ドン・ロレンツォと飼い主
週末の夜。華やかに浮かれる街から一台の車が走り去ってゆく。
日頃から狂騒を愛し、普段ならこの中に誰よりも早く混ざっていく青年は、後部座席でスマートフォンを見ながらひたすらメッセージアプリの返信を待っていた。
夕方に一通の連絡が入ってからというもの、試合終わりのロッカールームでチームメイト達にエイリアンでも見るような目で見られるほど、普段なら散々遊んでいる青年の着替えは静かで早かった。なんだあいつ、目がマジだったぜ。試合でもろくに見たことねえよ。ロッカールームがざわつく中、スナッフィーだけはくすくす笑っていた。ご主人様がお待ちかな。
迎えの車に乗る。自分の家ではなく、少し離れたアパルトメントを指定する。スマートフォンを操作し、今から向かうと手早く入力する。週末の混雑に軽く舌打ちをする。
ドン・ロレンツォは大一番の試合でも見ないほどに焦燥していた。
ロレンツォが向かうアパルトメントに住む女。彼女は元々スナッフィーがシッターとして連れてきた女だった。彼の健全な友人なのか、はたまた彼の情婦の1人だったのかは知らない。
彼女が何歳なのかもロレンツォは知らない。スナッフィーよりもいくらか歳下に見える。それ以上のことはわからないし、特段気にすることもなかった。別に知らなくてもいいことなのだろう。彼が知らないことはこの世界に数えきれないほどあるし、生きていくのに大事なことはスナッフィーと彼女が教えてくれる。サッカーのこと、生活のこと、インタビューのかわし方やごみの捨て方まで、今のロレンツォを構成する全てはふたりから教わったものだ。
だからといって彼女をママンと呼び慕うことはない。
代表に選ばれたと伝えた時、女は上から下までロレンツォを眺めて、スーツを仕立てにいかないとね、と笑った。そうして名前くらいは見たことがある、ひどく高級そうなテーラーに連れていかれた。巻尺を持った男たちに身体のあちこちを測られながら、これでアンタも独り立ちねと口角を上げる女をただ見ていた。
完成したスーツを取りに行った日、ロレンツォは初めて女を抱いた。自分より一回り以上小さい身体はどこもかしこもやわらかくって、彼女の力の抜けた腕で頭を抱かれるのが何よりも好きだと思った。
俺まだアンタのものでいたいよ。OK?女はくったりとしながら呆れたように笑った。本当にバカな子ね。
そこから彼女の許可が出た日だけ、青年は彼女のアパルトメントで眠るようになった。
ナマエはいつも鷹揚に、ベッドのクッションに埋もれながら彼を待っている。
部屋に入るなりロレンツォはユニフォームの入ったバッグを放り投げ、ほとんど飛びつくようにベッドへ飛び込んだ。つまらなさげにスマートフォンを触っていた女は、無作法にも飛びついてきた大型犬の頭を軽く叩く。
彼女は寝つきが頗る良好だから、もし眠ってしまえば最後。構われたがりの愛犬がくんくん鼻を鳴らして鳴こうが、白く脆そうな鎖骨をがぶがぶ甘噛みしようが、翌日の朝まで目覚めることはない。その夜は眠りこける主人の横で、大人しく眠りを守る番犬として寄り添うことしか許されない。遠征や試合が重なり部屋に来たのは随分久しぶりで、その待遇は今日のロレンツォには到底耐えられそうもなかった。
「ロロ、外着のままベッドに入ってはダメ。何度も言っているでしょう」
抱きつきながら彼女の胸に頬擦りしても、彼女がいつもみたく髪を梳くようにして撫でながらキスをしてくれることはない。彼女の躾は絶対で、言いつけを守れない犬にご褒美を与えることはない。ロレンツォにとっての罰は彼女にめいっぱい愛してもらえないことで、それがどれだけ苦痛であるか彼は正しく認識している。やっぱりだめ?だめよ。鼻先を埋めるように顔を押し付けながらくぐもった声をあげる彼はあわれっぽく鳴いて、ぎゅうぎゅうと彼女を抱きしめ、すぐに恨めしげな顔で起き上がった。
「だぁー、ちゃんと着替えてくるから、絶対に眠らないで待っててくれよ。OK?」
無言で手をひらひらさせる彼女を横目に、彼は急いで洗面所に向かい、支度を整え再びベッドルームに駆け込んだ。
戸の前の青年を一瞥し、よろしい、と彼女は頷く。そしてナマエはかしこい犬を手をゆるく広げて迎え入れることにした。GoodBoy、よくできました。ロレンツォは急いで、なおかつ彼女を潰してしまわないよう慎重にベッドに乗り上げ、女を抱きしめ、なにより甘そうなその唇にかぶり付いた。そうして待ち望んだキスを交わし、頭を撫でられ、ドン・ロレンツォは彼女の胸で犬の幸福を享受する。