夜更けが泣いた

物心をつく頃には幼馴染がいた。

道を挟んだ反対側、少し離れた距離に建つ一軒家。お互いの父親同士が幼馴染、必然的に子供同士も幼馴染になる訳だが、初めて会った時の事は未だに覚えている。父に背中を押され、母の後ろから覗き込むようにこちらの様子を伺う背丈も変わらぬ少女。母と似た燃えるような赤髪に紫水晶を宿した瞳。澪、と名乗った少女のおずおずと差し出された手を固く握った。
澪の両親は共々漁に出る事が多く、家に遊びに来る事は勿論、泊まりに来る事も頻繁だった。一緒に過ごす時間が増えれば増える程、澪とは親しくなっていた。まるで家族の一員、兄妹か増えたよう。江も一緒になって沢山遊んだ、一緒に両親のアルバムも見た。親父と澪の父が競泳をしていた事を初めて知り、水泳への憧れもこの頃から抱くようになった。それは澪も変わらぬようで、食い入るように写真を見る瞳はキラキラと輝いていた。

日々が楽しかった。憧れ、夢、希望。幼心は期待で溢れかえっていた。

いつもと変わる事なく、その日も澪は朝早くから家に来ていた。澪の父は私用で遠方に出掛けており、親父と澪の母が共に漁に出る日。体調を崩した祖母の家に向かう事になった母と江を見送った俺と澪は、二人きりの留守番。よくある事だった、何も特別ではない。強いて言えば、外の天気が大荒れという点か。台風が来ていると聞いてはいたが、戸締りに気をつける事以外、特に気に留めてはいなかった。
 畳の上でごろごろとおもちゃ片手に遊び、落書き帳を広げクレヨンで自由気ままに絵を描く。好きな事を遊びし尽くした後、気が付けば隣からはすうすうと小さな寝息。早起きで限界だったのか、こうなってしまえば静かなものだ。押入れから引っ張り出したタオルケットを澪に掛け、その隣にごろんと寝そべる。激しい音を立て窓に打ち付けられる雨音を聞きながら、意識はうとうとと睡魔に飲み込まれていった。

静かな部屋の中に電話の呼び出し音が甲高く響く。浮上する意識の中、眠り目を擦り身体を起こす。隣の澪は音には気付いていないらしく、まだ夢の中。
廊下から仕切りに呼び出しを求める音を断ち、返事をする。落ち着いて聞いてほしい、声の主はそう伝える。台風、悪天候、漁船、転覆。発せられた言葉は、何一つ理解したくないものばかりだった。追い討ちを掛けるように、言葉はまだ続く。
「冷泉さんにも電話が繋がらなくて…」
 当たり前だ。澪は此処にいる。冷泉家には誰もいない。誰も、残されていない。

どうやって、電話を切り終えたかは覚えていない。これから何をするべきなのか、やらなければいけないのに、わかりたくなかった。
「凛…?」
いつの間にか目を覚ましたか、眠い目を擦りながらおぼつかない足取りで隣にやって来た澪が服の裾を掴む。この残酷な現実を、伝えないといけないのかと思うと震えが止まらない。でも、俺が支えないと、澪の事も。痛いぐらいに拳を握り、震えを抑える。裾を掴む澪の手を、しっかりと握りしめる。俺が出来ることは、これぐらいしかない。



台風のある日、漁に出ていた親父と澪の母が乗っていた漁船の転覆。海難事故により大勢の人が亡くなった。あの日を境に、澪は変わった。泣き顔を見ることもなくなった。口調も、まるで男子のようになった。強気でいようとする、澪の現れかもしれない。きっと、彼女の性格がそうさせるんだろう。強くいようとするのであれば、俺にそれを止める権利はない。澪自身の事に口出しはしない。俺にあるように、澪なりの決意があるんだろう。父を支えたいと。

変わってしまった澪と、変わらぬ関係を、幼馴染を続けて行くことが、きっと今一番、お互い心の救いになっている。

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