「あ、…おはよう」
「おはよー」
交わした挨拶に何かしらの情念が含まれるのはきっと双方に同じで、しかしそれが同じベクトルを向いているかどうかは定かではない。互いに何かを意識しているようなその空気感が妙に心地いいだなんて、きっと思っているのはセイウチだけだろう。
「もう平気なの?」
あれから、二日。部屋に篭りきっていた彼女はその姿をようやく現し、セイウチとまともに話すのもこれが初めてだった。船長もといベポはちょくちょく顔を出していたようだが、他のクルーでこの二日間彼女と話した奴はそういないと思う。セイウチが知る限りでは、あのペンギンでさえも。
「うん、大丈夫。ありがとう」
あれから船長とペンギンが"その件"について追及してくる事はパタリと無くなった。恐らく船長が何かしらペンギンに伝えたのだろうとセイウチは思っている。まぁ毎日毎日詮索されればそれはそれでウザったいのだが、そうであっても彼がそれを諦めたとは微塵に考えられなかった。
…そう、聴取の対象は何もセイウチだけでは、ない。
「…そっか、ならよかった」
すぐに視線を逸らし俯き加減に話すその様は顔を合わせた時から続いていて、ぎこちなさが前面に出ている彼女は非常に分かりやすい、いや、分かり易すぎた。良いように言えば素直なのだと思う。隠し事をするのが下手で、心配をかけまいとしているのに逆にかけ過ぎてしまうタイプ。
ただ、それが分かったところでどうすべきかセイウチは悩んでいた。一体今の彼女が何を懸念してそんな表情をしているのか、それがセイウチの思うところにあるのかが定かではないから。
だからセイウチは彼女の言葉を待った。…全てはそう、彼女の次の一言で決まる。
「…あの、セイウチ」
「ん?」
「その…迷惑かけて、ゴメン」
「…………迷惑?」
ドクリ、ドクリ。柄にもなく上がる鼓動が果たして何を期待しているのか、なんて。
「ウチ、甲板で寝てたって…セイウチが最初に見つけてくれたんやろ?」
「…あぁ、うん」
「ウチ…なんもしてない、よな?」
「……覚えてないの?」
コクリ、と一つ頷いた彼女のそれに嘘は無かった。いつもの事を思えば彼女に呑んだ次の日の記憶が無いのは当たり前であって、しかしきっとどこかで切にそれを望んでいたようにセイウチは思う。
分からない。彼女との関係に皹を入れようとしたのはまぎれもなく自分であって、それでもそれが割れずに済んでどこか安堵しているのはペンギンにそれが知られるルートが断たれたからか、…この微妙な空気感に酔いしれているからか。
「……」
ドクリ、ドクリ。先ほどとは異なるビートを刻み始めたそれはまるで、何かのカウントダウンを示すかのようにセイウチの鼓膜を揺らした。共有される筈だったそれがただ一人自分の手中にあると知って湧く感情は、果たして何と表せられるだろうか。
「…え、ウチ…なんかしたん…?」
…もし、ここで全てを晒せば。彼女はその表情をどのように変えてくれるのだろう。その先にあるのは焦燥か、呆れか、軽蔑か、…それとも、
「したよ」
「っ、え?」
「…っはは、嘘ウソ。な〜んにもしてない」
「本当?」
「僕が嘘つくと思う?」
「…寧ろ嘘しかつかへんやん」
セイウチの言葉をいつものように貶す彼女。そこにはもう鬱積した空気は無くなっていて、そう、いつも通りの彼女と自分がそこに存在していて。
「…やっぱり、笑ってる方がいい」
「?」
「女の子には笑顔が一番だよ」
そう言ってセイウチはその場を去った。何も仄めかさず、その密事を一人心に留めたまま。
「…………」
分からない。今あるこの感情を表す言葉は見つけられそうになくて、そうしてこの現状を変えようという気がセイウチに起らなかったのは、彼女の顔にまたと悲しみを見たくなかったからか、…彼女との間に生まれたこの微妙な空気感を保ちたかったからか。
「…僕達は、何も変わらない」
――変えられない
それはまるで自分に言い聞かせるように。静かな空気に溶けて消えていった。