オリヴァ・愛空の目がほしい
⚠︎成人済み時空
ラブホテルの一室。ベッドに座った男の頭を、立ち尽くす女が上を向くように押さえている。体格のいい、髭の生えた男の顔を女はまるで高価な磁器でも持つかのようにそうっと、慎重に支えていた。今にも唇を寄せそうな距離で、うっとりと男の顔を見つめる女の耳にかかっていた黒髪が滑り落ちて男の頬を柔らかく撫ぜる。男がつややかなそれをかけ直してやろうとすれば、「よそ見しないで」と柔らかくも鋭い声に制された。
「ナマエちゃんの髪なのに?」
「ダメよ。目を逸らさないで」
「はいはい。ほんとにナマエちゃんは俺の目が好きだねぇ?」
「ええ」
綺麗、と息を吐く彼女は言葉少なに肯定しながら細い親指で愛空の目元をなぞった。体温の高い指先は、あたかも薄い皮膚から熱が移ったようだった。
ホテルへ行って、貴方の目をよく見せて。あとはどうしたって構わないわ。バーで横に座った女に持ちかけられた時、ただのイカれた女だと思った。OKを出したのは女がどう見ても濃い酒を飲んでいて、顔とスタイルが良かったから。夜の隙間を埋めるのに丁度よかった、それだけだ。酔っ払いの戯言かと思ったら、最初に眺めるだけ眺めてハイどうぞと身体を差し出されたから、お互い都合がいいと連絡先を交換した。
知っていることは名前と連絡先だけ。はじめに少し鑑賞される以外は手慣れた関係だった。
これ以上踏みこまなければ終わることはない関係性。逆もまた然り。
終わり方の明快な関係は楽だ。楽だからこそ、切羽詰まるまではこの関係を続けていられる。
熱のこもった女の目に反射した自分の目の奥に潜む欲を眠らせたまま、男は女の顔を見上げ続ける。
目覚めようとしている欲の名前は独占欲という。オリヴァ・愛空はその存在をずっと無視してきた。じわじわと膨れ上がるそれが瞳に表れた時点で、この女は彼の前から姿を消すことくらいわかっている。ああ、どうか眠っていてくれ。何もかもが面倒臭いだけだとわかっているのに。今のままでいたいという怠惰な安寧を嘲笑うかのようにぐらつく欲望が密かに腹の中で煮えている。この謎めいた女のすべてを知りたい、だなんて。
いつ囚われたのかもわからない。滑り落ちる黒髪で静かに周囲を隠されるように、気付かない間にただひとりの女しか見えなくなっていた。
女を捕まえて、どこにも逃げられないようにして、他の何もかもを捨てて、俺と同じくらいお前も俺を欲しがればいいと喚き散らしてやろうか。
きっとそういう話ではないのだ。わかっている。わかっているからこそ、この破滅願望にも似た激情が浮かびあがろうとするたびになんとかそれを押し殺す。そして代わりに瞳に情欲を浮かべ、その小さな頭を引き寄せ唇を押しつけ何もかもを誤魔化しているのだ。この感情は有耶無耶になってくれなくとも、せめて飢えだけは凌げるように。
「今度は俺の番だぜ、ナマエちゃん」
ベッドに長い髪が散らばっても、外らされない視線にどれだけ安堵していることか知れない。
何度夜を重ねただろう。いつものホテルで、いつも通り女に愛玩されていた、はずだった。
いつもより酔っていたせいだ。さも愛おしいですと言わんばかりの女の表情に、煮詰まった感情が口から溢れ出してしまったのは。
ナマエ、好き、好きだよ、愛してる。なあ、ナマエちゃんのこと全部教えて、愛して、目ぇだけじゃなくてさあ、俺のことも愛してよ。
熱を持っていた女の瞳が瞬きひとつですぅ、と冷える。ああ、やっちまった。頭の中の冷静な俺が終わりだな、と呟く。酔いのせいにすればいいのに、冗談、と声に出すこともできずにただ目を彷徨わせる。何もこんなに要らないことだけ全部口から出なくていいじゃねえかよ。
永遠にも感じる黒い幕の中で、女の赤いくちびるがつい、と上がった。
「つかまえた」
一瞬壮絶な笑みを浮かべた女は、やっと落ちてきた、と心底嬉しそうに笑う。混乱と、女が初めて見せる無邪気な顔に頭がくらくらした。
え、は、なに、なにが?「全部あんたが言ったんじゃない」そりゃ、そうだけど。なに、いつから。途切れ途切れに困惑を示すと、「いつからって」女は上機嫌に、それでいて感慨深げに答えた。
「初めからよダーリン。私はずっと、あんたが私だけを見ればいいと思ってた」
にこにこと屈託なく笑うのに出てくる言葉は欲塗れで、ギャップに思わず言葉を失う。
「こんな女だと思わなかった?幻滅した?でももうだめよ、逃がしてあげない」
諦めて愛されて頂戴、と細められたその目にあるのは俺と同じ。煮詰められてどろどろになった感情と、綺麗に覆い隠された絶望。なんだ、あんたも同じこと思ってたんじゃねえか。幻滅するのはお互い様だ。似たもの同士の2人はこの関係を続けたくて、でも壊したくて、葛藤しながらずっと足を止めていただけだ。
おそろいの絶望をどうにか拭ってやりたくて、目の前の細い身体を壊れそうなほど抱きしめた。目を丸くする女に逃げねえよ、逃げるわけねぇじゃんと蕩けそうな声で耳打ちする。声が甘さを増すのをもう留めておけそうになかった。
「……今までお互い逃げてきたのに?」
「俺はもう逃げねえよ。だからさ、ナマエちゃんも逃げないで。もっともっと俺のこと欲しがってよ。俺ももう我慢しねえから」
華奢な身体を抱きしめたまま2人でベッドに倒れこむ。お互い散々今更なことを聞いて、笑って、言葉が途切れた時に吸い込まれるようにキスをした。子供がするみたいな、やわらかい、触れるだけのキス。唇を離してじ、と見つめると、ちょっと前まで穴が空くほど見てたはずなのに、はじめてみたいに頬を赤らめて目をそらす姿にぐっとくる。
笑わないでよ。だってずっと綺麗な女の人だったのに、急に可愛くなるからさあ。可愛い女はきらい?そんなん大好きに決まってんじゃん。そう、じゃあ、嫌になるまでは愛してよね。……あー、マジでそういうとこ。そっちこそさあ、俺を本気にさせたんだから、ちゃんと責任取ってくれよ?……ふふ、こわいかお。私食べられちゃうの?そりゃ勿論、今後の人生ごといただきますとも。
赤い顔でへにゃっと笑う女にいよいよ心臓が変な動きをしだしたから、誰にも取られないように急いで指輪を買いに行こうと決めた。
本気になった彼がややこしい関係を全部精算して、自信のあるようでない彼女を口説き続けてベルベットの小箱に入った指輪を受け取ってもらえるまであと一年。