花千代に魂を捧げてからは、無条件で桃李に会わせてもらえるわけではなく、花千代の元へと辿り着けない魂を誘導してやったり、人間に害を及ぼすような存在を監視したり、与えられた仕事の合間に、桃李の訪れる場所と時間を教えてくれるようになった。今までのように桃李に十六年間べったりついて回ることはできないけれど、そのほうが気負いすぎずに済むからだと思う。誰も寄せ付けない雰囲気を醸し出していながらも、他人も自分も厳しく律しながらも、花千代はどこまでも優しいことを、私は知っている。
「はじめまして。突然ごめんね。私、きみに運命を感じたんだ」
決められた出会いで、決まった言葉を口にする。どうしてかは知らないけれど、桃李はこの言葉が好きなようだった。他の言葉にはない魅力があるのだろうか、他の挨拶よりも違う反応を見せる。顔を赤くして、照れたようにはにかんで、少し控えめに私の名前を聞く。未だにどうしてかは知らない。聞くことができない。それを聞けるほど親密になる前にいなくなってしまうから。それを聞けるほど親密になってもその頃には桃李の死の恐怖に怯えて、そのことが頭から抜け落ちてしまうから。もしも奇跡が起こったら聞いてみたい。起こるか、起こせるかは、分からないけれど。
「私は都竹皇。皇って呼んでくれたら嬉しい」
桃李を助けようと決めて、何度も繰り返すうちに、分かったことがある。私はあまりに桃李のことを知らなすぎた。甘いものが好きなこと、王道といってもいいくらいのべたな恋愛ものが好きなこと、猫が好きなこと、意外と手先が器用なこと。あの頃の私は何一つ知らなかった。ここまで回数を重ねても未だに初めて知ることもあるし、きっと今回もまた新しいことを知ると思う。救えなかった回数が増えて、超えられない一秒に憤ることがなくなって、余裕ができたからなのかもしれない。その余裕が桃李を笑顔にする。皮肉にも、桃李を救えないことが、桃李を幸せにすることと同義になっていた。
「名前、教えて」
その一言で花開くかのように綺麗に笑って、名前を教えてくれる。いつも同じだった。今までの経験からここまではきっと正しい。この流れが最も円満といってもいい。困らせることなく、悲しませることなく、最高ともいえる出会い。これから私と桃李は、恋人か、そこに至らなくても親友まで辿りつくことになる。それもいつも通り。そして近くにいても問題ない関係を築いて、近くにいる権利を手に入れて、それから、それからは、正解が分からない。私が何かをするべきなのか、桃李に何かさせるべきなのか、誰かに何かをしてもらうべきなのか。世界の理に逆らう方法だけがぼんやりとしたままで、結局また、同じ道を辿ってしまう。
「綺麗な名前だね、桃李って呼んでもいい?」
はいと答えた桃李に、少しだけ笑いがこぼれる。毎回のことながら、桃李は私の言う運命を信じているのだろうか。それとも単に、何か、私の外見や声に惹かれるものがあるのだろうか。客観的に見れば今の私は軽い男にしか見えないし、もしも私が女で、こんな手慣れた男がすり寄ってきたなら、他を当たれと一刀両断するだろう。私からしたら一向に構わないし、桃李がいいならそれでいいけど、少しずつ、桃李が可哀想にも思えてくる。もしかしたら前世のせいで、歪んだ輪廻のせいで、前世で深い関係のある私に縛られているのではないか。もしそうだとしても、花千代の管理する輪廻に戻すまでは、私を運命の相手だと思って我慢してもらうしかない。もしも戻ったら、あの日を越えることができたなら、その時は。
「よかったら、お話ししたいな」
その時はどうするのだろう。桃李の手を放して、私ではない誰かの、桃李を心から愛せる人間との、終わりのある人間との、淡くて脆い恋路を応援するのだろうか。正直、想像できない。幸せにできるか確証がないまま、大丈夫と無責任な言葉を吐いて、お幸せにと思っていない一言を送って、少し不安そうな桃李の背中を、見て見ぬふりをして押すのだろうか。
「桃李は何が好き?食べものでも、趣味でも、色でも、なんでもいいよ」
そんなの当たり前だ。そうしなきゃいけない。そうじゃなきゃ意味がない。そのために花千代に魂を捧げて、ここにいるのだから。でも、誰かと手を繋いで、キスをして、いつの日かベール越しに熱い視線を向けるようになる桃李を想像すると、少しだけ嫌な気分になる。何度も失敗を繰り返すことで精神的な余裕ができて、桃李の知らない部分を見つけていったように、私が知らなかった私を知るようにもなった。自分で思っていたよりずっと独占欲が強くて、ああしたいこうしたいどころか、ああでなければいやだ、こうでなければ許せないと思うくらいにわがままで、桃李に触れることは好きで、桃李が他のひとに触れられるのは嫌い。それから、あの時のことも、だんだん理解できるようになってきた。愛する人に手を伸ばせないことは苦しくて、気まぐれの優しさはそうだと分かっていても嬉しくて、自分に目が向いているときは一人占めしていたくなって、自分を見ていない時は安寧の場所でありたい。きっと桃李もこんな気持ちだった。本当は愛してほしいし、自分だけを見ていてほしいけど、今が幸せなら、自分じゃない誰かと笑っていられるなら、邪魔はしたくない。手を掴むことは楽だけど、振りほどかれたら、関係が壊れてしまったら、そう考えると、遠ざかる背中を見送るしかできない。
「他には何かある?本当に些細なことでもいいし、昨日あったことでもいい。桃李のことがもっともっと知りたい」
酷いことをした。それは桃李が輪廻から外れたことに対して思ったことだった。でも今は、一番残酷なのは、あの時の私だと思う。あの時は、それが当たり前だった。今ではそれが文化だったと記されているし、私の周りの人間もそうだった。前世の私より後に生まれたとある女性作家は、突然ぽつりと現れては、ふと消えてしまう、ひとつの光の生き様を描いた。その光は多くの女性を幸せにしては突き落とした。私の人生はあんなにも波瀾万丈なものではなかったけれど、根底はきっと変わりなかった。それでも彼が評価されるのは、望んだ未来がはっきりとしていたからだろうか。私も桃李への愛に気が付いて、心から愛すことさえできれば、もしかしたら今、焦がれるほど願う未来を手にしていただろうか。意味も正解もない仮定は、むなしいばかりだ。
「ねえ、また会いたいよ。"次"がほしい。だめかな、迷惑かな」
私はもしかしたら、桃李の幸せな百年ではなく、私の幸せな十六年のために過ごしているのかもしれない。だって桃李のためを思っているなら、桃李との未来を求めてしまうような汚い人間でいられるはずがない。何度やっても桃李を助け出せない私は、きっと、何度でも同じ過ちを犯す。また泣かせて、傷付けて、追い詰める。もしかしたらまた輪廻から外れるかもしれない。また同じ方法で戻せるならいいけど、状況が悪化したら、可能性がゼロになってしまうかもしれない。それならあの日を跨いだらすぐに桃李の前に消えるべきで、それが正しい道だと思う。そう分かっているのに、どうしても、隣にいたいと思ってしまう。親友としてこの手で桃李の背中を押すのではなく、恋人としてこの手を桃李の手と重ねたい。他人としてすれ違うのではなく、夫婦として見つめあいたい。
「次にここにくる日、教えて」
ずるいなあ。最低だなあ。やっぱりいつもと同じように、初めから決められていた流れで次の機会を作り出してしまう。まるで囲い込んで逃がさないように。
▽
「甘いもの好きでしょ」
桃李の前にケーキと紅茶の乗ったトレイを置いてやれば、驚いたように目をぱっちりと見開いて、それから嬉しそうに唇をあげて、はっと焦ったように財布を取り出す。ころころと表情が変わったり、大袈裟なくらいの反応をしたり、一目でなんでも読み取れるくらいに分かりやすい。格好つけさせてよと言えば困ったように笑って財布を戻したけれど、いつか自分が奢らなければとでも思っていそうだ。そういう、表面的なことは分かるのに、桃李の本当の心だけはいつになっても分からないままだ。深くなればなるほど、何も知らない。私をどう思っているのかは分かるけど、その理由が分からない。今どうしたいかは分かるけど、それをしてからどうしたいのかは分からない。もうすでに、悪魔や天使、妖怪、そういう人間の何倍も長く生きる存在にも年下がいる。花千代のしもべとして語りつくせないほどの経験を重ねて、体力だとか記憶力だとか、私の体や精神はもはや人間と呼べないほどに成長している。桃李と出会った回数だって、桃李と過ごした年月だって、世界のどこを探したって私が一番なのに、それなのに、まだ、桃李のことを理解しつせていない。私ですらそうなのだから、同じように、桃李は私のことを理解してはくれない。
「皇さんって、素敵な人ですね」
すっと顔から熱が引いていくのを感じた。桃李からの言葉はどんなものでも嬉しいのに、口角は柔らかくあがってくれるのに、暖かかった頬が冷える。桃李の理想の人間像を作り上げているから、桃李が望む皮を被って過ごしているから、言われ慣れているどころか、この言葉をかけられることが最も多いのに、いつだってその言葉は私の弱いところを的確に抉ってゆく。
「そうでもないよ」
「ううん、すごく素敵です」
今の私は素敵なんだ。当たり前だ。だって桃李ためだけに生きているから。私だって自分が誇らしい。一人の人間を一途に愛し続けることが出来ると知って、何百年も曲がらず歪まず愛を与えることが出来て、桃李がそれで笑ってくれて、本当に嬉しい。本来なら、本当なら、お互い幸せですね、それだけで終わることなのに、罪悪感で押しつぶされそうになる。桃李を殺した私が、桃李が求める人間としてここに立っている。桃李を救えなくてもがいているからこそ、私はどんどん素敵な人間になる。こうして桃李と会うために終わらない命と消えない記憶を手に入れたのに、出来ないことは分かっているのに、必ず訪れるこの瞬間だけ、全部忘れてしまいたくなる。まっさらな私で、この最上級の褒め言葉を真っ直ぐに受けたくなる。そうしたらきっと熱くなる頬を自分の手のひらで冷ましながら、この一言を伝えられたんだ。
「ありがとう、桃李も素敵だよ」
まごうことない本心なのに、震わせた喉が、熱くて、痛い。