法正の拠り所
ある日、書を求めて街に降りるとそこは噂話で満ちていた。普段山奥で人と関わらない生活を送っているナマエにとって、都の花である悲喜交々の噂話などこれっぽっちも縁がない。経文のようにすら聞こえるそれを聞き流しながら人混みを抜けていたが、ふと誰かの口に登った話がやけに耳に残った。曰く、
「劉備殿の元にいる軍師が、1人の女を探しているらしい」
わざわざ立ち止まるくらいには心当たりのある噂話だった。出奔してから数年は経つというのにご苦労なことだ。その軍師は数日前にこの街に来たという。そうなると見つかるのも時間の問題、このまま別の街に逃げてしまおうかとも思うが、流石に着の身着のままというのも現実的ではない。
それに、その男が私の想定通りなら一度補足された時点で手詰まりだ。執念深く、文字通り地の果てまで追ってくるだろう。だって今がそうなのだから。忘れてくれればよかったのにとため息を吐いても、あの性格から推して知るべしと冷静な私が言う。まあ思ったよりは逃げられた方か。溜息を吐きながらも腹を括る。今私にできることなど噂がただの与太話であれと願うことしかない。
書を求めるどころではなく、手ぶらで家に帰った時には日はもう傾いていた。山中にある、人一人がやっと暮らせるような小さな庵。細々と周囲に仕掛けておいた罠はすべて解除されていた。これで淡い期待は脆くも崩れ去ったといえる。
相変わらず徹底的なことだと嘆息しながら家に入ると、戸の開く音に合わせて、勝手に椅子に掛け、俯いていた男が頭を上げて睨めつけるようにナマエを一瞥した。二度と会いたくなかった、懐かしく、慕わしい顔がそこにある。
「随分手間をかけさせてくれたな。この報いはきっちり受けてもらいますよ」
低く怒気を孕んだ声がつかつかと近づき、身を引く余裕すらも与えずナマエの手を掴む。声に出さずとも逃がさないと伝わるその力の強さに苦笑しつつも、男の顔色の悪さの方が気にかかった。
「孝直、貴方ちゃんと寝ていますか?」
自由な片手を血色の悪い目元に伸ばすと、無言でその手も掴まれた。両手を扉に押し付けられ、足の間には男の膝が捩じ込まれる。そこまでしなくとも男と女、この状況で逃げる術などないというのに。冷たく見下げる瞳に映るのは怒りだけではなさそうにも見える。それが一体なんなのか、人付き合いの不得手なナマエにわかるはずもないが。
「最近はあまり。誰かさんの捜索も含めて少々忙しかったものでね」
「ふうん、大変。そういえば劉備殿の軍師になったそうですね。おめでとうございます」
「大変でしたよ、本当に。足場作りに少し目を離したらこれだ。俺は確かに待っていろと言ったはずですがね」
「待てと言われて待つ獲物は居ないでしょう」
「本当に、口の減らない女だな」
今度こそ怒りに染まった目がすっと細まる。子供の頃から幾度となく見てきたその表情は、ナマエにとっては恐ろしさではなく懐かしさの象徴だった。凄んでみせている彼にとっては不本意だろうが、何があろうとこの男はナマエのことを傷付けないと知っている。それだから、臆せずどんな軽口でも叩けるのだ。
「相変わらず可愛いですね、孝直は」
「この状態でそれを言うとは……。どういう神経してるんだ、貴女」
「だって、報恩も復讐も、すべて相手がいないとできないことでしょう。どれだけ捻くれていたって、あなたは人の中でないと生きられない人。そんなの、可愛くって仕方がない」
「馬鹿にしているのか?」
「いいえ、何から何まで本心ですよ。だからこそ、あなたと私は相容れない」
私は世捨て人ですからね、と微笑むと見ればわかると舌打ちが響く。こうした会話すらも久しぶりだ。幼い頃から私たちはそうだった。人付き合いの嫌いな私と、敵を作りながらも人と関わる彼。なぜ意気投合したのかなんて覚えていないけれど、気がついたらいつも隣にいたひと。少なくとも、閉じこもりがちなわたしの世界に入ってきたのは後にも先にも孝直だけだった。
「離れれば、孝直にはもっといい方が見つかると思ったんですがねえ」
「はん、やはりそういう意図か。まあその行為には感謝していますよ。貴女が変な気を回してわざわざ俺の恨みを買ってくれたおかげで、俺もこうして心置きなく実力行使に出ることができる」
孝直が何を求めてここに来たのか、ナマエにはまるでわからなかった。確かに人の好き嫌いは激しい男だったけれど、仕事に支障をきたすような真似をしでかすとも思わない。なのに、彼は都での業務を置いてここに居る。
そもそもこの出奔は、軍師として頭角を現す彼の邪魔になるわけにはいかないと思い立ってのものだった。今まで何も考えず彼に付き添ってきただけで、まさか国の方針を決める連中の補佐などできるはずもない。
それに元から歪な関係である。彼には与えられるばかりで、何を返せたこともない。人付き合いもまともにできない女だ。ただ隣にいて、世話を焼かれていただけ。幼少からの付き合いというだけで、報恩報復にまめなこの男が私を側に置いていたこと自体がおかしかったのだ。
「逃げたから追いたくなっただけでしょう?まだ借りが残っているというなら諦めてください。貴方といると借りが減るどころか増える一方なんですから」
「は、相変わらず自己評価の狂った女だ。俺がどれだけお前に与えられていたか、まるで理解していないらしい」
「……?思い当たる節がありませんが」
「わからないならそれで結構……。少なくともお前が俺の前から消えた数年、倍にして返して貰わなけりゃ気が済まない。今後一生、俺から離れられると思わないことだ」
こんなにも恫喝にしか聞こえない口説き文句があるものか、とナマエは思う。それでも腕を掴む手の小さな震えと、やるせなさの滲む声を知ってしまえば笑うことはできなかった。この私ですらわかるほどに感情が隠しきれていない。長い付き合いの中でもこんなことは初めてだった。まさか、この男がこんなにも弱るだなんて。
都で人に囲まれて暮らすなど、考えるだけでげんなりするがそうも言っていられない。誰も彼もと交流するのはまっぴらだが、昔のようにこの男の隣に居るくらいのことはできるだろう。なぜだかこの男はそれが望みのようだから。手を押さえつける力はいつしか弱まっていて、疲れ切った彼の目元をなぞる指は今度こそ止められはしなかった。
「……仕方ない、一緒に行きましょう。弱っている孝直だなんて、調子が狂って仕方ない」
「は、どうとでも言え。それより、戻ったら何より先に挨拶回りですよ。貴女を俺の妻だと周知させます。興味を持たれるのはこの際仕方がないが、俺のものに手を出そうという愚か者もそうはいるまい」
「妻……?そこは副官とかでもいいのでは……?まあ孝直ならいいか。ああ……、面倒臭い……」
人と会う予定を入れるなんていつぶりだろうかと嘆きながら項垂れる。隠遁生活に慣れすぎて人と喋ることすら久しぶりだというのに。なぜか押し黙った彼を不審に思って見上げると、思いっきり苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「見解に相違があるようだな……。俺は人材を探しにこんな辺鄙な山奥にまで来たわけじゃないんだが」
「……?そうなのですか?」
「いくらなんでも鈍すぎる……」
そうか、そういう女だったなとこれでもかも眉間に皺を刻んだ孝直が唸る。なんだか嘆いているようだけど、こちらの理解を置き去りにしないでほしい。そう文句を言おうとした瞬間、顎を掬い上げられ、その端正な顔が視界いっぱいに広がる。唇には柔らかい感触と、温い体温。目を閉じる余裕もなく、ただ皮肉げに笑った顔が音もなく離れていくのを見ていた。
「これで理解できたか?俺は、貴女に惚れているからここまで来たんだ」
丁寧に、噛んで含めるような口ぶりだった。お前のことが好きなのだと、愛しているのだと。ほんの少し目を細めた、そんな表情で。一拍遅れて顔がぶわりと熱くなるのがわかる。だって、その顔は昔からよく見ていた。怒っているのだと思っていたその表情。現に怒っている時とよく似ているのだから救えない。そんなのこの私にわかるわけがないだろう。まさか、その表情が愛おしさの表れだなんて!
「……まって。もしかして、ずっと昔から……?」
「やっと理解していただけたようで何よりですよ……。貴女はこの俺の唯一安らげる場所だ。もう、二度と、離れるな」
どこか縋るようにナマエを抱きしめる男の背中に手を回す。まさかそこまで責任重大だったとは思いもしなかったが、もう逃げる気はなかった。なにせ都合のいいことに、ナマエだって彼のことが好きなのだ。好きでもない人間のことを慮る情緒などナマエにはない。ただ、両想いなどと考えたこともなかっただけで。
ゆるく抱きしめながらそう伝えると、彼は心底脱力したように深い深い溜息を吐いた。「貴女はもう少し人の心というものを学んだほうがいい」という心のこもった憎まれ口を聞き流しながら、これからのことを考える。どれだけ面倒であろうとも、彼が隣にいるなら悪くはないのだ、多分。