たまに幸せになりたいと思うことがあると呟くと私の隣で煙草をふかしていた実井さんはこちらを見ることもなく鼻で笑った。
「それはどうして」
抑揚もない単調な声。静かに聞いてきたのは何が何でも吐かせるという抑圧にも似ていた。実際抑圧なんだろう。D機関が持つ情報一つ一つは重い。信用していないわけではないがもし仮に尋問などで溢れてしまうような事がないように、確固たる理由と意思が必要なのだ。なんて、今は関係ない話だから私は其処まで邪推している実井さんをふふっと笑った。
「怖い顔ですよ。私がD機関を抜けたいとでも言うと思いましたか」
「いや。それでも芽は摘んでおかなければと思ったんですよ」
「あらやだ、信用ないのね」
「どの口がほざくんですか」
信用に見えて信用ではない関係が渦巻いている。「死ぬな、殺すな、とらわれるな」規則があるから成り立っているわけでもないが、確実に私達はお互いにジョーカーを引かされまいと裏で騙しあっているのだから今更信用なんてあったもんじゃない。だから、だからなのかな。
「……少し、休みたくて。疲れてしまったという訳ではないけれど、偶に女としての幸せに憧れる」
過去の私はとっくの昔に捨て置いているのに、すれ違う人の笑顔が幸せが胸を鷲掴み心臓を止めようと力一杯に握りしめてくる。後ろ髪を引かれるように残った余韻は私の中で腐食し汚泥となり、すっかり巣くってしまった。
「ばかばかしいですね」
薫る煙の消えゆく様を眺めながら呟かれた言葉が想定通りで、それでも無意識に顔を歪ませていた。彼は別にこちらを機にする様子もなく、一口煙を含んで溜息をつくように静かに吐いた。
「女の幸せとかいいますけど、所詮それはとうに捨てたもの。此処にいる以上覚悟していたものでしょうに。それとも、僕の買いかぶりでしたかね。」
「……」
言い返せない。彼の的確な言葉はいつも私の心を突き刺す。逆を言えば彼はよく私を知っていると言う事だが、今はそんな事関係ない。
「……ああでもそういえば」
燻ってる煙が空気に消えて徐々に薄くなっていく。大凡、実井さんが煙草を消したのだろう。今の状態で彼の顔色を伺う事は私には無理なのだけれど。彼が煙草を消したのならば何かを仕掛けてくるつもりなのだろうか。わたし以外の同僚相手にはしないその仕草はどうやらわたしの表情を見て楽しんでる故の動作と三好さんから聞いた。
「動物には種保存の意識があるそうですね。きっと貴方はそれに惑わされているだけですよ。それとも本当に幸せになりたいと?なれると思ったんですか?」
言葉が頭で反響する。なれないわけではない、其れなのに彼の放った言葉は重く、後にも先にも可能性を否定する。それは彼の今までの行動と思考の成果でありそれを間近で見てきた私だからこそ思ってしまう彼が言うことに間違いがないという思い込み。
「……………………なれ、るはずがない」
私が答えていい言葉はこれしかなかった。道は塞がれたのだ。精神的にも行動的にもそして、私自身口にすることで塞いでしまった。
一方で実井はまるで聞き分けのいい子供をあやすかのような笑顔を浮かべてこちらを伺っていた。その笑いは笑っていても笑っていなくて心底気持ち悪いと思ったのも全部ばれてるんだろう。
「ああでも、それではみょうじさんが困ってしまいますね」
唐突に話を切り返した実井さんに思わず隠しようもないぐらいに眉根を寄せた。そんなにすぐ感情を出したらつけ込まれますよと注意されるが実井さん相手では今更である。それはあくまで注意であり、話と関係はないとみなした実井さんは話を続ける。
「人としての本能ばかりはいくら自分を捨てたと言っても抗えるものではないですからね。丁度、僕も暇していたんです。その欲求の捌け口になってあげてもいいですよ」
「何をほざいて居るんですか」
実井さんを欲求の捌け口にするなんて死んでも嫌に決まっている。なんでどうしてこんなに性格が悪くて嫌いな人と性行をしなければならないんだろう。
「おや、そうですか。そう言われると思っていました」
「なら、何故私に問うたのですか」
本当に悪趣味だ。悪趣味極まりない。私が嫌がる様を見て、スパイならざる姿を見て楽しんでたに決まっているけれど。
実井さんは、笑顔で「違いますよ」と短く響かせた。
「…………違う?」
「ええ」
「……何がですか」
「まだお気づきになられない」
実井さんは手元にあるワイングラスを手に取りくるりと混ぜた。ワイン。珍しく実井さんが私にご馳走してくれると誘われ、知らない間に注文されていたもの。それなりに高級のようで味は濃くとても美味したかった。
「……まさか」
「やっとお気づきになられましたか」
嵌められた。初めから実井さんは狙っていたのだ。私のこの話も全て全て聞き出した上で逃げられないように鎖をつなぐように私が嫌がるだろう問題を払拭する所まで計算していたのだ。
「は、はは、とんだ捕まえ方ですね」
「貴方にはこれくらいが丁度かと思いましてね」
かたりとグラスを置く音が響いた。実井さんは舐め回すように私の表情を目に焼き付けていた。本当にたちが悪すぎる。
「みょうじさんはじきに僕に泣きながら懇願する。さっき嫌がっていたのにね」
彼の言葉は言うならば未来の決定だ。まるで言葉の呪い。最悪極まりない気分と裏腹に私の心臓が一歩一歩早まり高まっていくのを感じていた。
| list |
Giselle">