満寵と花の名前
「おや、牡丹の季節になったのか」
「はい?」
荀攸の口から思わず素っ頓狂な声が飛び出した。議場から帰る最中、先ほどから新しい罠の効果と改善点をのべつ幕なしに喋り倒していた満寵が不意に足を止めてそんなことを言ったからである。先ほどの軍議でも散々熱弁していたところを文若殿に何度か制止されてやっと大人しくなったほどである。好きな時に好きなものを喋りたいだけ喋りまくる子供のような男。それだから、この男が、言ってしまえば道端に咲く花如きに口を遮られることなど到底ありえないことなのだ。
荀攸は信じられない思いで満寵の顔を見つめた。情報の秘匿には感情を表に出さないことが要求される。それを遵守してきてはいたものの、同じ軍師たちには見抜かれることも多い。今だって、側から見ればただ満寵の方を向いているだけと言えるだろう。それでも、さて話を戻そうかとこちらを向いた満寵は驚いたようにまるく目を見開いた。驚いているのはこっちのほうだというのに。
「どうしたんだい?妙な顔をして」
「その……、正直意外でした。満寵殿が花に詳しいとは」
「ははっ、残念ながらこれ以外の花は名前も知らないんだ。あまり区別もつかないしね」
「そう、ですか」
花、花かあ。なにかに用立てられないかなあと思考に沈みはじめる長身に、まだ声が届くうちに「何故、牡丹だけはご存知なのですか?」と声をかける。別にそこまで興味があるわけでもない。ただ、珍しいから聞いてみたいという至極純粋な好奇心。話のタネにはうってつけだろう。
すると満寵は照れたようにはにかんで、見事に咲いた牡丹を見ながら、誰かを思い出すように言った。
「ナマエ殿の好きな花なんだ」
ああ、恋する人間というのはこういう顔をするものなのか、と荀攸は思った。その人のことが大切だと、言葉にするより速く飛び込んでくる情報量に圧倒されるような、慄くような感慨すらある。
感情に疎い節のある同僚から素直に漏れ出てきた淡い感情、それがなんとも面映くて思わず目を逸らす。人の目を気にしない満寵のことだ。隠すなんて思いもよらないのだろうが、こちらとしてはなんとなく気恥ずかしい。彼女にしか見せないはずのものを盗み見てしまった罪悪感とでも言おうか。こちらばかり振り回されているようで若干腹立たしくはあるが。
目を逸らした荀攸は、逸らした視界の先に小さく飛び込んできた人影を見てあ、と小さく声をあげた。仕事中なのだろう、いくつかの竹簡を持って歩いている女官は紛れもなく今話題のナマエだった。
声につられてそちらを見た満寵はぴたりと固まったかと思えば、花と彼女を見比べて少し逡巡したものの、迷っている時間も惜しいと言わんばかりに駆け出した。摘んでいくか迷ったのかもしれない。それでも、好きな人が目の前にいたら居ても立っても居られないのだろう。本当に、普段から悪辣な罠をいくつも考案しているとは思えない有様だった。
小さくなっていく背中を見送り、踵を返す。きっとふたりはこの場に戻ってくるだろうから、そこに自分がいれば興醒めというものだ。さっさと帰って先の軍議のまとめもしておきたい。彼がいると話し声で気が散るのだという本音は置いておいて。
さて、彼と彼女の常ならば、満寵がひとしきり喋っている間に、ナマエが相槌を打ちながら彼の衣服の乱れを直すのだろう。なんだかんだで彼女も満寵のことを嫌っていないのは見てわかる。彼を見つけた瞬間ぱっと華やぐ表情はそれ自体が答え合わせのようなものだ。
甘ったるい空気を想像しただけでこちらは苦虫を噛んだような顔になってしまう。人生楽しそうでなによりだが、どうか巻き込んでくれるなと願うことしかできやしない。なにせ、あれでまだ付き合っていないというのだから!