V



「――……?」


鼻がいいのは動物の特権。そして今、それは大部屋の扉を開けた瞬間からその機能を発揮し始めていた。
何か、匂いがする。匂いには敏感だから不快なそれにはすぐさま気分が悪くなるのだが、今はそうではない。甘い匂い。うん、自分の好きな匂いだ。


「アザラシ…何作ってんだ?」


それがキッチンから漂ってくるものだということはすぐにわかった。しかし、その匂いがキッチンからしてくることの理由がベポには見当たらない。今日は何か特別な日だったかと思考を巡らすも、そういや誰かの誕生日だからといって甘い匂いがこの船を漂ったことなど無かったという事実に気付いては、より深まる疑問。もしかして何か秘薬でも作ってるのか、アザラシがついにお菓子作りに目覚めてしまったのか、とそれた方向に気が行っている間に着いたその場所には。


「…ライ?」

「ベポ!」


いつも通りいるキッチンの長アザラシと、甘い香りに包まれて楽しそうなライの姿があった。


「匂いにつられてきたな」

「うん、すごい甘い香りがしてさ」


ドスドスと彼女の方へと寄れば、鍋の中で溶かされた茶色く光沢を放つ甘い香りのものに目が行った。匂いの正体は、これのようだ。


「…何つくってるんだ?」

「生チョコだよ。ベポはチョコ好き?」

「うん、好きだよ!……でもどうして作ってるんだ?」


今日は何かあったっけ?と尋ねれば、彼女はニッコリ笑ってバレンタインの日と教えてくれた。ばれんたいんとは何ぞやと思っているとそれを察してか、手元の作業を続けながら彼女はそれについて説明をくれる。隣にいるアザラシも知らなかった今日という日は、彼女の国での一つの儀式のようなものらしい。日頃からお世話になっている人へ感謝の気持ちを、好意を寄せる相手に愛の告白を、甘いもので伝える。とにかく、とっても幸せになれる日のようである。


「いつも皆にはお世話になってるからね」

「そんなことないよ!」


型に流されていくそれをおいしそうだと見つめていれば、今すぐには食べれないから後でね、とお預けを食らった。鍋に残ったそれを指で絡め取って舐めると、口いっぱいに広がる甘い味。モテモテだったら、この船に積めないくらいのチョコを貰えたりして、なんて。きっと船長やペンギンだったらそれくらい頂けちゃうんだろうとベポは思った。シャチは…、うん、言わないでおこうか。


「たくさん甘いものが貰える…そんな良い日があるんだなぁ〜〜」

「しかしだなベポ、世の中はそんなに甘くないぞ」

「え?」


その一ヶ月後、チョコを貰った人はその相手に何かお返しをしなければならないらしい。ギブアンドテイク。たくさん貰えるのは嬉しいがその分お返しを考えるのも大変だろう。船長だったらきっと面倒くさがって返さないだろうが、ペンギンは律義に返しそうであるともベポは思った。


「そうなのか」

「ふふ、ベポ、口についとるで」


まっ白い毛が台無し、と笑いながら濡れタオルでベポの口元を拭いてくれる彼女を間近で見ていると、嬉しいがなんだか照れくさくなってベポは片づけをし始めたアザラシに目を向けた。


「お昼のデザートに食べよっか、チョコ」

「アザラシ、昼飯!!」

「さっき朝飯食ったばっかだろーが、馬鹿」

「食いしん坊やなぁ〜」


楽しそうに笑うライにつられて、ベポも笑った。

彼女がこの船に乗ってから、どこか穏やかな空気が流れるようになった。今までにないその雰囲気をベポはいつの間にか大好きになっていて、そして彼女の事も大好きになっていて。


「…ライはお返し何が欲しい?」


いつも彼女がここにいてくれることが嬉しくて。いつも彼女がここにいてくれることに感謝している。


「え?何もいらんよ」


こうして一緒にいてくれるだけで、この船にいられるだけで十分。最高の笑顔を残して片付けに立った彼女の背中を見つめながら、ベポは手元にこっそり隠し持ったチョコの残骸を口に頬張った。


「…甘ェなぁ、」


彼女への感謝を忘れることなんて、この先もずっとない。それでも、一ヶ月後の特別な日には何か特別なプレゼントをしたいと、ベポは素直にそう思った。



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