誰もが寝静まった家へと帰り、ぼんやりと室内を照らす月明かりだけを頼りに、鏡を見つめて、長く伸びた髪をまとめ直す。乱雑にかき抱かれたせいであちこちが酷く絡んで、鬱陶しいことこの上ない。一房ひとふさ丁寧に梳いていると、櫛がすっと抜き取られた。
「おかえりなさい、皇さま」
「ああ、起きてたの」
「ええ、お帰りをお待ちしておりました」
桃李はやわらかく微笑むと、私から奪った櫛で私の絡まった髪を解し始める。最初の頃はこの、何も話さないわけでもなく、何か話すわけでもない時間がたまらなく好きで、どれだけ遠くへ赴いても、帰る家はここなのだと胸が暖かくなった。でも、今ではまるで縛られているようで、縫いつけられているようで、窮屈でしかない時間になり下がっていた。それでも明日もこうしてこの時間が訪れるのだろうと思いつつ、それを回避しようとしない私は、どこか、この窮屈さすら愛しかったのかもしれないし、誰といつどこで関係を結んだとしても、頭を垂れて私に従順に付き従う桃李が明日もここにいるものだと、無意識のうちにあぐらをかいていたのかもしれない。
「明日、朝早いから」
「そうですか、朝餉はどうなさいますか?」
「いらない。桃李は好きに食べて」
自分の髪がある程度整ったことを鏡で確認し、少し寂しそうな顔をしている桃李から櫛を奪い返して、頭を二、三度撫でてやり、何も告げずに部屋から出る。すん、と鼻をすする音がしたのは、聞かないふりをした。桃李は私の前ではいつも笑顔を貼り付けている。泣くことも、怒ることもない。それが珍しくてちょっかいをかけるうちに契りを交わしていただけ。他に私の妻に相応しい振る舞いを出来る人間がいないから隣にいるだけ。私は最初からそのつもりで関わってきたし、桃李も桃李で、私にたいしてそこまで興味がないものだとばかり思っていた。だからどれだけ時間が立っても、桃李がこうして私のために泣いていたとしても、私は一夜限りの遊びをやめなかった。けれど、桃李がそれを咎めることもなかった。
契りを交わすよりも前にぼんやりと考えていたよりも、私にとって夫婦というのはあまりに難しかった。ただ一人を愛し、ただ一人に愛される。今までさっぱりとした関係しか結んだことのなかった私には、漠然とした問題が広がりすぎて、もはや何をしたらいいのかも分からなかった。愛されたいわけでもなかったけれど、ぞんざいに扱われたいわけでもなくて、愛したいわけではなかったけど、大切にする気がないわけでもなかった。私が中途半端な位置にいたせいか、私たちには愛しあうがゆえの接触も、愛しあうがゆえの喧嘩も、何一つなく、いつでも私が苛立ちを一方的にぶつけて、桃李は困ったように受け止めるだけだった。その度に自分が子供だと思い知らされるようで、そう実感すると余計に苛立って、どうしようもなくやるせなくて、ぐるぐると巡り巡る感情を自分で抑えることができなくて、桃李に背を向け続ける生活をやめることができないまま、今に至る。
けれど、本当は分かっている。私の髪を梳かすときに、酷く優しい表情を浮かべていることを。頭を撫でてやるときに、どこか嬉しそうな顔をしていることを。だから私はこの鬱陶しい髪を切り落としたりしないし、思い立ったら桃李の頭を撫でている。桃李のためだと、ほんの気紛れだと、表面ではそういう顔をして取り繕っているけれど、私は、本当は、その顔が好きだった。泣き顔じゃなくて、その笑顔が見たかっただけなんだと思う。縛られるようで鬱陶しかったのは、きっと、自分のほうだった。不器用だから、こうして傷付けてからそれを癒すという形をとらなければ、その笑みを引き出せない自分に、腹が立っていたんだと思う。でも、それを認めるには、少しだけ、勇気が足りなかった。
▽
ただ一つ、愛していると伝える勇気があれば、そう伝えることさえできれば、桃李は助かった。花千代が言っていたことは、残酷だったけれど、容易に胸に落ちた。
「三笠桃李は、お前に愛されたかったのです。それが現世であれ、来世であれ、お前に愛されるという事実があればよかった。だからこそ、来世で再び息吹くであろう自身の魂に、都竹皇たる人物に愛されるようにと願いを込めて、自ら命を絶った。それだけのこと。お前には分かるはずです。三笠桃李が、どれほどまでに、お前からの愛を渇望していたか」
私の目を真っ直ぐすぎるほどに見据えてはいたものの、責めるような口調ではなく、かといって柔らかいものではなかったけれど、花千代は事実を述べるように淡々と言葉を紡ぐだけだった。私が生者だからだろう。もしも私が花千代に会う方法を知らずに、桃李の後を追うように、命を絶ってここに来たのだとしたら、この言葉はもっと重く、鋭いものになっていたはずだった。それが余計に私を苦しめる。いっそのこと、お前が悪い、お前のせいで死んだ、お前があの時に一歩を踏み出していれば彼女は生きていた、そう責めてくれればいいのに、花千代はどこまでも公平で、平等だった。だから自分自身で精一杯なじってやった。私が悪いと、ちゃんと愛していればと。あの冷え切った空気と、冴えた頭とは反対に指一本ですら動かせなかった自分の身体と、桃李の濁った瞳を思い出して、何度も、なんども。しかしそれではおさまりがつかず、桃李に直接謝りたくなった。許してくれなくてもいいし、どれだけの報復が待っていても構わないから、自己満足だと分かっていても、ちゃんと桃李に伝えたくなった。
「花千代、桃李はいつ、どこに転生するの」
私を惨めに思ったのか、それとも誰にでも教えるのか、花千代は口を開く。
「自ら命を絶った者は、千代の管理する輪廻から外れるのです。魂が浄化されぬまま、不規則な転生を繰り返すことになり、その場所も時間も予測することは千代でさえ不可能といってもいいでしょう」
「でも、転生はするんだね」
「転生と言う他ないのでその言葉を使いましたが、正しいのかは千代には分かりかねます。世が予測できない生は必ずどこかで清算するときがくるのです」
「ごめん、ええと、分からないかも」
「……ふむ、決められた時が来ると避けられぬ死が待っているといえば理解できますか」
花千代の濁りない瞳に、背筋がぞくりとした。何が言いたいか、少しずつ、分かってきたような気がする。花千代がそうしようと誘導しているのか、私が受け止められるのが遅いのかは分からないけれど、決定打となる言葉を受け入れる覚悟を決めようとしている自分がいて、息がつまる。浅い呼吸を繰り返して、焦りをごまかすように口元を釣り上げて、花千代に向き合う。
「決められた、とき」
「三笠桃李の場合はおそらく、十六の年と、三の月と、二十の日を過ごしたのちに死が訪れるでしょう。清算の時間がどこまで正確かは分かりませんが」
「わからない、わか、ごめん、り、理解しようとはしているんだけど、わからなくて……もっと、私にも分かるように、教えて」
「過程や事象を一切含めずに事実だけを告げるなら、彼女は現世、否、前世で生きた分しか生きることができない、ということですよ」
ようやく感覚を取り戻したはずの指先が、また、動かなくなった。私のせいで桃李があまりにも酷い運命を背負ったことは理解できた。自己満足の謝罪なんかじゃ、到底足りない、足りるはずがない。膝が崩れて、ずっと遠くまで広がる白い床に手をついて、あちらこちらに視線を泳がせる。私のしたことが、どれだけ重かったか、分かったつもりでいただけだった。桃李を死に追いやった挙句、桃李が望んだ未来を奪ったんだ、私が。冷え切った頭に花千代の声が響く。たったの十六年しか生きることができない。手のひらが嫌な汗でじっとりと湿る。ぐっと握りこんで顔をあげる。
「花千代、ねえ、桃李を花千代の輪廻に戻したい、どうしたらいい?」
「なぜですか?」
「なぜって、」
「来世の三笠桃李はお前を覚えてなどいない。お前が存在しない十六年は、お前が縛る十六年よりも、百まで生きるよりも、よっぽど幸せかもしれない。それを邪魔するとでもいうのですか。それもお前のちっぽけな自己満足のために」
先ほどまでの話し方とは違って、はっきりとした敵意を感じた。お前が首をつっこんでもいい領域ではないと聞こえた気がした。けれど引きたくなかった。花千代の言うことは最もだし、私が何を出来るのかは分からないし、私がむやみやたらに引っ掻き回せば状況は悪化するかもしれないのに、桃李のことを思うと、どうしても止まることができなかった。ここまで追い詰めてしまった代わりに、果てのない幸せを掴んでほしいかった。
「そう、自己満足。自己満足だけど、幸せな十六年より、幸せな百年を送ってほしい」
「状況が悪化したらどうするのですか。彼女が生きていられる時間が短くなることも、不幸を引き寄せる存在になることも、けしてあり得ないことではありません」
「私が守るよ、この身をかけて」
「見返りなどありませんよ」
「いいよ、今までの分を返すだけだから、その見返りなんてあるわけないでしょ」
いつも花千代がそうするように真っ直ぐと目を見つめる。白と黒の目、真実を見出す瞳と、嘘を見抜く瞳。幼い見た目をしているのに、この目を見ると、圧倒される。息をするのも、時間も、何もかも忘れて、見入ってしまう。どのくらいそうしていたかは分からないけど、折れたのは花千代だった。ふう、とわざとらしく溜息をつくと、笏を口元にそえていくらか和らいだ目をこちらに向ける。とはいえどこか冷たくて、認めたというよりも呆れた、諦めた、という言葉のほうが合いそうだ。
「……輪廻に戻す方法はただ一つ、三笠桃李の死の運命を絶ち、期限よりも一秒でも長く現世に留まらせること」
今この瞬間に死ぬことも覚悟していた私に告げられたのは、あまりにもあっけない条件だった。口の中で復唱してみても、そんなことかと思えるほどに簡素で、拍子抜けだった。
「……それだけ?」
「そう思うのならその身をもって叶えてみせるとよいでしょう。理を無視して入り込んだ異分子を、世界が弾き飛ばそうとする、その理不尽で強大な力に抗い、彼女の死を覆しなさい」
花千代はいつものように厳しい口調でそう言うけれど、私にはどうしても、私と花千代があそこまで言葉の応酬を交わした意味を見つけ出すことはできなかった。