桃李が生きられるその期限を、一秒でも引き延ばせばいい。どうしてたったそれだけのことを、ああも口論じみた言い合いをしてまで教えてくれなかったのか。正直なところ、そう思っていた。なんだかんだ花千代の指示された通りの時間に指定された場所にいけば、気を引き締めていた私が拍子抜けするほどあっさりと、転生した桃李とは出会えたし、やっぱり花千代の力でどうにもならないことなんてないと、しっかりとした根拠に基づいた確信があった。あとは、桃李が生き永らえればいい。強気で挑んだ私は、世界の理不尽さと強大さを嫌でも理解することになる。
▽
一度目と二度目は、私自身ではどうにもできない結末だった。世の中に存在する技術をかき集めても治らない病。唐突に訪れた事故。どうしようもなかったと自分に言い聞かせて、三度目に挑んだ。次はそういう、どうしようもない事象がないといいと、本気で思っていた。三度目の正直、その言葉を心から信じていた。そうじゃなかった。私がどうしようもできないのではなく、どうにもならないことを、誰がどうしようと変わらない結末を、世界が無理やり作り出している、ただそれだけのことだけだった。
いま、立ち尽くす私の前には、自ら命を絶った桃李の身体が横たわっていた。前世と違うのは、桃李がこの道を選んだ理由が、私が愛を伝えなかったからではなく、人生に疲れたからだという。残された手紙には愛してくれてありがとうと、少し滲んだ文字が躍っていた。十六年間、桃李がそうしてくれたように、優しく扱ったし、溢れるほどの愛を与えたのに、それに応えてくれる桃李はここにはいなかった。
もう三回目というべきか、まだ三回目というべきか。私がどうあがこうと”あの日”がくると死んでしまう桃李と、それを茫然と見つめる私は、何度繰り返しても変わらなかった。あのとき、花千代が私に言ったことは正しくて、花千代が私のためにしたことは優しさだった。世界は桃李の存在を、異端の凱旋を、絶対に許さない。あと一歩で届かない。あと一歩で救えない。それは、桃李の初めての死を見たときよりもずっと残酷で、私の心を深く抉ってゆく。
ちゃんと愛を伝えているのに、原因はそれではない。こんなにも近くにいるのに、理由はそこにはない。あの時よりずっと大人になったのに、世界はそれを望まない。手を繋いだ。口づけをした。体だって重ねた。不器用な私の精一杯の愛情表現だった。私の想いを桃李に伝えるのは初めてのことだった。桃李はそれを喜んで受けてくれた。それが嬉しくて、今度こそは助けたいと思えて、惜しみなくすべてを差し出しても、約束の時間になると、強く握っていたはずの桃李の手はすり抜けてしまう。
「花千代、お願い、次は、次こそは、たすけるから」
「……もう、今世でのお前の寿命は使い果たしました。こたびの転生で、お前の魂は浄化されなくてはなりません」
「まだ、たすけてない」
「この70年あまりで分かったでしょう、三笠桃李はお前には救えない。お前の力が足りないのではありません。この世はけして、捻じ曲がることはないのです」
いつものように言い放つ花千代は、どこか少しだけ凛としていた。閻魔の顔をしていた。それを見て、本当に私の生はここで終わるのだろうと認めざるをえなかった。まだ、終わってない。まだ、桃李は百年間幸せに生きていない。けれど、これから先、何度挑戦しても、何をやっても、きっと何も変わらない。私では助けられない。はっきりした答えは、もう飲み込むことができていた。
「浄化されたら、桃李のこと、忘れちゃうんでしょ」
「お前が罪悪感に苛まれる必要はありません。お前が愛さなかったから、それは理由の一つにすぎません。三笠桃李は自らの意思により、自らの手で、自らを殺めた。それだけのこと。お前の行動以外に重い理由があれば、おそらく同じ道を歩んだでしょう」
「でも他には重い理由なんてなかった。間違いなく私のせいだよ」
「しかしお前は償おうとした。逃げずに、目をそらさずに、三笠桃李にその一生を捧げた。それは他の者にはできぬ行いです。お前のことを愛していた三笠桃李はお前を責めることなどしないでしょう。彼女のためにも休むことが正しい選択ではないですか」
この瞬間、私は、私の罪は、確かに赦された。花千代にではなく、閻魔によって。誰かを傷付けたり、殺めたりしなかった私はきっと、というより必ず、天国への道を示されるだろう。花千代の後ろで淡く光を放つ階段を上って、誰もが羨む楽園へ行くことになる。でも私は、まっさらな魂になっても、どこかでまた踏みはずしてしまう気がした。いま、ちゃんと桃李を助けて、桃李に謝って、桃李に許されないと、この後悔が来世のどこかで溢れ出すような、そんな気がした。私の心の悪い部分が、どうせ忘れるのだからここで逃げてしまえばいいと何度も囁きかける。花千代の優しい眼差しが、もう疲れただろうと私を労う。裁きは暖かかった。今まで横で見ていたものより、考えていたものより、ずっと甘くて、柔らかくて、身を委ねてしまえば、現世で培って来たものを何もかも捨ててしまえば、必ず楽になれると確信すらできた。けれどやっぱり、あの笑顔がちらつく。桃李のあの、控えめで、悲しそうな笑顔。
「花千代」
「なんでしょう」
「私の、これからをあげる。私の魂そのものを、今ここで、花千代にあげる。この先つらいことばかりでいい。悲しいことしかなくてもいい。望むものが手に入らなくても、誰よりも不幸になっても、死にたくなるくらいに苦しくても、絶対に逃げたりしないから、だからお願い。私は桃李を助けたい」
花千代に魂を捧げること。それは、永遠の命を手に入れて、花千代に絶対的な服従を誓うこと。どれだけ苦痛を与えられても死ぬことのできない体、どれだけ残酷なことが起ころうと捨てることのできない記憶。何を考えるでもなく、ただひたすら地獄で囚人を裁き続ける獄卒たちのように、花千代の目になって、手足になって、花千代の一言ひとことを忠実に遂行する駒になる。ほとんど勢いで言ってしまったようなものだった。けれど、ずっと桃李のことを覚えたまま、不規則な転生を繰り返す桃李の元へと、何度となく、正確に辿りつく方法は、これしかなかった。もし桃李を助けることができたとしても、私は花千代に従うことをやめられない。それでもいいと思った。むしろ、未来の私は、全てを捧げて桃李を救ったことを誇るだろう。
「結果は変わらない。お前はしかと理解しているはずです」
「うん、わかってる。でも助ける方法があるってことは、ほんの少しだけだとしても可能性はあるってことでしょ。諦めたくないよ」
「千代の右腕を自称するほどですから、千代に魂を捧ぐその意味を知らないはずがありませんね。千代のために永遠を生きることは、けして楽ではありませぬ。むしろ死を強く望むほど、おぞましいことばかりでしょう。何がお前をそこまでさせるのですか」
私の姿は、花千代の目にどう映っているのだろう。罪人が跪いて許しを乞うように、みっともなく縋って、こうべを垂れて、我ながら醜いと思う。自分の欲のために他人に頭を下げたのは生まれて初めてのことで、どうしても何かを手に入れたいと思うのは今までになかったことで、この覚悟をどう伝えたらいいのかが分からない。心の臓の上に手のひらを置く。花千代の力によって姿は二十と少しの若さを保っているけれど、胸の鼓動はあまりに弱々しく、今にも止まってしまいそうだ。今を逃せばもう、円満に死を迎えることはなくなる。苦しくても、痛くても、全てを捨てて新しい世界に赴くことは叶わなくなる。永遠の生、不老不死。それが夢物語のように甘くないことも、幸せなことでもないと分かっている。花千代は優しいから、いま、やっぱりやめるよの一言さえこぼせば、後ろの階段に私を通してくれるだろう。それなのに、どうしても言えない。言いたくない。本当に馬鹿だと思う。閻魔がわざわざ用意してくれた逃げ道を潰すなんて、誰に話したって相手は腹を抱えて笑うだろう。どうして私はここまでするのかなんて、答えなんて、初めから決まっている。
「桃李を愛しているんだ」
伝えたかったこと、伝えられなかったこと。はじめの一回は罪悪感だった。悪いことをしたから、申し訳ないから、だから桃李を追った。二回目は意地だった。一回目に助けられなかったから、それが悔しいから、桃李に触れた。三回目は挑戦だった。あの時ああしていれば、このときはこうすれば、もしかしたら、そうやって考えを巡らせながら桃李と向き合った。そうして桃李のことを正面から見据えてみて、ようやく私らしくない努力の理由が紐解けた。私が桃李を助けたいのは、桃李のことが好きだから。申し訳なさだとかそんな言い訳じみたことじゃなかった。桃李には笑っていてほしい、そのために幸せになってほしい。もっと早く気がつけばよかった。でもきっとこうならなければ気がつけなかった。どの桃李も厳密に言えば桃李ではないのに、暖かい眼差しを向けられると嬉しくて、甘い声で名前を呼ばれると胸がきゅうっと締め付けられるて、手のひらを重ねるだけで、どうしようもなく、愛しさが溢れて。
けれど、結ばれたいわけじゃない。桃李が私との未来を望むなら、願ってもないことだけど、桃李が幸せになるなら、私ではない誰かとの恋路だろうと、私はそれを支えたいと思う。桃李が笑うなら、私はどこまでも残酷な人間にもなろうと思う。それほどまでに私は、幸せな百年を、桃李に捧げたい。
「この先、お前が自分の意思で死ぬことはできません。お前自身による選択すら許されません。それでも、」
「いいよ」
「もう二度と、輪廻の道へは戻れませんよ」
「うん」
階段が光に溶けてゆく。私の通った扉が消えてゆく。でも、そのどちらも今の私には必要ない。ただ真っ直ぐに、白と黒をそらさず見つめていると、突然ふいとそらされた。花千代から目をそらすのは初めてかもしれない。
「……たまには、折れてさしあげましょう」
「ありがとう、花千代」
私は今から、人ではなくなる。