マルク・スナッフィーとやらかした朝


 

「……やらかしたぁ」


知らないベッドで、爽やかな朝日とは真逆の重ったるい身体を起こす。嘘、本当はちょっとだけ知っている。このベッドのある部屋の住所とか、この家の持ち主とか。
昨日は仕事終わりに誘われてディナーに行ったのだった。日本サッカーの企画でこの家をしばらく留守にしていた、マルク・スナッフィーさんと。突然、いつも仕事を手伝ってくれているお礼がしたいだなんて、そんな大変なことでもないのに。私がやっているのはマネジメントというほどでもない、スケジュールを管理したり、消耗品を買い足したり、車を手配するみたいな、細々した仕事。入ったばかりの頃から目をかけていただいていたから、ちょっとでもお手伝いができればと動いていたら、自然と簡易的な秘書みたいなことになっている。それでも、そもそも本人がしっかりしている方だから、本来の業務の片手間でも余裕でこなせてしまうような、そんなものなのに。


確かに誰かが寝ていた痕跡のある、今は空っぽのベッドを見て胸が痛くなる。一夜の過ちとは言うけど、本当に間違いだったことを突きつけられるといっそ消えてしまいたいくらいに苦しいことがわかった。本当に好きだった人とそうなってしまった場合は、更に。
私が飲み潰れただけで、本当は何もしていないんじゃない?スナッフィーさんは介抱してくれただけなんじゃない?と思い込もうとしても、がらがらに掠れた声と、変に痛む身体、途切れ途切れの記憶が昨日の行為を忘れさせてくれない。


いくつも歯形や赤い跡のついた首元、ところどころボタンが飛んだ型のよれたシャツ、ぐちゃぐちゃの髪とほとんど取れかけのメイク。姿見に映った私はどこからどうみてもワンナイト明けの女でしかなくてため息が出る。これは、ちょっと離れた通りでタクシーを掴まえよう。こんなのが家から出てきたところを見られたらスナッフィーさんにも悪いし、妙なゴシップが沸いたらそもそも職場にも居られなくなる。こんなことになって冷静に仕事を続けられるのかは一旦保留とする。


とりあえず手櫛で髪だけでもなんとかして、服はどうにもならないから片手で胸の前を留めるようにすることで決定した。原始的すぎるけど仕方ない、家に帰るまでの我慢だ。助かったことに彼の家から自分の家まではそう遠くはない。
ともかくスナッフィーさんがどこに行ってしまったのかはわからないけれど、ワンナイトの女がいつまでも家に居座るわけにいかない。ベッドの横に揃えて置いてあったパンプスを履いて、どこもかしこも怠い身体に気合を入れて立ち上がった。


3.5pのヒールをなるべく鳴らさないようにそろそろと移動する。大丈夫、家の構造は知ってる。何度か荷物を運んだり、ロレンツォくんを連れてきたりしたし。静かに、ゆっくり玄関までたどり着いて、内鍵を回して、ドアの取手を掴む。さよならスナッフィーさん、明日からはなるべく何事もなかったように接するので、昨日のことを忘れられないことは許してください。目を閉じて懺悔するように力を入れる私の手の甲に、突然別の温もりが覆い被さって、……覆い被さって?


「どこ行くつもり?」
「ひゃぁっ!?」


振り返ると、にっこりと笑った家主が私を見下ろしながら佇んでいる。びっくりした、と情けない声が思わず口から出た。本音としてはびっくりしたどころじゃない。心臓破裂するかと思った。だって未だに心臓がこれ以上ないってくらいばくばく鳴っている。居たならせめて音を立ててほしかった。


「もっかい聞くぞ?どこ行くつもりだった?」
「え、いや、かえ、帰る、ところでして……」
「ふうん?どうして?」


どうしてもこうしてもあるか。驚愕に身を震わせながら混乱する私を他所に、家主のマルク・スナッフィーはふうん、と目を細めて扉に押しつけるようにぐいぐい顔を近づけてくる。近い!なんとか距離を取ろうとして持ち上げた手も片手で押さえつけるようにして覆い被さってくるから、ずりずりと縮こまって最終的に床の上にぺたんと座り込んでしまう。さっきの驚きで腰が抜けたのもある。片眉を上げて私を見下ろす姿は本当に格好がよくて、失恋したての女でも余裕でときめいてしまうほどなんだけど、この表情。なぜか、どう見ても怒ってる。


「なんで……?」
「こっちが聞いてんだけど。まぁいいや、何が?」
「だって、スナッフィーさん、怒ってる」
「そりゃ怒るでしょ」


だから何で、と困惑する私を他所に、スナッフィーさんは私の閉じられなくなったシャツの胸元を開いて、自分でつけた無数の噛み跡をなぞっていく。
「恋人がこーんなえっちなさ、どう見てもさっきまで抱かれてましたって格好で外出ようとしてたらさ、怒るに決まってんじゃん」
「…………こいびと」
「恋人でしょ、違うの?」
「え、ええ?」


あんなに嬉しそうにしてたじゃんと子どものようにむくれていたスナッフィーさんは、いやまあなし崩しで抱いた俺も悪かったか……と昨日を振り返って自己反省している。急に大人にならないでほしい。でも大人になったなら普段みたいに報告連絡相談を徹底してほしい。私がずっと置いていかれてる。嬉しそうにしてたって何。いやでも酔ってて恋人になる?だとかなんとか言われたら冗談やリップサービスであろうとふつうに喜んでしまうとは思う。だってそれ言った本人が好きな人なんだから、しょうがないでしょ。でも、問題は、そんなこと聞いた覚えがまったくないこと。そんなこと言ってた……?


「すいません。私昨日の記憶とびとびなんですけど、もしかして何か、そういう決定的な何かがあったりしたんでしょうか……?」
「…………ナマエは覚えてないかもしれないけど、2件目のバーで俺だけのナマエになってって言った」
「え、嘘。それは、記憶にある。けどまさかそんな大事なやつとは思ってなくて」
「なんだと思ってたわけ?」
「あーっと、元々私スナッフィーさんのお付きのものというか、所有物みたいな感じじゃないですか。だから、これからは完全に専属としてよろしくみたいなことかなって、思って」


元々スナッフィーさんの秘書めいた仕事をしているわけだし、ほかの仕事は置いておいて専属で着いてくれ、みたいな話かと思った。多少は役に立つって認められたんだ、と思ってすごく嬉しかったことを覚えている。あれ仕事の話じゃなかったの?思いっきり勘違いしていた事に気がついて今更顔が熱くなる。


すいません……と恥ずかしさに消え入りそうな声で謝罪すると、「君ねえ……」と眉間に指を当てながら渋い顔でスナッフィーさんが唸る。
「君ね、自分が所有物だって思われてるなと感じたら逃げたほうがいいしそんな男に抱かれるとか絶対ダメだからね?悪い男に捕まるよ?」
「もう捕まってるじゃないですか」
「自覚があんの終わってんなぁ……」
スナッフィーさんは頭をがしがし掻いて、朝メシ食ったらお説教だお説教、と床に座り込んでいる私を軽々と抱き上げる。突然の高低差にひえ、としがみつく私に、彼は悪戯っぽく笑いかけた。


「……で、今度こそ、俺の恋人になってくれる?」
「……わたしで、よければ」


じゃあ決まりだ、と綺麗に笑う彼は本当は出会った頃から囲い込んでいたんだよとさらりと言ってのけるから、本当に悪い男だったのかと今更ながら頭の隅に浮かんでも、もう逃げる気なんかどこにもなかった。