于禁の特別になりたい
※現パロ
きっかけは些細なことだった。
3年前、堅物で、どう接していいかわからない、怖い、と言われているひとの部下になったこと。喋ってみると、言われているほど怖い人ではないと気付いた。自分の機嫌ひとつで裁量が変わる人間よりはよほどやりやすいのに、見た目の印象や雰囲気というのは中々払拭し難いものらしい。わりと面白いし、かわいい人なんだけれどなあ。
「于禁さん〜、新人ちゃんの報告書です。遅れてすいませんって」
「それをなぜお前が持ってくる」
「そりゃそんな顔してたら持ってこれないですよ。そっちだってまた新人泣かせたって言われても困るでしょうに」
「数年前のことを持ち出すな。……ここ最近は泣かせていない」
「私が間に挟まってるからじゃないですか!」
「そうだな」
「ねえ興味失うの速いですって」
「そういうとこ好きですけど」と冗談の含みを持たせて言った言葉はすべてただの事実だった。私にだけほんの少し気安くなるそのニュアンスが好きだった。私のあしらいが他の人相手よりもちょっとだけ雑になるのも好きだった。
今も確かにそう思っている。思っているのに、とめどなく欲は加速していく。自分では到底制御できないくらいに。仕事の話に違いないのに、彼が他の女子社員との会話で笑っていると胸がざわついた。新人だからとわかっているけど、他の子に目をかけていると苦しかった。
表には出ていないはずだ、少しでもバレたら終わりだと必死に隠し通しているから。でも、そんなことに必死になる時点で、初めからもうどうしようもなかったのだ。
仕事に不満はない。仕事を辞めてどうすればいいのかなんてわからない。それでも、このままじゃ、私は私のままで居られなくなる。誰も居なくなったオフィスで、愛すべき上司のデスクの前に立つ。きっと彼はそれなりに心を痛めるだろう。朝早くに出勤してきた彼が眉をひそめる様子が手に取るようにわかる。わかってしまう。ごめんなさい、なんにも言わなくて。痛む心から目を背けて、逃げるように退職届を置いて会社を去った。
*
逃げるように会社を辞めて、数日はなにもする気が起きなくて、ただ寝たり起きたりを繰り返していた。仕事も探さないといけないし、そもそも生活をしないといけないのに、全然そんな気になれない。幸いそれなりに蓄えはあるから、今はまだ傷心に浸っていても許されるだろう。
昼を過ぎても動く気になれずにぼうっとベッドに寝転んでいると、部屋の静けさを裂くように、大きくチャイムの音が響いた。
定期で買ってる水か何かが届いたと思って、画面も見ずにインターホンを押す。はあい、と間延びした声への返事が遅くて、不思議に思って画面を見たら、見慣れた強面。「え、」と絶句する私に、彼は一言「確認したいことがある」と告げた。
そういうものだ、という風に部屋に上がったその人は、柔らかい風合いで揃えた部屋には似つかわしい色と硬さをしていた。これが会議室だったら、面談として処理できたかもしれない。なのに生活感に満ち満ちた部屋は私の家以外にありえない。まるで状況が飲み込めないのに、このお客さんは私が案内するまで動くつもりがないらしい。この人が立つと、いつもの部屋がミニチュアみたいに見える。どうして、こんなところにいるんだろうという疑問が、消えない。
ペットボトルのお茶を注いだグラスをお出しして、とりあえず向かい合わせに食卓に座る。尚更面談の風味が増してしまったな、と思った。それにしたって、部屋着の私とこの暑い中ネクタイまできっちりと締めた于禁さん。取り合わせがめちゃくちゃだ。そもそも辞めた会社の上司が家に来るということ自体が異様なのだけど。おずおずと座った私を認めたのか、満を辞して、彼の引き結ばれた口が開かれる。久しぶりに聞く低く、重い声は、それでもやっぱり好きだと思った。
「どうして、黙って姿を消した」
「…………」
「仕事の内容に不満があったか」
「……いえ」
「ハラスメントやそれに類する行為は」
「ないです」
「親の介護など、御身内に何か特筆すべき理由は」
「……ないです」
上司ってそんなことも確認しないといけないのか、と素直に驚く。去るもの追わずって感じの社風だと思っていたけど違ったのだろうか。まあ、とんだようなものだから仕方がないか。なんと言い訳したらいいのかわからないけれど、一応この人の部下だったわけだし、この人の出世とかそういうのに差し障りがないといいなあと思った。
「……私に、嫌気がさしたか」
「え、ちがう、そんなわけない。逆です。……あ、」
思いきりのいい失言に口を押さえる私に、目の前の強い視線が無言で続きを促す。許してくれと眉を下げるもなすすべなく、洗いざらいを白状することになった。仕事にはなんの不満もないこと、貴方のことが好きなこと、意思に反して勝手に自分が変質していくのが怖かったこと、全部、全部。
「最初は、私だけが好きで、それでいいと思ってたんです。でも、どんどん膨らんでいく。あなたも私のこと好きになってくれればいいのにって、あなたの特別になりたいって」
耳を塞いでも声は聞こえてくる。私だけ見て、ほかの女の人と話さないで、笑いかけないで、なんて、ひどい戯言。勝手に彼女を気取ってみっともない。自分でも自分がこんなに愚かだなんて思わなかった。浅はかで、馬鹿な女。それがいつ、彼にバレてしまうかと思うと怖かった。
「だから、逃げたんです。このままだと、いつかあなたの前でボロを出す。気安い部下としての私で居られなくなる、から」
こんな、馬鹿みたいな理由、さぞ幻滅したことだろう。早く帰ってほしい。それで早く忘れてほしい、こんな部下も、ぼろぼろと溢れだした涙も。なのに、しばらく黙ったままだった于禁さんは、静かに持ち込んだビジネスバッグに手を伸ばしながらこう言った。
「デスクにあった退職届は、受理していない。ああいうものは、上長に直接自分の手で渡すものだ」
「…………ごめんなさい」
「…………お前は今、有給休暇を取っていることになっている。旅行に行っているということに、なっている」
「え、?」
目の前に退職届が差し出される。私の用意した、一身上の都合を理由にしたそれ。受け取ろうとしても、封筒から手が離れない。彼が離そうとしないからだ。でも、なぜ?
「お前には二つの選択肢がある。一つ目は、このままなんらかの土産でも買って、何事もなかったかのように会社に戻る。二つ目は、このまま退職する。その代わり、退職理由は、寿退社ということになる」
ことぶき、とくちびるが動く。そんなの、誰と。退職届から手を離して、茫然としながら彼の方を見る。瞬きの間に溜まった涙が目の端から流れ落ちていった。目の前の見慣れた眉間の皺が、濃く、深くなっていく。
「……私は、お前の好意に甘えていたのだ。お前のような女に好かれて、浮かれぬ男がいるものか。ただ、私の臆病を理由に、上司と部下であると戒めていた。私にとって居心地の良いまま、関係性を留めておこうとした」
その告白はまさしく懺悔だった。苦しげに彼の唇は罪を語る。理解の追いつかない私を置き去りにして。グラスに入れた氷がからり、と場違いにかろやかな音を立てる。現実逃避にも、ならなかったけど。
「先の話を聞くに、私がお前を苦しめてきたのことになんの申し開きもない。どんな罰でも受けよう」
「于禁、さん……?」
「今はただ、お前に正直に向き合うと決めた。私の出した結論が、これだ」
「私と、結婚してくれ」
時が止まる。無音が室内を支配する。結婚、誰と?于禁さんと、私が?混乱にまばたく私を于禁さんは静かに見つめている。一度は止まった涙がまた滲んでくるのがわかった。ちがう。だって、そんなつもりじゃ、なかったのに。
「そんな、やだ。あたし、罪悪感で、縛りたいわけじゃ」
「……お前も知っているように、感情で私の評価軸が狂うことは決してない。私は、私の意思で、お前のことを愛している」
「そんな、そんなの……」
急に、言われたって、とぐすぐす鼻を啜る私を見つめる于禁さんは、珍しくも言い訳をするように、急ではない、と呟いた。
「じゃあ、いつから、だったんですか。私、ずっと、私ばっかり好きなんだって、思ってたのに」
「……初めからだ。私のような面白みのない男に、気安く接する部下などそうは居ない。……お前も知っているだろう」
「しってますよ。私だけが知っていればよかったのに、いつの間にかみんなあなたのかわいいところに気付いてる。あなたが誤解されないのは嬉しいし、誰かと話してて、笑ってるともっと嬉しい。でも、それも、わたしが見つけたのに」
この鋭い目が怖くなくなったのはいつからだろう。涙を溢す私の頭を困ったように撫でる手はどこまでも大きく、温かい。こんな身勝手なことを言うやつなんか甘やかさなくていいんですよ、と言っても、無言で手を動かす速度が上がっただけだ。しばらく撫でられているとメンタルの方も落ち着いてきて、何度か深呼吸をして息を整える。提示された選択肢を、選ぶときが来た。
「……ひとつめとふたつめを、同時に選ぶというのは?」
「…………お前がそうしたいならば、止めぬ。しかし…………。いや、私からはなんとも言い難い」
「それは、どういう?」
「…………お前が出てこなくなってから今日まで、仕事は仕事と割り切って業務をこなしていたつもりだったが……。様子がおかしかったのだろう、周りから、何度もお前のことを仄めかされてな……」
「えっ」
「つまり、私のお前への思いは、社内に筒抜けだと思っていい」
あまりにも言いづらそうに眉を顰めて発される言葉は、確かに言いづらさの極致みたいな情報量をしていた。私の居ない間に、なんだかだいぶ凄いことになってしまっている気がする。
「それは、えっと、誰から、言われたりとか」
「李典に楽進、賈詡や郭嘉、……社長からも」
「うわあ……」
わざわざ背中を押しにきてくれた人間がこれだけいたということは、本社勤務の全員知ってると思ったほうがいい。それは確かに、あまりにも気まずい。思わずいろんな人からの生温い視線を想像して背筋が震えた。……でも、今はそれより気になることがある。唇を尖らせて、不服の表情をつくる。少し悲しそうに、目を伏せるのも忘れずに。
「それって、会社から言われたからしぶしぶここに来たってことですか?」
「な、いや、」
我ながら意地の悪いことだと思う。この時間でこの格好というと、きっと早退でもして来てくれたんだろうし。よっぽど動揺してたんだろうな、というのはひしひしと伝わってくる。でも、そこは自分の意思で来たって嘘でも言ってほしいところだ。まあそれをしないのも、この人らしくて良いんだけど。
「……そう言われても仕方がない。その分の謗りは甘んじて受けよう。しかし、お前への気持ちに何ひとつ嘘はないと、誓う。私は、私の意思でナマエを迎えにきた。どうか、私の妻になってはくれないか」
まっすぐ私を見据えて、たまに口籠もりつつも誠実なプロポーズだった。私は内心で白旗を上げる。これには完敗だ、勝ち目がない。好きな男にこうまで言われてときめかない女なんて居ないでしょう。
……でも、それでも、いくらなんでも急すぎる。人の家の食卓で、相手は上司で、退職届を目の前にして私は部屋着で。こんなわけのわからないプロポーズがあってたまるか。
「……こういうのって、結婚を前提にしたお付き合いとかからはじまるんじゃないですか?」
「む、それは、そう、だな……」
堪えきれずに笑いながら指摘すると、自分の提示した条件の突飛さに今更気が付いたのか、目を逸らして横を向くものだから、じわじわ赤くなる耳がはっきり見えている。気付いてないんだろうなあ、と思うとまた笑えた。
暫くふるふると笑っていたけど、いつまでもそれで誤魔化してもいられない。
仕切り直しだ。すう、と息を吸って、姿勢を正して、彼をまっすぐ見据える。「お返事をします」と告げると、空気が変わったのを感じたのか、彼も元々伸びた背筋を静かに正してこちらを向いた。
「私と、結婚を前提にして、お付き合いしてください。もっと一緒に過ごして、色んなこと擦りあわせて、結婚はそれからです。というよりこんな面談みたいなプロポーズはイヤです。次回までに改善を要求します」
「う、うむ」
「それと、もうひとつ。ちゃんと、職場内では上司と部下として接します。公私混同なんてしません。だから、私のこと好きって周りにバレたまま、私と一緒に働いてください。それが、私からの罰です」
別に、話し合いをしようとしなかったどっちも悪いのだけれど。まあ、突発的に旅行に行ったことになっている私も好奇の視線に晒されるのは間違いないだろう。私たちの空気感が変わったことなんてすぐに察知されるに違いない。ゆえにこの罰は2人に適用される。それでも、私が居ないと、この人はまた新人さんを泣かせてしまうかもしれないし。ああやって中間管理職をやっているのもなかなかどうして楽しいのだ。
「……手厳しいな、お前は」
「すべて、お前の望むままにしよう」と、見開かれていた目がゆるく弧を描く。慈しむようなその視線がくすぐったくて、お土産、一緒に選んでくださいねと言うと、それなら休日に車を出そうと言う。初めてのデートらしい。展開が速くてなによりだ。今まで2人して立ち止まっていたのが嘘のように思える。
「そうだ。2人の時は、ナマエって呼んでください。お前呼びは、いや」
「ああ、わかった。……ナマエ、」
彼の口から初めて聞く私の名前と、愛している、と告げるその顔を私は生涯忘れることがないだろう。私も愛しています、と告げると、彼は心から嬉しそうに笑った。