オリヴァ・愛空がめんどくさい


 

「愛空くん今度からもう家来ないでね」
あと荷物とか全部持って帰って。

彼女の家に足を踏み入れた瞬間、何事もない顔で言い放つ彼女に俺からの返答はこれだけだった。

「は?」





「で、どゆこと?」
「お別れしましょうってこと」

いやまあ、別れ話でもないのかとお気に入りのグラス片手に彼女は言う。
普段アルコールが注がれているグラスには珍しくもただのミネラルウォーターが注がれていた。いつもならもう酒の缶が転がっていてもおかしくない時間なのに、一つも空いた形跡がない。ああ、前来たときからネイル変わってんな。冷えた脳味噌にひとつひとつ普段と違うことをインプットしていく。どうでもいいことを考え続けていないと、彼女の言葉を理解してしまいそうだった。


正しくこれは別れ話ですらなかった。お付き合いしましょうだなんて初々しい言葉を交わした覚えもなければ、たまに夜を共にするだけの、どこを取っても真っ当ではない歪な関係。しかも今現在同じ状況にある彼女(仮)が他に何人もいる。
だから、その内の1人と関係を断つだけのこと。よくあることのはずだった。なのに愛空の頭は必死にそれを回避しようと足掻いている。何故かは自分でもわからなかった。


「なぁに?酒も煙草も過剰摂取な社会人の家にガキが転がり込んでちゃ悪いってのかよ」
「全部自分で言ってんじゃん」

それはそうだ。不健全だなんて誰よりも自分が理解している。

「でもさあ、俺もう19な訳よ。もうセーショーネンなんちゃらみたいなのには引っかかんねえしさあ、問題なくねえ?」
「出会った時にはギリギリ法に触れてたからね」
「18の誕生日来るまで待った健気さを評価してくれよ。てか法に触れてた可能性あんならさあ、これ俺が周りに言ったらどうなると思う?」
「罪は罪だからねえ、ちゃんと償うよ」
「嘘嘘言わないからやめてマジで俺がひたすら情けねぇから」
「だから穏便に全部なかったことにしようって言ってるんだけど」
「無理。無かったことにしたくない」


はっきりと言い放ってから、目の前の彼女と同じ困惑した顔になっているのがわかる。どうして言い切れる?俺も俺がわからない。どうしてこんなに彼女のことを手放したくないのか。
なんで?と漏れた声には途方に暮れた響きがあった。あー、情けない。


「え?逆に聞きたい。女側から別れ話されるの初めて?そんなわけないよね」
「無限にあるけど」
「わるい男だよ本当に」

思わず頬を摩りながら答える。つい最近も見事な平手を食らった覚えがある。ずっと上の空、私のことちゃんと見たことないでしょう。名前はええと、誰だっけ。あの娘の見る目は正しかったらしいと苦笑する。上の空と評されたあの日の俺は一体何を考えていたんだろう。
頬を引っ叩かれる前、目の前で呆れた顔をしている女が好きなブランドのショップが近くにあった。そのことはぼんやりと覚えていた。



す、と小学生のように手を挙げる。はい、オリヴァくんどうぞ。

「すいません、俺今混乱してます」
「そうだろうねえ。持ち帰って検討する?」
「アリ?なら次までに考え……。待て、この家に来んなってもう適用されてる?」
「きみが家から出たら適用されるね」
「持ち帰りキャンセルで!」
「なんだ、引っかかんなかった」

楽しそうにグラスをつつく悪い大人に大きなため息を吐く。なんて面倒なことをしてくれるんだこの女。こんなときに引っかけ問題を出すんじゃねえ。
でも、別れるとなったらメッセージアプリもブロックしてすっぱりと他人に戻るタイプの女だ。家から出た時点で今後連絡も取れなくなるだろう。


「次来た時開けてくれるまでドア前で粘るってのはアリ?」
「それは無理だね」
「なんで?」
「次君が来た時ここに私は住んでないから」
「あーなるほどなぁ……?」
引っ越しか。なら尚更ここで話つけないと二度と会えなくなる。考えただけで眉間に皺が寄った。



「ねーえ、私そろそろお酒飲みたいんだけど」
「飲めばいーじゃん」
「この話終わってからじゃないとさあ、酒の勢いでしか言えない別れ話ってのもよくないじゃん。相手シラフなら尚のこと」
「この際俺が飲みてぇよ……」
「あ、人に罪を重ねさせる気だ」
「違う違う違う違う」

アルコールのせいにしてしまえばみっともなく縋りついても笑ってくれんのかなとか、こう考えてる時点でもうどうしようもなくダセェわ。


というかさあ、と女は爪を弄りながら口を開く。
「愛空別に他にも彼女いるじゃん。じゃあよくない?……あは、あからさまに食いついた。他の女に嫉妬して家来んなって言ってるわけじゃないよ」

少しの希望が見えた気がして、秒でふりだしに戻った。解決の糸口が見えずに頭を抱えていても、他に好きな人ができたわけでもないよの一言にこんなにも救われた気持ちになる。なら、いい。俺以外の人間を愛したわけじゃないなら。もう二度とその心が他のやつのものになるわけじゃないなら。でもその程度じゃ全然足りない。何故だかわからないけど、俺はこの女に愛されてたい。


「いやじゃあまあ聞くわ。なんで急にンなこと言いだした?」

「そうだねえ。まあ色々あるのと、この辺りが引き時かなぁって」
ホラ、情が湧いたら潮時でしょう?


ここまで頑ななくせになんだそのふわっとした回答は。女の薄く笑んだ口から溢れた言葉を理解するのに数秒かかった。脳をフル回転させている間、彼女の長いまつ毛が目元に影を落としているのをひたすらに見ていた。


待て。情が湧いたら潮時、ということは彼女はすでに俺に情が湧いてるということで。両手を合わせてお願いのポーズを取りながらば、と頭を下げる。


「頼む!絆されて!今んとこ勝ち筋それしかねぇんだわ!」
「いいねえ、判断が早いよ」

くふくふ笑う女は綺麗で、どんなことをしたって、やっぱり他の誰にも渡したくなかった。


「ついでだから色々の部分も教えてあげようか?」
「えー聞きたくねえ……。いや、ハイ、お願いします。直すから別れるのやめて」
「それはどうだろう」



「まず、家の中の物が勝手に増えてたり減ってたりして管理が大変」
「これからはちゃんと報告するようにします」
「はい。他の彼女にはそうしてあげて」
「ヤダ。無理。もう居ない」
「無理あるなあ」
「全員切るから」

そんなことしなくていいのにと今日一困った顔をしてみせる彼女のことが本当にわからない。
俺にどうしてほしいんだよ。そっか別れてほしいんか、でもそんなの無理だ。


「アスリートの前で煙草吸うのはダメかなってベランダ出てるのにいっつも追いかけてくる」
「置いていかれんのさみし〜じゃん」
「何を可愛こぶってんの」
「禁煙してよ、俺のために」
「無理」


「愛空ごついから寝てる時上に腕とか脚とか乗ってくると重くて目ぇ覚める」
「じゃあ最初から俺が抱きしめて眠れば問題ないんじゃないでしょうか」
「このご時世にエアコンの温度何度にするつもりなの」
「俺が電気代払うから」
「歳下のセフレに払ってもらう電気代はないよ」
「セフレ……」
「なんであんたがそこに傷付くの」


「体力差を全然考慮しない」
「それはあの……、スイマセン」
「次の日動けないのに気付いたらいなくなってる」
「待って!違う!朝居ないときは基本練習とかであって、他の女のとこ行ってるわけじゃなくて!」
「知らないしどっちだっていいよ。次の日に響くのが問題なの」
「本っ当に申し訳ございません」



2人ともなぜか正座しながらこれまでの不平不満を擦り合わせていく。いくらなんでもめんどくさすぎる。なんでこんなことなってんだろう。日頃の行い、明確なその言葉が脳裏でネオンみたいにビカビカ点灯している。


謎のミーティングみたいな時間もひと段落して、あーもー喉乾いた!無理!と諦めて酒を取りにいった彼女が缶を差し出してくるからプルタブを開けて返す。ネイルを施している爪だと開けづらいからと渡される恒例行事。いつも通り、爪が可愛くて申し訳ないねえと言って笑う女はこの先誰にこの蓋を開けてもらうのだろう。

「あー美味ぁ。……でね?ぶっちゃけるとさあ、めちゃくちゃ想定外ではあるよ」
「……なにが?」
「愛空めんどくさい女嫌いでしょ?だからこの戦法取ったんだけど。我ながら本気でめんどくさくない?」
「心底めんどくさいというか心臓に悪い。でもびっくりするほど別れたくねぇ」
「なんでかなあ?結構な確率で一言目でオッケーしてくれるかなと思ってたんだけど」
「俺が1番意外に思ってるわ……」


萎びた俺の絞り出す声を聞きながら、女はグラス片手に心底不思議そうに言う。

「愛空ってさあ、そんなに私のこと好きだったの?」

いつか来るとわかっていた問いなのに、その答えはまだ俺の中になかった。から、頭に浮かんだことをそのまま口に出す。少しでも耳障りのいいように取り繕ってる余裕はどこにもなかった。


「素直に言うわ。わかんねーの。こんなん慣れてるはずなのに、なんでこんな執着してんのかわかんねぇ。でも、多分、ハマるとヤバいってなんとなくわかってた。から、保険いっぱいかけて、ずるずる逃げてたんかも」


そして今、逃げる段階ではなくなった。ずっと考えることを放棄してきたツケは多額の負債となって目の前に提示されている。


「錯覚じゃない?逃げた魚は大きいみたいな」

「それもわからん。でも、このまま手ェ放したら俺多分一生後悔する」

「今ならまだ忘れられると思うんだけど」

「もう無理。なあ、お願い。一個だけ教えて」
「俺のことまだ好き?」


「好きだけど嫌い」

ぐい、とグラスを傾けた女は空になったグラスに缶の残りを注いだ。流石に白状するか、こっちだけ気持ち開示しないのもフェアじゃないし。こっからの醜態は全部お酒のせいにするよ。そうして覚悟を決めるように中身を一息に飲み干した。たん、とグラスを置く音が響く。

「ほんとはね、はやくフってほしかった。君はなんかすごい人だし、私はただの会社員だし。立ち直れなくなる前に別れて、君はもっと若くて可愛い子と結婚して、私はそれをニュースで知りたかった」

そもそも知らない女からの通知隠そうともしないし、たまに頬赤くなってて心配するし、友達に紹介できないし、かと思ったら私の好きなもの全部覚えてるし、ずるくて最悪な男だから。泣いて泣いて、それではやくあんたのこと思い出にしてやりたかったと、ずっと浮かべていた薄笑いを引っ込めむっとした顔で彼女は言う。


「もっと早くに引っ越そうかと思ってたんだけど、愛空の荷物まとめるの辛かったから」
「だから俺に片付けさせようって?」

つい、と目をやったベッドルームには勝手に置いてった俺の服や小物がすぐ目に入る。彼女が着たらワンピースになって2人で笑ったTシャツ、なんとなく似てると思ってゲーセンでやたら金かけて取ったぬいぐるみ、どっちかわかんなくなるからって可愛いシール貼られた充電ケーブル。いつの間にか増えた生活の欠片に鼻がツンとする。

そう、愛空なら慣れてるだろうしなんも思わないかなって。
思わないワケなくねぇ?こんなにあんたのこと好きなのに。

2人とも鼻声になってきたから、にじりよって顔が見えないように抱きしめた。ちょっとした逡巡があって、あーあ、絆されちゃった。と言いながら、ゆるやかに手が背中に回る。その手の熱さに堪えられなくて、抱きしめる力を強めて柔らかい髪に顔を埋めた。


「服とかなんかいっぱいあんのに。急に言われても持って帰れねぇよ」
「それはそうだねぇ」
「俺泥棒みたいになっちゃうじゃん、困る」
「んふふ。今気付いたけどね、私の言ったことで愛空が困ってるとちょっと嬉しい」
「なにそれ……」
「次の住所教えてほしい?」
「絶対教えて……」





「……というわけで最近彼女が1人になった」
「やっと落ち着いたのお前」

練習終わりのロッカールーム、妙に浮かれてるチームメイトを突っついたら世界で1番腹立つ惚気話を聞かされた俺のことを誰か慰めてほしい。

本命、1〜2年前から付き合ってる年上だろ?
は?なんで知ってんの。なんでもクソもあるかよ。
「だってお前、昔は女の話するとき特徴バラバラだったけどさあ、ここ1〜2年その例の彼女の話しかしてねえじゃん」
「……マジ?俺そんなモロバレだった?」
「バレバレ」

マジかあ、じゃなくて、いいからそのにやけたツラをさっさとしまえってんだ。神様、どうか俺にも可愛い彼女をください。できればハリウッドスターの。