毒を吐く




思えば苗字名前と俺が出会った時の雰囲気は決して好いものではなかった。

滞りなく太宰との任務が終わって首領に報告する段になった途端、「このような美しい夕焼けの中で自殺、なんて美しいとは思わないかい?中也。」とのたまいやがった。しかも、俺に質問しておきながら台詞を言い終わるとすぐに姿を眩ませたのだから頭にくる。

「クソ太宰!次こそ絶対殺す!!必ず捕まえて嬲り殺してやる…」

路地を歩きながら吐き捨てた言葉は虚しくも夕焼けの中に融けてしまう。しかし、そんなことなど気に留めていられないほど中原中也という男は苛ついていたし、太宰への悪態をつかなければいられないのだから仕方ない。悪態をつきながら淋しく夕陽が照らす人影の少ない道を歩く中也の図をネタにするために太宰があのようなことを言ったとは露ほども中原が知らないのだから哀れではあるがー。

そんな彼が文句を垂れながら路地を歩いているとふっ、と視界の隅に人影を捉えた気がした。あくまで気がしたという程度で、普段なら身に危害を加えない限り放っておくのにもかかわらず今日ばかりは何故か気になってしまったのだ。少し通りから外れて貧民街の方へ歩みを進めて、暫くすると独特の雰囲気や陰鬱な空気が立ち込めてくる。あと少しで貧民街、しかも貧民の集まる地域でも最も荒れに荒れているというところに夕陽のスポットを浴びながら蹲る一人の女が居た、ようだった。

"ようだった"と謂ったのは、中原の頭の中は太宰への悪態で溢れかえっているばかりか収まりきらない一部が口からポロポロと零れてそればかりに意識が向かっていたからである。しかも目線はやや下向きであったから数十メートル先に居た女の存在に気づくのが遅れたのだった。(マフィアとしてあるまじき事態であるが、気に留められるほど余裕を持ち合わせていなかったから仕方ないとしよう)

そのような状態の中原が女に気づいたのは耳にブツブツと念仏のように呟く声が入ってからのことだった。良く耳を澄ませると、
「今日こそは絶対に盗らねば、盗らねば」
と何かを盗もうとしていることは明白であった。そして女とふと目があってしまった。身なりさえ確りと整えてやればいいような端正な顔立ちがこちらを見つめ続けるのに狂気すら感じ取れてしまう。殺気を当てられた時より強い恐怖が瞬く間に身体を支配していった。
そして、喉が張り付いて声が出にくいような感覚を覚えながらやっとのことで女に問うてみる。

「手前、そこで何してやがる」

「盗人になりたくて、なりたくて震えてる」

風でも吹けば届かないようなか細い声が、喘ぎ喘ぎ中也の鼓膜を震わせた。そんなの勝手になればいい。というか意味がわからない。なんなんだ、この女。それを言ってやったらこれまた予想外な答えが返ってきた。

「親に申し訳なくてなれるわけないでしょっ!」

叫んだそいつは激しく咳き込んで苦しげだった。喉が渇いていて貼り付いているにもかかわらず、叫んだかららしい。
しかし、咳がひとつ出るたび心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうしてそれと同時に、この女に対する激しい憎悪が、少しずつ動いて来た。それどころか、相棒である太宰の自殺癖と女が抱える生死の矛盾がダブってきて、勢いよく男の憎悪が燃え盛り出してきたのである。
そんなことなど知りもしないこいつは凛とした眼差しを中原へ向けつつ、こう、続けた。

「盗みはしたくないが饑えて死にたくもない。普通になりたいことの一体何が悪いの?」

「悪くはない、それは悪いことじゃないが手前の状況を確りと理解してからそれを言いやがれ。」

憎悪は顔には出さない。口調にも出ないように抑えた。腹のなかでだけ、轟々と燃えている。そのせいか少しばかり声色は冷たかったのかもしれない。女の顔色が僅かに曇った。

「お兄さん。状況は確りとわかっているのさ。誰にだってわかっていても儘ならない、踏ん切りがつかないことだってあるでしょう。」

この私のようにね。静かに付け足された言葉はやはり掠れていて聞き取り辛い。でもそれは腹の中で燃え盛る憎悪に灼かれずに中原の心へとはらりと着地した。そして、とうとう訊いてしまった。

「手前、名は?」

「名前…ね。旧い名だけど、かつては苗字名前って親しい人には喚ばれていたよ、お兄さん。」

「苗字…名前か。禅問答みたいなこと続けてさっさと死ねよ、じゃあな」

苗字の寂しげな表情は見ないふりをして、俺は踵を返すことにした。苗字に名を訊いておきながら俺は言わない。言う必要性はとうに烈火で消えたのだ。
太宰のことも見事に灰となるほどにー

この話に関してちょっとした解説



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