夜明けのイマージュ

怒涛の繁忙期による終わらぬ残業と持ち帰りの仕事でプライベートタイムを犠牲にする日々。それに加わり、愛しの同居人鈴音はテスト前期間という事で自室に帰っている為、姿を見る機会が殆どない現状。せめてもの鈴音がいてくれれば、と思うが余りに酷いタイミングの重なりに流石に至自身のストレスはマッハで増幅するばかり。このままでは真面目にヤバい、そう思い引き出しに手を伸ばす。物を探り奥底から見つけたのは一つの箱とライター。其れを握りしめ、至は城を後にした。

ふう、と息を吐くと白い煙が夜風を受け、流されるように暗闇を漂う。あまり馴染みのない独特の苦味が口の中を満たしていく。最終手段といっても過言では無い物として念の為持っていた一箱の煙草だが、ラストエリクサー症候群もあり吸う事は滅多になかった。それこそ鈴音に出会ってからは一度も吸っていない、どれだけ仕事を回されようが残業が続こうが。そう、思い返せば日常の中で、改めて彼女から癒しを貰っていた。吸う前に自分から会いに行けばよかったのに、と多少後悔はあるが干物モードに寝癖と隈だらけの情けない姿を見せたくはない、男のプライドが許さなかった。早く鈴音に会って話がしたい、触れたい、と湧き上がる欲を煙にして吐き出す。
「…至?」
カタン、と音がした。遂に鈴音の幻聴まで聞こえ始めるとは。自嘲気味に笑い、バルコニーから暗闇へと向けていた視線をくるりと戻す。鈴音が居た、幻覚ではない本人そのものが片手にマグカップ、可愛らしい寝巻きを身に纏い、立ち尽くしていた。
「…マジ?」
時計の針が真上を過ぎ、二周は回ったので完全に油断をしていた。世間様は土曜日、学生である鈴音が起きていても問題はない。だからといって、早すぎるフラグ回収。ポケットにはいびつな煙草の箱、手には吸いかけの本体。どう見ても駄目な奴と自分でも理解できる状態。
部屋にお邪魔してもしてもいいかと、沈黙を破る様に鈴音が呟く、条件反射の如く頷き返していた。

「…いつも以上に荒れてない?」
散らばる物を横へ片し、マグカップを机に置いた鈴音がソファーに腰掛ける。心底求めていた光景に今の至は内心いっぱいいっぱいで散らかっている私物を片すと言う気はない。
「仕事が立て込んでてね…」
「それで最近見なかったんだ」
「鈴音もテスト期間でしょ?」
「今日で終わったけどね」
その息抜きで起きてたの、とたっぷりのココアが満たされるマグカップに手を添える。
…触れたい。言葉を交わした事で煙草で誤魔化した欲求が鈴音を前にして沸々と込み上げる。キスまで、とは言わない。せめて頬に触れるだけなら許して貰えないか、と。渦巻く思考の中、鈴音の隣にゆっくりと腰を降ろす。
「煙草、吸うんだ」
その言葉に、伸ばそうとしていた腕はぴたりと動きを止める。見られた分、その話題に触れられるのはわかっていた。鈴音の視線はマグカップの中に注がれたまま。
「…一応、殆ど吸わないんだけどね」
というか、絶対煙草の匂いを身に纏っている。そんな状態で鈴音に近付いている現状にハッとする。鈴音に煙草の匂いなど、移したくはない。立ち上がろうと咄嗟に重心を前にするが、伸びてきた鈴音の手が至の腕を掴む。
「キス、していい?」
「今は」
駄目だと、拒否を示す言葉は唇を塞がれ声にならない。そのまま両肩を押されたかと思うと、完全に主導権を鈴音に握られた体は背中からソファーへと沈む。ギィ、とスプリンクラーが軋む。天井を背に視界いっぱいに広がる鈴音の顔。息を吐く間も無く啄ばむ様に何度も降ってくる唇をは柔らかく、煙草の匂いを上書きする化の様、ココアの甘さがじんわりと広がる。何が起こっているのか、珍しすぎる鈴音の行為と甘さに惑わされた思考では理解がついていかない。一度、長く触れた後、名残惜しそうに鈴音は唇を離した。耳まで真っ赤に染め上げた顔は相当恥ずかしい事が伺える。
「…苦い」
「だから駄目だって」
また言葉を塞遮るキス。本当、どうしてしまったのか。
「駄目なんて言わないでよ」
唇を尖らして鈴音は言う。
「遠慮しないでいいから」
「いや、でも煙草だよ?苦いし、臭うでしょ」
「今更煙草でどうだとか言わないし…、っていうかそれならピザも対して変わんないから」
ごもっともな意見である。良い雰囲気になろうが机の上にピザ、よく食べる身としては言い返す言葉もない。
お目に見える必要がなかった事で隠していた煙草、深く追求されるかと思いきや、遠慮をして欲しくないと言われるとは思ってもいなかった。それ以上に、あの鈴音から、キスをして至を求めてくれた事が何よりも嬉しく、喜びで満たされている。彼女も会いたかったのだろうか、同じ気持ちだったら幸せだ。
「鈴音」
小さな頭に手を回し、そのまま引き寄せる。触れそうな程近付いた距離は、もう煙草の匂いなど感じさせなかった。
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