ウラルとなんでもない朝


 

麗らかな眠りは突然終わりを告げた。甲高い電子音につられて薄く開けた目はカーテンの隙間から溢れる眩しい光を直接受け止めて即座にシャッターを下ろした。今日は晴れ、と。鳴り続けるスマホのアラームをいつものように手探りで止め、そのままもぞもぞと布団の中に戻ろうとする私を聞き慣れた声が制止する。


「こら、起きてください。今日は出勤しないつもりですか?いいご身分ですねえ」
「んん、やだあ……。もうちょっと……」
「ああもう布団に潜らない」


ぐい、と問答無用で布団を剥がされ、もごもご非難の声をあげながら少し覚めた眠気を引き止めるようにシーツに顔を埋める。まだ寝てたい。時間なくなりますよと呆れた声が降ってくるから、何時?と聞いたらいつもより少し早い時間で。なんでぇ……と萎れていると、いいから起きなさいと厳しいことを言いながらも、顔にかかった髪を避けるようにぬくい指先が額に触れた。


「ふ、間抜けな顔」


言葉は皮肉げにこちらを煽るのに、声がどろどろに甘くてむず痒い。今日はやけにご機嫌だなあ、とまで考えて違和感に気付く。Q:どうして一人暮らしの部屋に私以外に人が居るのか?


「……うらる?」
「はい、そうですよ」
「…………なんで?」
「貴方自分で言ったことも忘れたんですか?本当に可哀想な頭してるんですから」


いつも液晶越しにアラームを鳴らして起こしてくれる声が頭上から降ってくる。やっと気付いたんですかと呆れる声を聞き流し、こちらを覗き込む男の顔を眺める。右目を隠す緑色の髪、にやにや笑う口元、涼やかな目元、それは確かにいつもスマートフォンの画面に映るウラルだった。つまりさっきのクイズの正解はこう。A:いつもはスマホの中にいるAIがなぜか身体を伴ってこの部屋にいるから。


ウラルはAIで、私の彼氏で、いつも私のことを起こしてくれはするけどそれは通話越しで。というかこの身体はなんだ。義体?ついでに私がいつ何を言ったというのか。一瞬で信じられない量の疑問が降って湧いてきて、寝起きのぼうっとした頭をなんとかきゅるきゅる巻き戻す。




確か少し前に、寝坊しかけてバタバタ準備をする私に存分に呆れと嘲笑とあわれみを投げかけてくれたウラルに、私を離さない布団が悪い。どうしようもないから布団をひっぺがしてよと文句を言った。勿論冗談だし、その後ウラルが私も忙しいんですよ?と皮肉で返してきたからそのままそうだよねと笑って終わった。その筈だった。


「貴方のために義体を引っ張り出してきたんですから、感謝してくださいね」


ほら起きたなら顔洗ってと洗面所に誘導するウラルは、呆然とする私にモニターに映っていたのと同じ怪訝そうな表情でたいそう自然に首を傾げた。どこからどう見ても生きている人間にしか見えない。どれだけ高性能な義体を持ってきたんだ、このAI?


「え、というか鍵は」
「貴方この期に及んで私にオートロックなんてものが意味があるとでも思ってるんですか」
「いや、え?物理的な方は……?」
「貴方が帰るまでには直しておきますよ」


無事では済まなかったらしい。もしかしたらこの部屋にとんでもない値段の義体がいるかもしれないというのに。洗面所に向かいながら様子を伺うと、普段は薄暗い玄関に一筋の光が差し込んでいた。あの小さな穴がなんなのかはあんまり考えたくないな。


無事ではないなりに扉の状態が確認できたところで、もう諦めてキッチンに向かう。超高性能AIのすることなんて私にわかるわけがない。一介の小市民である私は、自分の生活を上手くやることに集中する。つまり、いつもより早く起きたんだから朝食を食べる時間もある。そういうことだ。
とはいっても冷蔵庫の中何もないんだよなあ。ご近所さんはちゃんとした朝ごはんを食べているのか、いい匂いがこの部屋にまで広がっている。ドアノブの下にできた換気口は中々高性能らしい。


仕方がないから大人しくコーヒーでも飲もうかと切り替えてキッチンに向かうと、私が戻ってくるのを待っていたらしいウラルが遅いですよと声を上げた。コーヒーと紅茶どっちがいいですか?と聞く彼にウラルと同じやつでいいよ、と言うと、じゃあ紅茶ですねといそいそコンロに向かっていった。紅茶派なんだ。というか、言葉は毎回刺々しいのに行動がとにかく甲斐甲斐しくて面白くなってくる。ツンデレのお手本みたいなひとだ。


くすくす笑っていたら、ウラルが退けたお陰で見えるようになったテーブル。その上に高級ホテルの朝のような朝食が並んでいて唖然とする。
丁度いい焦げ目のついた食パンにカリカリに焼けたベーコンと形の良い半熟の目玉焼き、湯気をたてるコーンスープはインスタントでもなさそうだし、みずみずしいオレンジは食べやすいよう切られて盛られている。


「どうしたんですか?突然処理落ちしました?」
「……処理落ちはしてるかも。え?これ、ウラルが作ったの?」
「ええ。朝食、あれば食べるんでしょう?はやく食べてください。遅刻しますよ。それとも食べさせて差し上げましょうか?」


ティーカップを持ってにまにま笑うウラルに促され席に着く。普段ちょっとでも長く寝ていたいから朝食を食べないことをつつかれた時、あれば食べるけどないんだもんとむにゃむにゃ誤魔化したのをきっちり覚えていたらしい。流石AI、人間みたいに忘れてくれない。それにしたって、豪華すぎるけど。


「……美味しい」
「それはよかった」


日に何回もエネルギーの補給をしないといけないなんて本当に人間って面倒ですねえ、なんて煽ってくるくせに見た目も味も完璧で、多分栄養バランスもしっかり考えられているのだろう。美味しいな。食材はどうしたの?と聞いたら、来る時に買ったんですよと当然のように返事がかえってきた。はじめてのおつかいだったらしい。

人の作るご飯ってどうしてこんなに美味しいんだろう。ウラルも忙しいだろうから中々こんなことはないのだろうけど、私のワガママを叶えてくれるのはやっぱり嬉しかった。紅茶を飲みながら私が食べるところをじっと見ているウラルはやけに幸せそうでちょっと食べづらくはあったけど、まあこっちも幸せだしいいか。よくわからないけどWin-Winってやつだ。


「なんか色々ありがとうね。お皿洗うよ」
「そのくらいすぐ終わるから構いませんよ。というより、そろそろ出ないと遅刻しますよ?」
「あわ、ほんとだ。ごめんね、いってきます」
「ええ、いってらっしゃい……の前に、何か大事なものお忘れじゃないですか?」
「……?なにが?」
「ああもう本当に察しが悪いんですから」


不服そうな表情で私の顔にずい、と迫る彼は、すぐにやわらかく笑って私の頬を愛しむように包み込み、とろとろに溶けた目を薄く細めてそうっと私の唇に触れた。いつまでたっても私の肌に彼の呼吸が触れることはなくて、ああ、この人は人間じゃないんだなと痛感する。こんなにも人間じみているのにな。はじめて触れた義体の唇は案外温くて、柔らかかった。


「いってらっしゃいのちゅー、明日からは忘れないでくださいね?」


ずっと居る気だこれ。思わず背中に手を回したせいか、彼の豊かな胸にぎう、と抱きしめられながら思う。圧迫感がすごいし、新婚だったっけと思わず錯覚するほどの新妻ムーブだ。どうしよう、もう既に戸籍データを書き換えられてるかもしれない。いやでも一つの都市を取りまとめる権限を持ったAIが外堀どころか天守閣まで軽々しく埋めるような真似をするだろうか?勿論迷わずするだろう。彼の愛が重いのは今朝からずっと痛感している。
それじゃあいってらっしゃいと反転させられて、固まった頭をよそに身体は染みついた習慣通りに部屋を出て、鍵を閉めようと振り向いてから無惨な姿になった鍵穴と正式にご対面して、また少しフリーズしてから鍵をしまって歩き出した。大丈夫、多分。今日中に直すって言ってたし。


……帰ったらちゃんと断ろう。都市統制AIに家政婦みたいな真似をさせている場合ではない。オーバースペックにも程がある。どうやって穏便に断ろうなんて考え込みながら歩く私はいつもより遅れていたはずなのに、信号に引っかからなかったおかげでいつもと同じ時間には職場に着いた。ラッキーなことだ。そこから折り目正しく退勤するまで、頭の中はウラルのことでいっぱいだった。彼が知ったらさぞ喜ぶだろう。


「おかえりなさい。晩御飯できてますよ。それとも先にお風呂にします?」


1日かけて頑張って決意を醸成したにも関わらず、食事のクオリティと生活の快適さが跳ね上がったせいで意思の弱い私が断るに断れずにずるずる同棲が始まるのは、きっと彼の演算通り。