仁王和真と出られない部屋
部屋の真ん中に大きなベッドがある部屋。逆を言うと、それ以外何もない部屋だった。俺は今そのベッドで目を覚まし、もちろんこの部屋に見覚えはない。というより、ここに至るまでの記憶がない。ここは、何処だ?
理解が追いつかない頭で半身を起こすと、やっと起きたの?とベッドに腰掛ける女が気怠げな声を寄越した。
ナマエ。昔馴染みで腐れ縁の勝手気ままな女。好き勝手に何処へでも行くくせに、そのくせいつも俺の手首を掴んで離さない女だった。振り払おうにも妙に繊細なつくりをしているから力を込めるのも気が引けて、そうしている間にとんでもない勢いで面倒ごとを引き寄せるのだ。こいつに振り回されて血管が切れそうになったことは両手の指でも足りない。それでもこの妙な状況に納得した。今回もコイツのせいか。
なんだよこの部屋、と呟くが、横にいる女は新しいインスタレーションみたいねえと呑気に笑っている。んだよそれ。とりあえず役に立たねえことはわかった。今度は何しやがったと睨みつけてもわたしってば魔法使いではないのよ?とどこ吹く風だ。そもそもここはどこなんだよ。
諦めて周囲を細かく見渡すと、ベッドの目の前にドアがある。殺風景すぎてモデルルームとも言えない部屋に似合いの無骨なドアは頑丈をそのまま形にしたような有様で、体当たりしようが何をしようが壊れないだろう。
ふざけた空間とふざけた女、これだけ揃っていて尚飛び抜けてふざけていやがるのが扉の上に書いてある文字だ。曰く、「キスしないと出られない部屋」。素直にイカれてんのか?と思っても、確かにそれが実行されるまでは開かないのだろうと思わせる感覚があった。
扉の先は真っ暗で、何も見えない。もう一度言う、ドアの向こう側は真っ暗だ。つまり、この扉は開いている。
「開いてんじゃねーか!」
「和真うるさい」
「……悪ィ。けどな、俺さっきまで寝てたよな?」
「全然起きなくて退屈だったわ」
「……したんか」
「さあ、どうかしら」
とはいっても扉が開いてんだろうが、と問い詰めても勝手に開くこともあるんじゃない?とにこにこにこにこ微笑む女はひとつも悪びれた様子がない。挙げ句の果てにはぐずぐずしてないでさっさと出ましょと呆れてみせる始末だ。お前はそれでいいんかよ、と舌打ち混じりに唸る俺をちらりと見て、いいのよ、全部忘れて、と女は歌うように嘯く。
こんなわけわかんないシチュエーションだったら否が応でも一緒にいる人間のこと意識しちゃうじゃない?でもそんなのは嫌。ここに私しかいないから私のことを好きになるんじゃなくて、他所に目を向けたら選び放題の中で、無数に転がる選択肢のなかで、それでも私を選んでほしいの。
でも、なかなかうまくいかないものね、とため息をついてベッドから立ち上がった女は雲の上を歩くような足取りでドアまで歩いていく。扉の外の暗闇に臆せず足を突っ込んだナマエは、最後の最後に振り向いて、もう待つのは飽きちゃった、と物憂げな表情で言い捨て暗闇に身を沈めた。
待てや、とがむしゃらに後を追って、暗がりに消える女の白く細い指に手が触れる直前で弾かれたように目が開く。気が付いたら布団の中で、ナマエを呼ぶ自分の声で目が覚めた、らしい。なんだこれ。……夢?
「ざけんなよ…………」
頭をがしがし掻きながら苦虫を噛み潰した顔で爽やかな朝に似つかわしいため息をつく。
何もかもが不名誉すぎる。つーかあんなわけのわからんシチュエーション何があったら思いつくんだよ。そういやロッカールームでなんか話してる野郎が居た気もする。んなこと律儀に覚えてたんかこの頭は。
それに、夢にしてはやけにあの女の解像度が高かったのが心底気に食わねぇ。俺の頭が作った幻覚のはずなのに、あいつだけがそこに本物が居たみてえに俺の言うことを聞きゃしない。忘れろったって、忘れられるわけねーだろ、ボケ。
とにかく顔でも洗うかとドアを開く。扉が開くとともに、あるはずのないコーヒーの匂いと声が五感をくすぐった。
「あら、やっとお目覚め?」
「……ハ?」
「お寝坊もいいとこね。朝から買い物付き合ってくれるって言ってたじゃない」
遅かったから迎えに来てあげたの、と堂々と人の家で優雅にコーヒー飲んでやがる女にまだ夢の続きかと目を擦る。そして、和真の家インスタントしかないの嫌だわ、ドリップコーヒーのセットも買わないと、と放っておけば勝手なことばかり言っているナマエに頭を抱える。夢と現実どっちが最悪ってこの場合どっちも最悪だろ。
だからってなんで家ン中に居んだよ!と怒鳴るとおばさんが合鍵くれたのよ、和真の面倒見てやってねって頼まれたら仕方ないじゃない?といけしゃあしゃあと抜かしやがる。コイツに面倒見られるくらいなら実家に帰ったほうがマシだ。
「というかわたしの名前呼んでなかった?あそこで気付いたのかと思ったのに」
「……気のせいだろ」
「本当に隠し事下手ねえ。夢の中でイイコトでもしてたの?」
してねーよとハッキリと言ってやりたかったのに出るはずの言葉は喉の奥で絡まり、目敏い女がそれを見逃すはずもなく。ねえなにしてたのよときゃあきゃあまとわりつくナマエを振り払うので精一杯だ。ねえ!なにしたの!全部思い出して!忘れたつってんだろーが!嘘よ、顔に全部出てるじゃない!俺は何もしてねえ!
その後散々じゃれついてふうふう息をする女は、俺の分の気力も持ってったんじゃねえかと思うくらい楽しそうに言う。
「和真って本当にわたしのこと好きねぇ」
「……テメェもじゃねえのかよ」
「わ、何?やっと認める気になった?」
「ハ?お前、まじで」
「もう我慢の限界だったんだから」
だから言ったでしょ、迎えに来てあげたの!と俺の胸にもたれかかって笑う女の頭を押さえつける。ねえ!と咎める女には悪ィが、この情けない顔は見せらんねえ、絶対に。