岡田以蔵と馴れ合い未然*


 

*ライズオブローニン




昔、こんなことがあった。

江戸の山中に打ち捨てられた荒屋、天誅と称した人斬りを続け追われる身となった岡田以蔵が身を隠して住み着いているその場所に、隠し刀と呼ばれる男が訪れた。


その夜更けの訪問者は昔馴染みの以蔵を訪ねに来たわけでもなく、ましてや人斬りを討伐に来たわけでもなく、ただ単にこの辺りに用があったのだと言う。予想だにしない先住者にわずかに目を見開いた男は以蔵か、と己の名を呼び、たいして警戒するでもなく何もしないから朝まで居させてくれと二の句を継いだ。


その時には既に敵同士であったはずだ。親友と共に袂を分かち、次に会う時にはどちらかが死ぬまで斬り結ぶものだと信じていた。それでも、その日以蔵は想定より多い幕吏とその手勢を相手取って疲れていて、隠し刀も何があったかは知らないが、やけに深い血の匂いを滲ませ元々の暗い顔色に隠しきれない疲弊を滲ませていたから。


「……やめやめ、今日はもう終いじゃ。居りたいなら居ったらえい。ただし妙な真似したら容赦せんぞ」
「……恩に着る」


威嚇する獣のようだった身体から力を抜いて、いつでも抜けるよう握りしめていた刀から手を離す。そして、朝には出ていけと告げ、招かれざる客が視界に入るようにして以蔵は少しでも身を休めることに専念することにした。警戒は解かずに、怪しい動きがあればすぐに男を斬れるように。

朝、少しの物音と人の気配に飛び起きた以蔵はいつの間に寝入ってしまったのかと舌を打つ。起きたのか、と本当に寝て起きただけといった様子の隠し刀は荒れ果てた小屋に転がる酒瓶を幾つか壁に寄せた後、思い付いたかのようにこう言った。


「今度は酒でも持ってこよう」
「もう来るなと言いゆうんじゃ」









邪魔するぞ、と戸もない小屋の入り口で律儀に告げる男は、その日も変わらず血の匂いを纏っていた。


前回の礼だと宣言通り持ち込まれた酒とつまみを見て、眉を顰めた以蔵は、一、二杯隠し刀に毒味と称して飲ませておいてはそのしらこい顔にため息をついて持参のひとつを飲み始めた。
そもそもが龍馬を通じて出会っただけで、二人の間に憎みあうほどの因縁があるわけでもないのだ。さらに言うなら、誰からの頼みもないのに殺し回るような主義や思想など隠し刀にはろくにない事は薄々以蔵にもわかっていたので。



酒のついでに何の気なしに染みついた血臭の所以を問うと、男は隠すでもなく事の顛末を開示した。曰く、ここにくる前に桂の命で情報を持ち逃げしようとしていた身内を1人斬ったのだという。


「おまん、いつか横浜の屋敷でそいつと話しちょらんかったか」
「……覚えていない」
「はん、わしでも覚えちゅう言うのにおまんはげに冷たい奴じゃなあ!誰を斬っても泣くところなぞ想像もつかん」
「心の機微のことを言ってるのか、それは」


それなら俺の管轄外だと無表情で告げる男はその変わらぬ表情に反して思いの外話しやすく、打てば響くというほどではないがそれなりに返答は返ってくる方で、普段誰と話す事もない以蔵にとって男との会話はそう悪いものではなかった。


とはいえ、自らのことをろくに話さぬこの浪人のことを以蔵は特別何も知らない。出会った当初、龍馬からは人探しをしていると聞いた。今もそれは変わらぬのだろうか。脱藩してから何年も、だれも名を知らぬただ1人だけを追い求めて。


ふと思う。このとびきり無愛想な男でも、その探し人を斬れば涙のひとつでも流すだろうか。


はん、と以蔵はひとつ鼻を鳴らしてくだらない想像を酒と共に流し込んだ。別に誰彼構わず斬りたくて斬っているでもなし、己は世を正すために必要なことを成しているのみ。そうだったはずだ。
それにその仮定は、この男は、他の人間のためなら感情を動かすのかということに他ならない。ぼんやりとそのことに思い当たった瞬間、久々に満たされた臓腑がぐつり酒焼けしたように不快を示した。


(なんじゃ、今のは)


以蔵は元々深く考えることは得意ではない。それが酒精に溺れる今なら尚のこと。そんな訳で一瞬浮かんだ煩わしさも、意識と共に酩酊に眩んでいった。








「終わりかえ」
「これで最後だな」


数週間から数ヶ月おきに相も変わらず男は酒を持って現れた。定期的に潜伏先を変える以蔵をどこで見つけ出すのかは知らないが、その頃にはもうそんなことはどうでもよくなっていた。お互いいつでも殺せるのに殺さないということは、まあそういうことなのだろうと。


空の酒瓶に囲まれた隠し刀はほんの少しだけ血色の表れた目元を細め、最後と称した自らの杯を流し込むように煽った。その様がなぜか気に障り、以蔵はひとつ舌打ちをする。これが持ってくるのは以蔵では到底手に入らぬような良い酒だというのに。だから、それがひどく勿体無かった、それだけだ。
以蔵は誰に言い訳するでもなくひとつ男の横へ腰をずらした。あの無類の愛嬌を備えた幼馴染なら、まだ帰るなと、それだけのことが言えたのかもしれない。


躙り寄る男を無感動に眺めていた刀の目が、じきに以蔵が向かい合い膝立ちで覗きこむさまを映して音もなく見開かれる。ぐちゅ、という生々しい音とともに酒が2人の口内に染み渡り、飲み下せなかった一筋が隠し刀の顎を伝った。それを息継ぎの狭間に目にしても、なんの感慨も生まれなかった。


初めは止めるように胸元に置かれた手も、むせかえるような酒気が互いの唾液で塗りつぶされたころにはゆるく以蔵の色素の抜けた髪を撫で付けていて、その後のことは誰も知らない。









何万もの雨粒に打たれ、赤く色付いた紅葉がざあっと音をたてる。剣戟の果て、地面に広がった血も落ち葉も等しく雨に流され、折り目正しく石畳の隙間に流れていった。


斬っても斬っても世界は何も変わらなかった。腐敗を糾す正義の行いは斬って追われての繰り返しにただの人斬りと疎まれるにまで身を堕とした。頭がぼうと麻痺したように白む。どうにか引き戻しに来た古馴染の手も振り払って、ひとり歩き疲れた迷子の男は自らを刀と称するもう一人の人斬りの手で漸くその足を止めた。
呵責も悲嘆もない、ただ相手を仕留めるためだけの冷えた一太刀は、理想も教えも霞むほどに斬り続けた人斬りの末路にしては上等なものだ。それでも、と以蔵は思う。いよいよ登る血も無くなって、頭は妙に冴え渡っていた。


「どちらも人を斬ってきたがは変わらんじゃろうに。わしとおまんら、どこで道を違えたんかのう……」


前へ前へと進む彼らと袋小路をひたすら回り続ける己、一体何が違ったのかもわからなかった。どちらが此方に立っていてもおかしくなかったはずなのに、その道は二度と交わらぬまで離れてしまった。
人を斬ることばかりが得意な男たち、朝と夜なら迷わず夜を選ぶ日陰者。その夜も、きっとすぐ明ける。他でもない、彼らを結ぶ唯一の友の手によって。



「龍馬さんを頼む……。あん人の、刀になってやってくれ……」


血が泡となって口の端を伝う。水っぽく聞き取りずらいそれに静かに、しかし確かに頷いた刀に安堵する。自分には成し得なくても、この強い男ならきっと。いつの間やら遠いひと、龍馬さんの言う日本の夜明けは、きっとそう悪いものではないだろう。見届けられないのは口惜しいが、今はもう、なにも考えずに眠りたかった。


「以蔵」


酔っていたって口数の少ない男が珍しく自分から口を利く。その顔は危なげなしに以蔵を倒したにも関わらず、相も変わらず水死体もかくやという色をしていた。


「龍馬はどうだか知らないが、」


あいつはすごい奴だから、と言葉を区切り、しとどに濡れる人斬り二人は気を失い木にもたれかかっている男に目を向ける。最後まで以蔵を此岸に留め置こうと奔走した男。悩み、苦しみ、それでも光を失わぬ、近くて遠い友人を。


「俺と以蔵は同じ地獄に堕ちると思うよ」


だから、今度は地獄で酒を飲もう。
常と変わらぬ無表情でそう呟く刀の目元に雨が伝うのがまるで涙を流しているようで、まさかこの人でなしが泣くわけもあるまいに。ほんの少し口角を上げた以蔵は、もうあと何回も息をしないであろう身体から力を抜いた。ぐしゃ、だかべしゃ、だかの水っぽい音が最期に響いて、そうして雨に体温の紛れるに任せた。なにせこの男なら、どちらの約束も違える事はないと思ったので。