馬岱をそそのかす
※エンパ軸
草木も寝静まった頃、城壁の側で、細波のようなささやき声が聞こえている。普段なら聞き取れやしないようなそれも、夜闇の中では子守歌のようだ。
このままずっと聞いていたかったけれど、会話は既に終わったらしい。木の葉が擦れる音が聞こえて、世界は再び静寂に満ちる。どうやら片割れには逃げられたっぽいけど、そもそも今回の命令は間者を捕まえる事じゃないし、などと不真面目なことを思いながら、白々しくも声の主に声をかけた。
「あれ?ナマエ殿、こんな夜中にどうしたの?」
「っ、馬岱殿こそ。こんないい夜にそんな重装備だなんて、どうかしたの?」
この国はもう保たないだろう。君主は放蕩三昧だし、内外問わず崩壊の期を狙ってる奴なんか何人いるのかもわからない。それでも、お飾りとはいえ将軍職を得ているからには上の指示には逆らえない。たとえ、それが思いを寄せている子の処理だったとしても。
「一人に見えるけど、一体何を話してたの?」
「……あんまりにも月が綺麗だから、感動してたの」
「ふうん、そっか」
いつもとは違う、心底楽しくない会話に虚しくなる。はじめから彼女が内通者なんて知っていた。それでも気付けば好きになっていた。俺ってばこんなにちょろかったっけ?と思うくらい。無言で月を見上げる彼女に近寄れば、彼女が静かに俺を見る。彼女の瞳に映る俺は無表情で、怖がられてないといいなって場違いにもほどがあることを思った。流石に今は、いつもの笑顔なんて作れそうもない。
「……ねえ、馬岱殿。私のこと、悪い人だと思う?」
「……うん、思うよ」
「……そっかあ。それじゃあ、私のこと、嫌いになっちゃった?」
「…………嫌いになれたら、よかったんだけどねえ」
頭の中では国が大事だと思っているのに、手に持つ双鉞に力が入らない。こんなもの放り出して、目の前のナマエを抱きしめたい。月明かりがやけに眩しくて、逆光みたいに彼女の輪郭だけがくっきりと浮き上がっている。重症だな、って頭の中のほんの僅かな冷えた部分で思った。
「ねえ、馬岱殿。私と一緒に来て。あなたがここで、この国と一緒に滅びるのなんか見たくないの」
静かな夜半に、彼女の声だけが鮮明に響く。運命の選択を提示されているのに、頭の中には選択肢なんかありはしない。ナマエが選んだのならそれでいい。その上目遣いが嘘でも計算でもなんでもいい。彼女がそばに居てくれるなら、なんでも。
「……そんなの、断れないよ。それがきみの罠だったとしてもさ」
罠という言葉に哀しげに目を伏せる彼女の本心はわからない。全部演技なのかもしれない。それでも、たとえ嘘だとしても、彼女に求められているという歓喜が理性を押し退ける。もう、置いていかれるのは沢山だ。
歩み寄り、無言で双鉞のかたわれを彼女に握らせ、自身の首に添える。もう片方は彼女の首に。異様な状況に彼女の身体が強張り、鉞を持つ手がわずかに震える。ごめんね、試すような真似はこれで最後にするから。だからお願い、逃げないで。
「ねえ、きみのこと信じるよ。だからさ、絶対置いていかないでね。生きるも死ぬも、一緒じゃないと許さない」
突然の言葉に目を見開いたナマエは、暫く固まってからふっと力が抜けたように息を吐いた。「信じてくれてありがとう」と笑う顔は、今まで見た顔の中で一番かわいいんじゃないかと思った。
「馬岱殿より長生きしなくちゃね。きみってば寂しがり屋さんだから」
「うん。お願いだから俺より先に死なないで。俺たち、死ぬまで一緒だよ?」
俺の念押しにまばたきしたナマエは、少し考えて不思議そうに首を傾げる。薄い肌が刃にふれて、うっすらと赤い血が流れ出す。びくっと身を引く俺の頬に手を伸ばして、赤いくちびるに弧を描いてナマエは笑った。
「どうせなら、冥府にだって一緒にいこう?」
あ、今なら死んでもいいな、と思った。固まっている馬岱を他所に、ナマエは「行こう」と鉞を押しつけて彼の手を取る。風に乗って雲が流れて、月が隠れてはまた現れる。その頃二人はもうここに居ない。
※Music by IRIS OUT/米津玄師