遜している感じが最初からあったのをローだってわかっている。以前に父親と2人きりと言っていたから自立心が人一倍大きく元々そういった性質があるからだと勝手に思っていたが、自身が怖いという元も子もない理由が大きく占めていることだって自負しているつもりだった。
しかし最近、ローにはそれを取っ払って欲しい気持ちが芽生え始めていた。彼女から歩み寄って欲しいと思ったのもその気持ちがあるからなのかもしれないが、しかしそれが何故かという理由は自分でもハッキリしていない。


「…お前は何も、悪かねェよ」


それを感じるという事はそこに愛情や恋慕といったものがあるようにも思うが、それらが皆無であることだけはローの中でハッキリしている。
その一番の理由は、一つのベッドに入ってこんなにも長い間"何も無い"ということ。おそらく最初から肉体関係を持とうなどという感情が無かったのだろう、じゃなきゃとっくの昔に抱いているようにも思う。それでもきっと今後もそういった感情は自分には湧きおこりえないと、ローには妙な過信があった。


「っ……」


しかし彼女とそういった関係を持たなくとも、それでも自分の傍に彼女を置いておくのにはそれなりのワケがあるのだと思う。それが何かはやはりわからない。最初に感じた嫌悪から徐々に芽生えた親近感は、そう、ある意味では温情や情愛に近い気もして。きっとそれこそ最初にペンギンが感じていた"親心"のような――


「…………」


…しばらくして、規則正しい呼吸音が隣から聞こえてきた。ようやく眠りについた彼女の顔をそっと覗きこめば、くっきりと目じりに残った涙の跡。


「……――」


ローはそっとそこへ唇を落とした。

…願わくば、それがもう二度と流れぬように、と。



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