水面を揺らして

紫音は困っていた。ユニット練習を終えた帰り道、噴水前で冷泉澪に捕まってしまったからだ。
久しく学院に復帰した彼女は一時的にユニットを組んだ事があるとはいえ紫音が苦手としている女子だ。じわりじわりと一歩ずつ後退りをしながら話題を切ろうとするが、澪の話は途切れない。気付いていないのかワザとなのか。多分前者であろう、澪は何分変わらぬ顔で話題を振りながらこちらとの距離を詰め戻してくる。

本当、勘弁して欲しい。本音は言えないまま対処法に思考を巡らせていたら空から何かが降ってきた。紫音と澪の間を割るように地面に落ちたそれは小さな音を立てた後動かなくなった。

「ん?ガムの包み紙か?」

包みを手にした澪は空に視線を送る、つられて紫音も陽の落ちかけた空を見上げると屋上に物影が見えた。「おーい」と、こちらに手を振る薫が視界に入り込む。薫、と名を呼ぶ声が重なる。

「さっきから二人して何してんの、早く帰りなよ」
「お前こそ何をしてるんだ?…って、引っ込んでしまったな…」

澪の問い掛けに返事はなく、紫音が問いかける前に薫の姿は再び見えなくなってしまった。薫が校内に残っていてもおかしくはない筈だが紫音の中に何かが引っかかる。
何だったんだ?と首を傾げる澪に口早に断りを入れ、逃げるように足は校舎に向かい動いた。一人取り残された澪は紫音を追いかけるわけにもいかず、話し相手を求めて仕方なくその場を去った。

向かうは屋上。さっきのは澪との会話を切れない自分への助け舟だったんだろうか、そう思うのが普通。影になって見えにくかったが薫の笑顔が寂しそうに見えたのが本心、よく見ている薫だから気になってしまった。飛ばしながら駆け上がった階段に持って行かれた体力、息を整え数歩踏み入れると夕暮れを背負う薫の影が地面に伸びていた。

「薫」
「おや、紫音。何で来ちゃうかなぁ。折角澪ちゃんとの会話を止めてあげたのに」
「やっぱり、助け舟出してくれたんだ?」
「そりゃあ紫音、断れないでしょ?特に澪ちゃんの推しには勝てないし」
「うぐ…、薫の仰る通りです」
「だよね。まぁ、助けになったならよかったよ」
向けられる笑顔はいつもと変わりはないものだというのに、どこか引っ掛かりを消せなかった。薫は隠し事が上手だ、付き合いが長い自分にも本心を見せてくれないのはわかっている。知りたい、なんて我儘は言えないし薫の負担になる事だけはしたくない。そう頭では決めているのにいざ、薫を目の前にするとぐらぐらと思いは揺らいでいく。距離を詰め、手が伸びた先は薫のブレザーの袖口。きゅっ、と握ると切れ長の瞳がぱちぱちと瞬きをした。

「どうしたの、紫音?」
「わかんないけど、なんか離しちゃいけない気がした」
「離しちゃって…、俺を?」
「薫を」

告げられた薫以上に、自分でもわからないことを言っているのはよく分かる。薫を離してはいけない、そう紫音の頭は不思議と感じとった。
袖口を掴まれたまま薫は何も言わない、静寂だけが二人の間を流れた。暫くして薫の溜息が静寂を破る、浮かべる笑みは何処か寂しさが含まれいた。

「繋ぎ止めてくれるのが紫音って事かなぁ。そういうところ、ずるいよね」

独り言のように言い聞かせる薫の声色は優しく、紫音の耳に届く。

何も考えたくない、ただ一人になりたかった時に偶々屋上から見つけてしまった少年を放って置くことが出来なかった。少年の思いはどうとあれ他人に絡まれているところを見ると何故か面白くない、情けなくも抱いてしまった嫉妬心。少し、構って欲しい。自分の存在を示したら紫音なら来てくれる、心の何処かで確信があった。今、少年は目の前にいて繋ぎ止めてくれている。これがどれだけ望まれた幸せなのか、胸の奥底が暖かくなる。

「薫、何かあったの?」
「ううん、もうどうでもよくなっちゃった」
「本当?」
「ほんとほんと、紫音に嘘言わないでしょ?」
「何処にも行かない?」
「行かないよ、大丈夫だって」
「じゃあ、俺と一緒に帰ろ」
「そうだね、帰ろうかな」

憂鬱の種の一つ、帰りたくなかった理由は優しく握られた手が消してくれた。人の温もりは心まで溶かしてくれる、それは紫音だから、紫音である事に意味がある。そう思えてしまう程に自分は目の前の一人の少年に落ちてしまっている事実が、幸せであればいい。
ALICE+