于禁と休日


 

人気のない、宿舎からすこし離れた亭。そこで私は風に吹かれてうつらうつらと舟を漕いでいた。
せっかくの休日なのだから、ほとんど人に知られていない隠れ家のようなそこで昼寝でもしようと、そういう魂胆だった。この時期なら、部屋に篭っているより外の方が心地がいいだろうと。まだそこまで暑くはない適度な温度、心地よく吹き抜ける風。目論みは大正解だったと言えるだろう。



長い戦が終わった直後だった。
出陣の頃には葉を落としていた草木も、終戦を迎えた今では色を深めて風にその身を揺らしている。それほどの時間を戦いに捧げたのだからその分の休みも必要であると、武人や兵士たちはしばしの休息を仰せつかっている。長ければ年単位で家に帰れない兵士も多いのだから、その感慨もひとしおというもの。そのため、平生賑やかな城の中にもどこか閑散とした雰囲気が漂っている。


とはいえ、ここに来るまでに何人かの文官たちとすれ違った。手一杯に抱えた竹簡を見るに、おそらく軍師様たちは戦が終わっても内政に頭を悩ませているのだろう。賢いというのも思った以上に大変らしい、と知者の苦労を偲びつつも正直な口からは欠伸が漏れた。国の運営など、多少文字の読み書きができる程度の女にはさして関係のないこと。それに今日は休日、何を考えることもない。本格的に重くなってきた瞼に逆らうこともなく、視界が暗闇に閉ざされてゆく。耳には葉音のさざめきと、どこからか近づく草履が小石を分ける音。


「……何をしている」


ずいぶんと高い位置から降る声だった。聞き慣れた、しかし久しく聞くことのなかった低い声。
無事だったのかという安堵と共に、目を閉じたまま、ふやけた声でその名を呼ぶ。するとすぐに「目を開けろ」と、厳しい返答が返ってきた。久方ぶりというのになんとも彼らしい。息を吐くように微笑ったことに気付かれたのか、先ほどより少し重さを増した声が惑いなく私の名前を呼んだ。そこまでされては仕方がない。心地良いまどろみを泣く泣く振り切り重い瞼を開くと、泣く子も黙る常勝将軍、于将軍の姿がそこにはある。


「このような場所で寝るな。不逞の輩が居ないとも限らんのだぞ」
「んん……、その時は于禁様の出番かと……」


いつでも閉じる隙を窺っているかのように、ゆっくりとしたまばたきを繰り返す度に彼の眉間の皺が深くなっていくのだから笑ってしまう。口やかましい叱責も今はご愛嬌だ。季節が幾度と変わる中、ここ最近ではついぞ聞くこともなかったのだから。


「ご無事とは聞き及んでおりましたが、見るにお怪我はなさそうですね。なによりでございます」
「うむ。……お前も、息災のようだ」
「ええ、呑気なものですわ」


そうして漸く、目の前の男の姿をじっくり見てはじわりと頬が緩んだ。平服の于将軍を見るのはおかしな気分だ。この人にも私生活というものがあるのかと思わされる。休日になにをしているのかなど想像もつかないが、それは案外本人もそうなのだろうと思う。どこか落ち着かないような、すわりの悪いような雰囲気。休日というものに根本から慣れていない。私が知る限り、于文則という男はそういう具合の人種だった。
それにしたってなぜこんな場所にと思うが、散歩というには直線的な足取りと、なにかを探しているようでもあった足音からすると、必然的に選択肢は絞られる。


「どうしてここに?大方、休みだというのに執務室に篭っているところを追い出されたのでしょうが」
「何故、」
「指に墨が付いていますよ」


指摘に対し、ばつの悪そうに手を握りこむ偉丈夫は、少しの沈黙の後「……殿が」と呟いた。まさか、曹操様直々に釘を刺されていたとは。
「私を部屋から追い出した後、西の池を超えた先の、木立にでも行くとよかろう、と。休息にはうってつけなのだと言って」
「ふうん、知られていましたか」
この場所も、私がそこにいることも。


なんと殿すらも、私が于禁殿のお気に入りだという噂を信じておられるらしい。確かに、この四角四面、峻厳たる于将軍殿に相対してさして物怖じせぬことから、気がつけば専属に近い扱いを受けていることに間違いはない。別に、厳格な鍛錬や一糸乱れぬ行軍を要求される兵士とは違ってこちらは文官なのだから、真っ当に仕事さえしていればそう怖いわけでもないのに。まあ、他の者はそう思わないようではあるが。

それに、私が彼の気に入りなのではない。私が彼を気に入り、距離を寄せているだけなのだ。同じ距離感でも噂と現実とでは雲泥の差。それでも寡黙なこの人がごくまれに私語とも取れるような会話を投げてくるあたり、多少は好ましく思われているのだろうと自惚れている。そして休日にわざわざ話しかけてくる様子を見るに、それは事実でもあった。

とはいえわざわざ君主様が与えてくれた機会だ。過分に面白がられている節があるにせよ、この際有り難く活用させていただこう。


「于禁様もどうです。そのご様子からしてさしたる予定もないのでしょう?」
「しかし……」
「誰も来ませんよ、ここには」


抜け出し癖のある君主様には知られているようだが、それでもこの場所を知っているのはごく僅か。それに今は休暇中、そもそも城にいる人間の方が少ないのだ。呑気な私の言い分に、平素から厳かな振る舞いを見せる男は珍しく目を逸らし、口籠るようにして答える。


「……私が居ては、お前の休息になるまい」
「なぜです?」


間髪入れずに返された問いに、鍛錬でも揺るぎのない長身が少したじろいだように見えた。それでも、しばらくすると気を取り直したように粛々と答えを紡ぎはじめた。


「ただでさえ堅苦しい上司に、休日まで関わり合いになりたいものでもあるまい」
「あは、私は一向に気にしませんがね」


「それに、ここは、心地がいい」


そうでしょう?と、丁度よく吹き抜ける風に目を細め、言外に座れと隣を軽く叩く。貴方が一緒なら妙な輩も沸きませんでしょうと笑いながら言うと、返事は移動と深いため息でもって返された。


「お前は、本当に物好きだ。随分と私を信用しているらしい」
「ふふ、そうかもしれませんね。ですが、これでも気を許す人間は選んでいますわ」


観念したかのように隣に腰掛ける巨躯を見て、私は今が好機と言わんばかりに急いでその膝の上に頭を乗せる。突然ぱたりと横になった女に将軍は固まったように目を見開いているものの、膝に乗ったままの私を力尽くで退かすような真似はしなかった。そういうところに付け入られるのだ、と理不尽な感情すら浮かびながらも、身体は無意識のうちに身じろいで眠りやすい体勢を探す。戦帰りの男の膝は、硬く、高く、大変に寝心地が悪かった。女は笑う。その声を聞いてやっと我に帰ったように、勝手に寝具にされた男は呻き声を上げた。


「お前……」
「ふふ、ちょうど枕が欲しかったのです」
「気を緩めすぎだ、休みなれども節度を保て。誰かに見られでもすれば誤解が生じるだろう」
「あら、外からは于禁様の姿しか見えませんわ。休日の将軍に近寄る物好きなどそうは居ないのでしょう?」


それとも、肩に寄りかかる姿を見られるほうがよろしいですか?と、こつこつと背もたれとなっている壁を叩いてみせると、眉間の皺が濃くなりはしても否定の言葉は継がれなかった。私にとっては肩まで預けられる高さの壁も、彼にとっては背の半ばまでしか満たない。それでも仲睦まじく寄り添う姿は外から見えることだろう。それは流石に許容できなかったらしい。だからといって現状を許容するのも妙な話だが、本人が思い至っていないのならまあ、私が指摘することでもない。


会話が途切れたついでに、見るからに所在なさげに浮いた彼の右手を引き寄せ、頭の方へと誘導する。髪に触れて少し固まったその手のひらを逃げないようにゆるく抑えていれば、暫くの後、諦めたように恐る恐る髪を撫ではじめる。武器を握り慣れた、硬く、無骨な手。それは想像以上に心地のいい重みと温かさをしていた。

無言の時が眠気を誘う。休日にふさわしい、長閑なひととき。この人がこんな休みを得たのはいつぶりなのだろうとぼんやり考えていると、律儀に髪を撫で続けている于禁殿がふと口を開いた。


「……香を変えたか」
「ん?ああ、変えました。店の名を何と言ったか……。とんと忘れてしまいましたが、頂き物ですよ。せっかくですので使わせていただいております」


風が吹き、形を変えた木漏れ日が閃光のように目元に降りかかる。眩しさに再び目を閉じようとしたとき、その必要はないと言わんばかりに何かで目の上を覆われた。おもむろに顔全部覆ってしまえるのではないかというような大きな手で私の目を覆った男は、低く、低く、唸るように喉を鳴らす。


「……それは、どのような者から」
「あは、女官ですよ。親しい仲なのです」
「…………そうか」


硬い声質に滲む安堵の色に、私は耐えきれずに声を上げて笑い出す。彼はただ目を覆う手の力をほんの少し強めるだけだった。ああ、わたしの言葉で一喜一憂する姿も、それらを見られたくないという些細な抵抗もすべて、すべて。


「ほんとうに、お可愛らしい」
「……何がだ」
「貴方様がですわ」


再度、唸り声と笑い声。小さな亭に対照的な声音が響く。「そんな愛らしいところ、ほかの誰にも見られてはいけませんよ」「……そのような世迷いごとを宣うのはお前しかおらぬ」「そうですかねえ、それならいいのですけれど」
あからさまに、どちらも納得していない声音だった。それがまたおかしさを増幅させる。


くすくす笑いながら大きな手を引っ張ると、ほんの少しの抵抗はありながらも割合すんなりと視界が開けた。視界に映るはこれでもかと刻まれた眉間の皺と鋭い目、事情を知らない人間が見れば泣き出しそうなその表情。最初の頃は怒らせてしまったかと気を揉んだこともあったが、今ではただ照れているだけだとわかっているから怖くはない。むしろ、この人が照れた時の顔と、本当に不機嫌な時の顔の違いがわかる者が何人いるのだろうと嬉しくなりさえする。


「気になるなら、于禁様好みの香を贈ってくださいな。匂いの移るよう、深く深く焚き染めて眠るとしましょう」


彼ともあろうものが誰かに、ましてや異性に私的な贈り物をするなどは天地がひっくり返ってもあり得ないという判断での軽口だった。そんなことがあればどれだけ素敵だろうと、そういう話だ。
だから後日、眉間の皺を濃く刻んだ于禁様に日頃の礼と称して香を渡され、思わず声をあげて抱きついたのは致し方ないことだと思う。