賈詡のもくろみ


 

「ねえ、あなたって軽い男じゃなかったの?」



隠れ家のような街の居酒屋。2人きりの酒の席。賈詡の隣で杯をあそばせる女は歌うように問いかける。幼い頃に楽器の才を見出され、曹操の元に置かれたナマエは賈詡と並ぶと親子のようにすら見えた。軍師と奏者、壮年と妙齢。側から見ればなぜ共に酒を飲んでいるのか不思議に思うだろう。現に口さがない噂もちらほら流れている。何人も女を囲っているうちの1人だとか、気に入りの遊び相手だとか。それが事実ではないことは、今当人たちが実証している最中ではあるが。



「あははあ、ひどい風評被害もあったもんだ」
「風評被害じゃないわ!事実よ事実。昔はそうだったんでしょう?ちゃんと裏付けは取れてるの」
「んー、そこまで調べたのか。そうだな、昔は昔ってことで手を打とう」
「ふうん、認めるのね?」
「もう懲りたさ。どこ探ったって女の影も出てきやしないね。それにご存知の通り、あんたに手を出したことは一回もないんだがなあ」
「ああもう!だから、出してほしいっていってるのに!」



一晩でいいのと長いまつ毛を伏せながらナマエは言った。友人というには近すぎて、恋人というにはほんの少しの過ちすらない。そういった距離感を築いてはや数年、初めは奥ゆかしかった彼女のアプローチも今やすっかり直球になった。それこそあまり遊んでやるなと曹操殿直々に釘を刺されるくらいには。幼い頃から目をかけているナマエにあのお方はすこぶる甘い。別に遊んでるつもりはないんだがなあ。



はあ、と悩ましげに息をつくナマエはどこからどう見てもイイ女だ。酒のせいか、薄桃色に染まった頬と夢でもみるような表情にはこの俺でも思わずくらっと来そうになる。その色づいた唇からこぼれる言葉にはどれもこれも毒がふんだんに仕込まれてるってのに。



愛されるより愛したい派なの。それに捕まえたらすぐ飽きちゃう。でも、貴方ならいいでしょう?演技が上手ならそれでもいいわ。はやく、はやく私のものになって。そして、



「はやく飽きちゃいたいな。貴方みたいな酷いひと」



にっこりと笑って言い放つ女に、酷いのはどっちだと苦笑する。誤魔化すように杯を傾けたって、じっとりと熱を孕んだ目は逸らされない。疎んでいるような、膿んでいるような笑みに歪む目尻には隠れようもない酷薄さが滲んでいる。残酷で、利己的な笑い。本当に、どうしようもなく似た者同士だ。



「こういうの、相性がいいって言うのかねえ」



この女はどこまでも無邪気に、悪意なくこれをやってのける。ある意味子供のようなそれより、俺の方が悪気がある分まだマシだ。はん、と嘲るように唇をつりあげると、女はかわいげに目を瞬いて小首を傾げた。



「どうかしら?今夜、試してみるのは」
「いーや、お嬢さんはもう帰る時間だ。ちゃんと部屋まで送らせてもらうよ。もちろん上がり込みやしないさ、安心してくれ」
「……ほんっと、ひどいひと」



期待に満ちた目がすっと冷めて、つまらなさげにそっぽを向く女は年相応にあどけなく、愛らしい。そっぽ向いてるのを良いことに思う存分眺めていると、もうお嬢さんなんて歳じゃないわとふてくされた声が聞こえる。そういうところが"お嬢さん"なんだと揶揄うと、ナマエは片目を細めてこちらを見た。



「その椅子って、頑丈かしら?」
「んー、なぜ?」
「ちょっと蹴飛ばしたいなあと思って」



飛び退くように足を退ければ、さっきまで仏頂面だった女は吹き出すように笑う。椅子から狙いを変えられては敵わない。この跳ねっ返りめ、と文句を言うと楽しそうにけらけら笑うナマエは少し機嫌が戻ったようだった。やけっぱちで飲んだ酒が回っただけかもしれないが。



めまぐるしく表情を変えるナマエはあまりにいとけない。お前に深入りはしないと語る可愛らしい警戒心も子猫が爪を立てるようなものだ。手に入れば捨てると宣言されながらむざむざ捕まってやる男がどこに居る?
そうとわかれば、逆に罠に嵌めればいいだけ。身動きが取れなくなるまで獲物が近寄るのを待つ。気取られぬように、じっくりと。火遊びを求める若い娘が焦れて、男で身を滅ぼす愚かな女に転落するまで。穴の底まで落ちてきたなら、そこから先は軍師の十八番。上手くいけば事を荒立てず、彼女を逃がす心配もなくなる。まあ、あくまで上手くいけばの話だ。現実はそう甘くもない。




「次こそ落としてみせるわ」


月の明るい帰り道。ふらついた足で踊るように歩きながら、くるりと振り向いて無邪気に宣戦布告するナマエに苦く笑ってみせる。呑気なことだ。戦ならとっくの昔にあんたと俺が出会ったその瞬間から始まってるってのに。


初めて会ったあの日、はじめて見る顔ねと微笑むナマエの姿を今でも覚えている。元敵と警戒されていた俺に衒いなく接した唯一の女。こいつは役に立つとほくそ笑んだものつかの間、てきめんに絆されたという点では負け戦もいいところなのだ。そうだ、初めからナマエの前では得意の打算も上手くいかない。どうして自分に要らない虫が寄ってこないのか、この女は気付きさえしてないんだろう。



「楽しみにしてるよ、お嬢さん」



できれば早く落ちてきてくれ、とは言わなかった。願いは口にすれば遠ざかる。本当に欲しいものをかっさらわれるほど癪にさわることはない。まさか、俺にこんな青臭さが残っていたとは思いもしなかった。ナマエにさえ出会わなければ、二度と知ることもなかったろうに。


それにしたって、実はこっちの方が遊ばれてるなんて誰に言っても信じないだろう。もしくは軍師ともあろうものがこんな小娘1人に翻弄されるなんてとせせら笑われるのが関の山か。昔の俺ならそうしたかもしれない。でも、今ならわかる。いくら制御しようとしたところで、恋ほど手に負えないものはないのだ。