それからというもの、桃李は積極的に、情熱的に、私にアプローチするようになった。ある時は私の指に指を絡ませて、ある時は偶然を装って私を待ち伏せていたり、またある時はショッピングという名目でデートに誘ったり、今さらそういったことに初々しくときめいたりはしないけれど、そのことに気が付いた桃李が途端にちょっぴり大人っぽく振る舞おうとしたり、拗ねたように唇を突き出したり、そういう仕草は新鮮で、私の目にはとてもかわいく映る。今まで私が桃李にやっていたことを桃李からやられているだけなのに、まるで夢のようで、都合がよすぎると思ってみても少しだけくすぐったい。けれどそれを味わう時間はない。今日、私が革命を起こせない限り、今この瞬間に肩を並べて歩いている桃李がこの世からいなくなる。
「それで私、その人から告白されたんですけど酷いんですよ! 子供っぽいところが好きだよ、だって!」
いつもと違う桃李は、多くのひとに愛を振りまく桃李は、私ひとりにばかり愛をくれた桃李と比べて、とても多くの人に好かれているようだ。そんな桃李に曖昧な笑みを返すことしかできない。桃李といると、わがままになる。桃李を救えなかった直後に次に向けて決意する多くのことも、密やかな意志も、桃李の甘い笑顔にどろどろに溶かされて、全部忘れてしまいそうになる。もういっそ突き放せたらいい。桃李のことをどこか遠くからサポートするような、そうしていつかは桃李を救えるような、そういう立ち位置でいられたらよかった。そうしたら、こんなにも醜い自分に辟易することもなかったのに。
「付き合ってみればいいのに。何か変わるかもよ」
自分の声が思った以上に冷かったことと、桃李にとって残酷な言葉がこんなにも滑らかに出てくることと、ひねくれている自分に、嫌悪が募る。こんなことを言いたいわけじゃないし、こんな顔をさせたいわけじゃない。桃李には幸せな百年をあげたい。こんなところで桃李のことを傷付けたってどうしようもない。いつから自分の感情すらコントロールできなくなったのだろう。目の前にいる桃李よりずっと長く生きているのに、表面で取り繕うことばかり覚えて、内面はずっとあの時のまま変わらない私の方が、ずっと子供だ。いつもならここで場を和ませて、お詫びにどこかに連れていったり、次の予定を作ったり、そうするけれど、もう私には、この桃李には、次がない。ここで喧嘩なんてして、桃李がどこかへ行ってしまったら。そう思うとぞっとして、さっさと謝ってしまおうと口を開くより先に、桃李が優しく笑った。
「でも、皇さんが運命の人だから」
「……意味、わかんない」
そうであればいいと何度も思った。花千代の力がなくても出会うことができたから。桃李のことをたくさん知っているから。どんな桃李も愛してきたから。だから運命を信じてみたいと思うようになっていた。私と桃李は運命で繋がっていて、運命の相手だから、例え結ばれなくても、私は桃李の笑顔一つで幸せになれると思っていた。いつか桃李が輪廻に戻れたら誇らしく感じるのだろうと思っていたし、そこに私の姿がなくてもいいと考えていた。でも最近になってやっと分かった。私はけしてそう感じない。応援しなくちゃ、他の人と歩く桃李を見届けなくちゃ、そうやって自分の気持ちを捻じ曲げないと応援できないできないような、素直に認めきれない自分がいるから、私はきっと自分の手で桃李を幸せにできないなら、幸せになれることなんてない。だからもうかき乱さないでほしい。こんなことを自覚させられるくらいなら、桃李の理想の人間でいられなくなるくらいなら、異常な点を見過ごしたまま今日を迎えるべきじゃなかった。
「別の人と間違えてるんじゃないの」
「……あのね、皇さん。信じてもらえないかもしれないけど、私、前世のことを覚えててね」
その時の旦那さまが皇さんだったの。雑踏も、声も、音も、何もかもが遠くなって、消えた。桃李の紡ぐ言葉しか聞こえない。
「皇さんは和歌が上手で、偉い人で、女の人にもすごく人気っていうか、とにかくもう凄くて! でも私をお嫁さんにしてくれて、いつも優しくて、私は幸せで、それで」
「うそつき」
桃李の言葉を遮って吐いた四文字は、さっきよりずっとずっと冷たかった。すっと目を細めて桃李を見下ろすと、桃李は短く息を飲み込んで少したじろいだ。桃李の言う私は間違いなく最初の、桃李を追い詰め続けて、桃李の未来を奪った、最低な私だ。どうしてこの桃李だけはこんなにも前世のことを明確に覚えているかを問う時間はもう無い。この桃李は今日中に消える。だからこそなのかもしれない。自分でも恐ろしいほどに冷めきった心で桃李と向き合っていた。雑踏も声も音も、もうはっきりと聞こえる。
「優しい? 幸せだった? そんなはずないでしょ」
「す、皇さん?」
「私は最低なやつだって自覚してるよ。桃李に優しくなんてしてなかった。結婚したくせに愛を囁いたりもしなかった。桃李のことを不幸にしたのは私だし、桃李を殺したのも私。そうやって甘い言葉でおだてれば私をどうにかできると思ってるの? それともこの事実を知らないだけ?」
馬鹿みたいだ。余計なことを思い知らされて、無駄な期待をさせられて、今まで積み上げたものを薙ぎ払われて。もし今回もなにも変わらなかったら、ここまで何もかもぐちゃぐちゃになった状態で次に向かわなければいけない私の気持ちも考えてほしい。サイドに流している前髪を乱雑にかきあげて、溜息をつく。駄目だ、今回もまた、桃李を看取ることはできそうにない。どうしてこんなに上手くいかないんだろう。私はただ、桃李に未来をあげたいだけなのに。もうこの桃李と話していたくない。これ以上話したら、再起不能に陥りそうだ。話を終わらせるために背中を向けようとすると腕を掴まれる。私を運命の人だと叫んだ時のように、迷いはなく、そして力強かった。
「知っています、分かっています。だって私が選んだことだから」
「もういいよ、分かったから離して」
「なんにも分かってない! 私はただ、あの時のように一緒にいたいんです! それだけでいいから、多くは望まないから、だから、おねがい」
桃李が必死に食い下がるたびに苛立ちが増してゆく。でもけして聞き分けのない桃李に腹が立ったわけではなく、どこまでも嘘を重ねるその姿がいただけないと思っただけ。桃李の手を乱暴に引いて、口付けた。一瞬のことで反応できなかったらしい桃李は、ワンテンポ遅れて目を見開いて、顔がどんどん赤くなる。私の腕を掴んでいる方の手からは力が抜けていて、少し腕を動かすだけでしっかりと結ばれていたはずの白い指はあっさりとほどけた。
「桃李は私に愛されたいんでしょ。一緒にいるだけでいいなんて、そんなの、」
うそ、と続けるはずが、桃李の唇に持って行かれてしまった。ギリギリまで背伸びをして、私の頭を必死に引き寄せて、こんなに必死に私を求める桃李は初めてだった。ちゅ、と小さく音をたてて離れた唇を無意識のうちに指先でなぞっていた。
「愛されたいです。本当は、愛されたい」
「うん、知ってるよ」
「……私も知ってます。皇さんが、皇さまが、私を愛してくれたこと。花千代さまに、いっぱい聞いたんです」
花千代、その名前を知っている理由、そんなの一つしかなかった。聞き間違いでもなく、適当に割り出せる名前でもないし、花千代自らが下界に来ることは絶対にない。桃李は真っ直ぐに私だけを見ていて、その目には私だけが映っていて、私も桃李だけを見つめている。
「花千代さまにお願いして、会いたいって、だから、ここに来たんです」
呼吸ができない。声が出せない。言葉が見つからない。唇から広がった熱のせいなのかもしれないし、過ぎた幸せが私を押しつぶそうとしているからなのかもしれない。幸せな、夢、なのかもしれない。震える手をそっと桃李の頬に手を添えると、桃李は嬉しそうに手のひらを重ねた。その手は暖かくて、桃李がここにいると、教えてくれる。
「皇さま、私は、皇さまのこと」
「桃李、ごめん。桃李の言いたいことはあとで聞くから、私の言いたいこと、言わせて」
この言葉はいつか桃李を傷付けることになると思っていた。私以外の誰かを選んだ時に重荷になって、私を選んだ時に枷になって、桃李を苦しめると思っていた。でも、桃李があまりに綺麗笑うから、あの時のように優しく触れるから、こぼれるように溢れ出る。
「すき、だいすき。酷いことをしたけど、今さらだけど、愛してる。今までも、これからも、ずっと」
千年間ずっと胸の奥底に閉じ込めてきた想いだった。未来永劫伝えることはしないと決めた気持ちだった。直接的な言葉はどうにも苦手で、和歌だとか俳句だとか、そういったもので遠回しに伝えたり、隠すほうが得意だった。でも桃李への想いだけはこの言葉でしか伝えられない気がして、何度も何度も、すき、と言い続けた。情緒も風情もないし、昔の知り合いが見たら嘲るだろう。あのときの女の人たちもこんな私には見向きもしないだろう。でも、桃李が嬉しそうに笑うから、それだけでいい。私が満足するころには、いつの間にか泣いていた桃李も私も鼻が赤くなっていて、それを見て笑いあって。ただそれだけのことが、私にとってはこの上なく幸せだった。
▽
その日は夜までずっと桃李と一緒にいた。いかがわしいこととか、一線を越えたりとか、そういうことは何一つなかったけれど、桃李が私の長い髪を梳かしてくれた数分は私にとって、そういう行為よりも、ずっと愛を感じる時間だった。
時計の針が天井を指す。短針と長針が重なる。その瞬間ようやく呼吸らしい呼吸を取り戻した気がする。桃李は変わらず隣にいて、私の視線に気がつくと優しい手つきで私の背中を撫でた。
「すき」
絡めた指が夜に掠め取られてしまわないように、強く握りしめた。