時計の針が定時を告げる。朝から仕事終わりのことしか考えていなかった私は、早々にパソコンを閉じ、化粧を直して会社を飛び出した。別に恋人との予定じゃない、ただの気になる人と飲みの予定があるというだけ。それだけで時計の進みがこんなに遅いなんて思ってもみなかった。


予約しとくからと言って愛空が選んだのは小洒落た個室の居酒屋で、やっぱり女慣れしてる男は選ぶところも小慣れてる。ただの女友達と飲む時にだって個室を選ぶのはきっと自分がそれなりに有名人だからってだけじゃない。


「おお、おつかれ」
「ごめん待たせた?早かったね」
「いーや、今日オフだったからさあ。買い物ついでにそのまま来たんだわ」


先に通されてた愛空の向かいに座ると同時に2人分の飲み物が運ばれてくる。お互い最初に何頼むかも理解しているくらい友達付き合いは年季が入っていて、それでも私たちの関係は一向に仲のいい友達から動きはしなかった。その間にたった一夜の過ちすらも無く。その事を考えると気が沈むからせめて今くらいは考えないでいようと思う。


とはいえ一介のOLと現役サッカー選手の間で話すことといえばもっぱら上司の愚痴だとかチームメイトのバカ話だとかそういう話で、ごくたまに元カノがしつこいとかの話がしらっと入り込んでいてその度につい酒のグラスに手が伸びる。私ならそんな面倒な事しないのにって言葉を静かに飲み下しながら。


酒もある程度回って愛空がトイレに立った時、空のグラスを向こうの席の方に寄せると、彼の席の横で雑に置かれたコートが目に入る。彼が動いたついでに半ばずり落ちかけているそれを直そうとした瞬間、コートのサイズに見合った大きなポケットから銀色の小物がこぼれ落ちた。とっさに動いた手に触れてグラスが倒れてしまっても、見開かれた目はコートのポケットから転げ落ちた銀色に釘付けられたままだった。


どこからどう見ても可愛らしい女物。銀色の蓋をかちりと開けると覗くのは春色のかわいらしいコーラルピンク。無意識に握りしめた爪が手のひらに刺さった痛みでやっと我に帰ってそのかわいいリップを自分のバッグに放り込んだ。


彼女のものなのかオトモダチのものなのかは知らない。忘れ物なのかプレゼントなのかも。愛空が誰かにあのリップを手渡す様を想像して、さっきまで飲み干していた赤ワインみたいに赤い赤いくちびるを噛みしめる。あたしに合わない愛らしい色。ふわふわしてて、よわっちくて、守ってあげたいカンジで、こんなときに涙の一粒でも流せるようなカワイイカワイイおんなのこ。



ここからどんな顔してればいいのか全然わかんなくて、戻ってきた愛空にごめん、用事できたとぎりぎり取り繕った笑顔で告げても愛空は引き留めるでもなく気をつけろよと軽く手を振った。そこから店を立ち去るまでの記憶が全然ない。多分、何も起こらなかった。店員も愛空もにこやかに私を送り出しただけだ。どうせなら修羅場のひとつでも起こせばよかったってちょっと思った。思っただけだけど。だってただの女友達でどう修羅場を起こせばいいのよ。



雑然とした喧騒の中を無感動に抜けていく。心も身体も空っぽみたいだ。足取りが妙に覚束ないのはアルコールのせいだけなんかじゃない。
「お姉さんカワイイね!俺らと飲まない?」という軽い声にヤケクソでついて行ってやろうかとさえ思いはしても、その声が愛空じゃないことにこの胸はまだ繊細に傷ついている。救えないってこのことだ。



朝とは正反対のテンションで、ひとりとぼとぼ帰路を歩く。浮かれて選んだいつもより少し高いヒールはきっと脚を傷つけていて、ストッキングの下にぐずぐずと傷む傷口を晒している。はあ、と大きなため息を吐いて、ほんの少し胸に燻っていた可愛い感情と可愛いリップを澱んだドブ川に投げ捨てる。放物線を描いたそれは最後の最後まできらきら光って水の中に沈んでいった。あたしもああなれればよかったのに。


じわりと滲む視界をメイクが崩れるのも無視して拭い去る。あんな奴のために泣いてなんかやらない。こんな無様な失恋沙汰なんかぜんぶ今夜限りで忘れてしまえ。最低の日なのに晴れた夜空は無駄に綺麗で、あーあ、もう、やんなっちゃうなあ。
どれだけ泣いたって、嘆いたって、あたしはあんたの元カノにすらなれやしない。



※あでぃしょ記念