今日も天秤は生に傾いた。幾多の傷と屍を重ねて帰陣する。未だ血を流す傷は馬が駆けるたびにぴりぴりとした痛みを走らせる。でも、まだ動ける。だから今日も私の勝ち。帰還した私を見た張遼殿は、小さく溜息を吐いて「水を浴びてくるとよろしい」と告げた。昂りも冷め、冷静に自分を見返すと、血や砂埃でひどい有様だった。
陣の近くにあった川で見える範囲の汚れをこそぎ落とす。暫く手を動かしていたが、ちまちましたそれが面倒になって戦着のまま川の浅瀬に踏み入ることにした。足を動かすたびに水面に映る月が形を崩す。ぱしゃぱしゃと足で月を弄んでいると、どこからか鋭く名を呼ぶ声がする。声の方向に顔を向けると、こちらに駆け寄ってくる我らが軍師殿の姿があった。
「その先は水深が深くなっております。あまり、あまり近付かぬよう」
「ああ、そうなのですね」
残念だ。もう少し進めは月の真ん中に立てるのに。あと一歩くらいならと考えはしたが、別にそれをしたところで何にもならない。ただ、水面の月から目が離せない。
引き返す様子のない私に痺れを切らせたのか、もう一度名を呼ぶ声がする。その声がいつもの彼らしくなく、ひどく静かなものだったから。目を向けた先には何の感情も読み取れない、無表情の陳宮の姿があった。
「何故、そんなにも死に急ぐのです」
「これより楽しいこと、知らないですもん」
きっと、今現在のことだけを言っているのではないのだろう。私の戦場での在り方は異常だと何人にも言われてきた。別に変えるつもりもないが。
ただ何もしなくても流れてゆく日々の倦怠を掻き消してくれるならなんでもいい。何か刺激を、退屈を紛らわすだけの楽しみを。私にとって、それが戦場だっただけということ。
「ずっと続かないですよ、こんなの。私、ムチャクチャになって、ぐちゃぐちゃになって死にたいんです」
戦場で矢が私の隣の兵を射抜くたび、私の振り下ろした刃で敵の血がぱっと咲くたび、頭の中で火花が散る。生と死の天秤がいつどちらに触れるかなんて誰にもわかりはしない。それがいい。
閃く敵の剣を避けて、返す刃で敵を斬ろうとするたびに私の世界は透明になる。戦場の喧騒が消え、世界に相手と私だけになる。極度の集中と興奮、それに付随する心臓の高鳴り。それはきっと恋にも似ている。
「なるほどなるほど……。それなら、この私めがもっと面白いことを教えて差し上げるといえば、貴女はこの手を取ってくださいますかな?」
「それなら、まあ……。でも、別に私程度の戦力が一人増えようが減ろうが戦に大事はありません。何故陳宮殿はそんなにも気にするのですか?」
「自己評価が低いのも問題ですな。貴女の能力は実に、実に役に立つ!」
いつの間に調子を取り戻したのか、大袈裟な身振り手振りで滔々と賛辞を述べる姿はひどく道化じみていたが、これがこの男なりの懐柔方法なのだろう。あの野生じみた闘争本能のままに動く呂布を思い通りに御すことはできなくとも、周囲を固めることならできようと。誰かの忠実な懐刀。私にできるとも思えないが、わざわざそのように仕立てるというなら別に構いやしない。楽しいのなら、この退屈が紛れるのなら。
「教えてくれますか?私に。生死を賭けた争いよりも、もっとずっと楽しいことを」
「ええ、ええ!この陳公台、必ずや貴女を楽しませてみせましょうぞ!ですから、」
「死ぬなら私の策でもって死んでくだされ」
約束、約束ですぞと貼り付けた笑みの奥に燻る熱に口角が上がる。野心のある人間は好きだ。私と同じ、足るを知らない中毒者。その飢えがいつかその身を食いつぶすまで止まりはしない。その渇望が私を食らうのが先か、自滅するのが先か、見届けるのも悪くはない。鼓動が高鳴り、冷めたはずの熱が戻ってくる。今、世界には私と彼しかいない。それはきっと戦場に似ている。
「あは、いいですね。最高の終わりを用意して下さい。私はあなたのために死にましょう」
「ふふ、なんとも熱烈ですな」
川縁からうやうやしく差し出された手を取る。決して、決して後悔はさせませんぞと嬉しそうに跳ねる男の声だけがこの世界に響いていた。