01.

「脚は平気か」
「……ええ、平気です」

 各地を巡る中で、もう何度執行者に追われたか。最初こそ数えていたが、今ではもうそんな意味のないことは辞めた。生きている限り、この狂った世界システムが変わらない限り、追われることだって変わらないのに続けるだなんて不毛なことである。バニラは無駄なことが嫌いなのだ。

「時にイージスさん。私、無駄なことは嫌いなんです」
「なんだ、突然。よく知っているが、そんなことは」

 独り言と見せかけて、目の前の彼――イージスにバニラは話し掛ける。今更なにを……と言いたげに、男性にしては長く美しい睫毛を靡かせるよう、彼は瞬きをした。
 ざわざわ、がさがさ。森の木々を、草を掻き分けながら進む。先を行くカナタ達が「こっちだよ」と道を確認しながら誘導してくれていた。ざくざくと落ち葉を踏む音がやたらとこの広い空間で響いた気がして、これではすぐ追手に見つかるのではと小さな不安を覚える。やはり、単刀直入にいうのが一番だ。バニラは形の良い唇に笑みを浮かべたまま言葉を向けた。

「でしたら、降ろしてくださいませんか? 私は歩けますので」

 つい先刻のこと。執行者に追われている際に、ぼこりと地面から這うように出ていた木の根に右の足をひっかけ、ぐきりと嫌な音と共に足首を痛めたのである。見事に折れた音がしていたというのに骨折していなかっただけでも運が良いのかもしれない。
 ……あの場で転けていなくて良かった。みっともないところを見られたくないのもあるのだが、それよりも、自分の失態で執行者に見つかっていれば間違いなく今よりも足手まといになっているはずだから。それは最悪のパターンだ。何事もなく、誰も怪我をすることなく切り抜けるのが一番良い。それなのに……と、その要因を生み出しかけたことや自分自身が怪我をしてしまったことが、彼女にとってとても屈辱的だった。情けない、ああ情けない。そう嘆きたくなるほどに。

「馬鹿を言うな。お前は怪我人なんだぞ」
「……あなた、槍使いでしょう。私を抱えていては槍を振るえないじゃないですか」

 タイミングというのは悪いときは本当に悪いもので、こういうときに限って彼女の調合する薬は底を付いている。やはり運がなかったのではと思うとため息を吐きたくなった。それはもうこれみよがしに。
 イージスがバニラの言葉に目を丸くし、そういえばそうだと表情が語っているのもまた、彼女の頭を痛くさせる。
 返答を待ち、数秒後には降ろして貰えると思ったのに、彼がその表情の通りの言葉を口にしたので、またさらに。……眉間に僅かに寄せられたシワを自分でほぐす様に細いひと差し指をぐいと押し当てる。

「あなた騎士なのですからもう少しそういうところを意識――」
「俺にとってはお前を助ける方が優先すべきことだった」
「は」

 イージスは、うぅん……と、こめかみに触れるいつもの癖はせずに唸りつつ「悪いがお前が魔法で応戦してくれ」なんてしれっと言い放ち、再び先頭を行くカナタやミゼラ、ヴィシャスに続いた。
 なぜ降ろすという選択肢がないのだろうかと思ったが、それはそうだろう。彼はいつも弱きを助けようと真っ直ぐで、心から騎士であろうとしているのだから。
 同じ出身でいて、所属は違えど同じ王宮で仕事に就いていた腐れ縁。そんなふたり。だがそれでも、視界の端に、時には目の前でそれを目の当たりにしてきたのだ。
 そんなところが腹立たしい。綺麗で、真っ当で、強く優しい。彼はどこまでも自分とは違うのだ。捻くれて、歪んで、弱い自分とは。
(……本当に、嫌になる)
 道具袋から顔を覗かせたニッキュがバニラの苦々しい顔を見て首……否、顔をこてりと傾げる。キュゥ……と心配するような鳴き声に、バニラはにこりと微笑んでみせた。どろりと身体に纏わり付くような感情を呑み込んで。





 毎度毎度なぜバレないのか不思議で仕方ないが、無事に宿の部屋を取ることが出来た。男と女と小さな動物が一匹。武器を持ち歩いていないから旅行客だと思われていると考えれば、ああなるほどと理解できる。まさか罪を犯す凶悪な咎我人が武器を持っていないなど考えもしないのだろう。実際には持っていないのではなく、“仕舞っている”というのが近しいと言えるけれど。
 チャリ、と宿主から手渡されるふたつの鍵。それと連なるように付けられていた菱形で角が丸まった木製のプレートには部屋のナンバーが彫られている。廊下やロビーにはそこまで人が多くないものの、家族連れや旅人であろう男達、恋人も居るようで、平和そうだと自分たちとは違う世界の人間を見るかのような感情が一行の胸の内に小さく湧くのであった。

「バニラ、どう?」
「だいぶ楽になりました。ありがとう、ミゼラさん」

 男女に分けた部屋に入ってすぐ、バニラはベッドに腰掛けるように言われたので怪我人らしく従う。おうして、ミゼラがブラッドシンの力を使って右足へ治癒を施した。
 くい、くるり。足首を軽く動かしてみるとすっかり痛みは引いている。本当に不思議で人智を超えた力だと改めて実感せざるを得なかった。
 部屋に備え付けの木製の椅子に腰掛けたニッキュが先ほどまで元気がなさそうだったというのにころころと転がり始める。バニラの様子を見て安心したのだろう。彼女たちはまんまるで緊張感のないその姿にくすりと笑みを漏らした。

「バニラ。聞きたいことがあるの」
「どうかされました?」
「うん、あのね。お姫様抱っこ、どうだった?」

 まさかそんなことを聞かれるとは。ずるり、と上着が肩からずり落ちるかのようにバニラはきょとんとし、目を丸くさせる。そして、コホンと咳をひとつ。普段のような冷静さを再び纏うと、ミゼラに再び確認するように問い返す。
 ……お姫様抱っこ、羨ましい。桃色の髪をふわりと揺らして彼女はそう答えた。
 色恋沙汰に夢を馳せる――というより、カナタと自分ならと重ねて夢想したのだろう。ミゼラはどこまでもカナタのことを思っている。それはもう、すごく。ただ恋情を寄せる幼馴染への想いに収まらぬほどに。まるで神格化しているかのようだった。
(……神、ですか)
 そんな者、いる筈もない。それでも、いや、だからこそミゼラにとってのカナタがそうだったのかもしれない。バニラ自身はビジョンオーブ越しにしか彼らの罪と呼ばれる行いは見なかったが……カナタが自身の親を殺し、ミゼラが建物を燃やしたのも、きっとお互いのためなのだろうと共に旅をする中で見る二人から予想は出来た。
 ぱったりと言葉が止まったことを不思議に思ったミゼラがバニラの顔を覗き込む。は、と自分の中の空想を覗くのを辞め、バニラはにこりと絵に描いたような笑みを向け、「ミゼラさんが羨ましがるようなものではないですよ」と淡々と告げた。

「イージス、やっぱり下手だったのね」
「下手?」
「ええ。イージスは……ヴィシャスよりはマシだけど、それでもカナタと違ってまだまだ頼りないだろうから、バニラのこと落とさないか心配だったの」

 ミゼラにとって、カナタ以外はみんな同じなのだろう。それこそ、じゃがいもだったりにんじんだったり――そんな風に見えているのではないかと思うほどカナタ以外の男には特に塩対応だ。ヴィシャスは野菜というか食べ物にすら見えていないのだろうけれど。
 それはともかく、と。ミゼラの言葉で先程のあの如何ともし難い妙にもやりとした時間を思い出していたバニラは、少しだけその場に戻ったかのように浸り、目を伏せた。
(彼の手、は。力は。優しさは……――)
  お姫様抱っこ、女の子の夢なのに。そう言い少しだけミゼラは柔らかそうな白い頬をむくれさせたので、バニラはぱちりと瞬きをして自分の中に過ぎった感情を強制的にぶつんと切るように考えるのを辞めた。だって、なんだか、これは。

「バニラ? 平気?」
「え、ええ。でも、少しだけ横になりますね」

 邪魔をしてはいけないからと言い、ミゼラは部屋を出て行った。ドレスのふんわりとした形のように軽かった足取りからして、カナタのところへ行くのだろう。
 もふり、と少し薄めの布団を被るとニッキュが潜り込んできた。つん、と小さなふわふわとした頬をつついてやってから瞳を閉じる。起きたら薬の調合をしたり回復アイテムであるグミを作ったりしなければと考えをあれこれと浮かべていると、規則正しい間隔でコンコンと扉をノックする音が聞こえた。この、ノックの仕方は――。

「バニラ、起きているか?」
「…………寝ています」
「おい! 嘘を付くにしてももう少しマシな嘘をだな!」

 よく通る、真面目で真っ直ぐな声。――やはり、イージスだ。
 ああもう。バニラはベッドから降り、部屋に置かれていたスリッパを履いた。小言を続けようとしていた彼は突然開かれた扉に目を丸くさせる。
 しぃ、と自分の唇に人差し指を当てて見せ、「声が大きいです」と小さく注意。部屋ならまだしも、廊下で大きな声を出せばロビーまで響くかもしれない。目立つべきではないのだから、慎重になるべきだ。寝ようとしていたバニラのように休んでいる人もいるかもしれないのだから、静かにするに越したことはない。それに気付かないイージスではないので、片手でサッと抑えて「わ、悪い」と口にする。いえ、と言いながら部屋の中へと促し、ぱたんという音と共に部屋にはふたりと一匹になった。その一匹は、いつの間にか眠っていたのだが。

「何かご用ですか?」
「ああ。町で薬を買って来た。入用かと思ってな」
「……怪我なら、ミゼラさんが治してくださいましたが」
「なにっ!」

 ミゼラの名前を聞き、彼女のブラッドシンの力を思い出したのだろう。はぁ〜〜と長く盛大なため息を吐いてイージスは項垂れた。そうだった、そうだよな、それはそうだ。なんて、さっきまでと打って変わってボソボソと口から声が漏れている。
 そこまで落ち込まなくても、と思いつつ彼の腕の中にある薬の入った紙袋を見詰めた。
(……これを、わざわざ、私のために?)
 仲間思いな彼からすれば当たり前のことなのだろう。どこまでも真っ直ぐな――それこそ愚直と呼べるほどのそれに、バニラは半ば呆れるように、ふうと息をつく。甘いような苦いような思いが胸の中で漂ったことは、バニラ本人は気付かないままだった。

「今後、役に立ちますよ。無駄にはなりません」

 はい。と両手を差し出して紙袋を受け取るポーズを取ってみせると、まだ少し落ち込みながらもイージスは彼女の手に優しい贈り物を乗せた。
 ……ありがとう、なんて。バニラには愛想の良い可愛げのあることは、やっぱり出来なかったが。
 何か飲み物でも淹れようかと、部屋に用意されている茶器に触れようとすると、イージスはずかずかと近付いてバニラの細い手首を握ってそれを止めた。怪我が治ったとはいえ体力は削られているのだから、と横になるように言われ、半ば押し込むように無理矢理ベッドに入れられる。……無理矢理だなんて言った日にはイージスが抗議してくるのでバニラはわざわざ口にすることはしなかった。
 ガタ、とさっきミゼラが座っていた椅子に、今度はイージスが腰掛ける。茶を飲もうともせず、しかし何か話がある訳でもなく、ただ静かに――バニラをじぃと見詰めているのである。
 人に見られることは慣れていた。病気を患っていた幼い頃は“可哀想”だなんだという哀れみを込めた瞳に、王宮で仕事をしている際は“怪しい薬師”だという疑いと恐れを込めた瞳に見詰められていたから。……けれど、さすがにこんなにも真っ直ぐに見詰められては、なんだか。
 居心地が悪いような感覚を覚えた彼女は、むくりと体を起こし腰掛けてミゼラと話していたことを話題として差し出した。彼のことを頼り甲斐が無いと言っていたことを話すと心外だと整った眉を不機嫌そうに歪めたので、まあまあと嗜めておく。
 ふう、と自身を落ち着かせるように息を吐いたイージスは、ふむ……と指をこめかみに当てた。何か気になることでもあっただろうか? とバニラがその様子を黙って見ていると、彼はパッと琥珀色の瞳を彼女へと向けて尋ねる。

「……女子はそういうものが好きなのか?」
「そういうもの……?」
「ああ。その姫抱きというものが」

 なぜそこに食い付くのか。なぜそこに興味を持つのか。彼なりに会話を広げようとしたのか、本当に気になったのかはバニラには分からなかった。
 んん、と下唇を押さえながら考えるような仕草をやってみせる。
 ……世間一般的には、きっとそうなのだろう。女の子はお姫様抱っこに憧れる。ミゼラのように好きな人にして貰えたら……と考えたり、格好良い人にして貰いたいと考えたり。バニラには分からないことだったが。まあ、イージスのように女子という生き物を一括りで考える男には難しい話かもしれない。そのことを本人にそのまま伝えると、「一言余計だぞ」とむすりとしてしまった。

「きっと、ですけど。自分がお姫様になったようで夢見心地なんじゃないでしょうか」
「……なるほど。お前もか?」
「……まさか。私は違います。それに……あなた、下手でしたから」
「なっ! またそういうことを……!」

 事実です。そう薄く笑い、バニラは、ああおかしいと言いながら上品に唇に手を当てて笑みを隠した。その姿を見て、いつもと違う感情が彼の中で動いた。
 いつも揶揄われたり、手のひらで転がされているのが――なんだか、悔しかったのだろう。自分ばかり揺さぶられて、不公平だと。

「……そこまで言われては、黙っていられないな」
「? なんです……」

 か、と言い切る前にイージスが椅子から立ち上がったかと思うと膝を付いた。ベッドに腰掛ける彼女の目線に合わせて来るので何事かと思う。
(お腹でも壊したのかしら)
 まさかベジタリアンでそこまで食欲旺盛でない彼が食べ過ぎによる腹痛を? そんなことを考えるよりも先に、「失礼する」という彼の声が聞こえて。そして。バニラの細い腰に、膝裏に、するりと手が滑り込まされる。
(え、え、……っ)
 問い掛けと、困惑と、抗議と、――。イージスさん、と呼ぼうとするそれらを含んだバニラの声色はきっと、冷静さの欠片もなく、どこか震えてすらいただろう。ぐんと視界が上がり、抱き上げられたと同時に、その声は呑み込まれて消えてしまった。風になのか喉になのかは、もはや分からない。

「さあ、どこが下手なのか俺に教えてくれ」
「!」

 この男はキリリとした顔で何を言っているんだ、と言いたくなる。ホワイトグレー色の髪が少しバニラにかかり、影を作っていた。
 そんなに上手くなりたいのだろうか。恋愛経験なんてない癖に、事前練習だけはしっかりこなすつもりなのか。――あなたは私を見ていない癖に私で練習するのか。そう思ってしまったとき、何かがバニラの胸を無遠慮に貫いた気がした。ケーキを食べようとしてフォークを刺すように、ぶすりと。
 ……そもそも、下手ではなかった。見ただけでは分からないしっかりとした腕と骨張っていてしなやかな手で抱え上げられたあの時、全くと言って良いほどに疲れなかったのだから。強過ぎず、けれどしっかり、落ちないようにと支えてくれていた。真面目で真っ直ぐな彼だからこその優しさだ。
(……あつ、い)
 かぁっとぶり返していく熱は、記憶を覗き見たせいと、この状況のせいで。
 正直、早く降ろして欲しい。けれど、「上手でしたよ」だなんて今更言えるわけもないし、わざわざ言いたくもない。性格が悪いのを自覚して敢えて言うけれど、責めたくて仕方がないのだ。
 教えてなんてあげないです。気遣いを覚えたらどうですか?
 ああやだやだ、下手っぴさん。
 お馬鹿さん。
 ……だんだん語彙が消えていることについては目を伏せよう。
 結局、「こんなことに意味があるんですか?」などと甘さを感じさせないツンとした物言いしか出来なかった。だと言うのに、彼は嫌悪することなく彼女を見詰めている。……その目は、やめて欲しい。バニラは腹立たしさを孕ませながらもそれをおくびに出すこともせず、紫の瞳で真っ直ぐに見詰め返す。

「またお前を運ぶこともあるかもしれないだろう」
「私がまたヘマをすると?」
「そうは言っていないだろう。あくまでも可能性の話だ。その時にまた下手だのと言われたら俺が嫌なんだ」
「……ほんっと、融通の効かない人」
「聞こえてるぞ」
「まあ、良いお耳をしてらっしゃるんですね」

 ああ言えばこう言う。口の減らない、まるで挑発するかのようなそのやり取りにイージスはついに冷静さを欠いていつものようにワッと声を張り異議を口にした。

「この距離で聞こえない方がおかしいだろう!」
「!」
「あ……」

 しかしその時、ずい、と真っ向勝負を仕掛けるかのようにいつも通り顔を近付けたのが良くなかった。なぜなら、いつもよりも当たり前にふたりの距離は近かったのだから。
 ここまでの至近距離ではもう何も隠せやしない。動揺して揺れる瞳も、唇も、熟れていく頬も。暑く、熱く、あつく。目の前の彼の琥珀色の瞳は宝石ではなく蜂蜜へと変わったのかと思うほどに濃く、とろりと蕩けているようにさえ彼女には感じられた。
 窓辺から射し込む夕陽のせいで、彼の髪がクリーム色のように見えて。彼女の髪と重なり混ざり合ったその色合いはどこかショートケーキを思わせる。
 バクバクと鳴る心音はもはやどちらから発せられているのか、どちらが強いのか、自分のものなのか、何も分からなくなっていた。
 やがてイージスの唇が薄く開かれ、スゥ、と空気を呑み込み……言葉を溢そうとした、その時。

「キューゥ?」
「!」

 バニラの傍らで眠っていたニッキュがいつの間にか目を覚まし、イージスとバニラを見上げていた。ぱちぱちと瞬くくりりとした無垢な瞳に見つめられた事で、目が覚めたように自分達の状況を自覚したふたり。
 イージスはバニラをそっとベッドに降ろし、ゴホンとひとつわざとらしい咳払いをした。

「も、申し訳なかった」
「いえ。……べつ、に……」

 離れていく自分とは違うごつりとした手に、熱に、バニラはホッとする。手袋越しだったというのに、それでも名残は残ったままだ。腰も、膝裏も、熱くて……すり、とほっそりとした脚を擦り合わせた。そんなもので感覚は消え去ってはくれないけれど。

「っ、その……バニラ」
「……なん、でしょう」
「……いや…………」

 口元を隠しながら何かを言い淀んでは何でもないと繰り返すイージスを、バニラは訝しげに見る。その瞳に映る彼はあまりにも動揺で騎士たる姿などではなく、ただひとりの青少年だった。
(……どうかしてしまったのか、俺は)
 同じ土地で育って、なんとなくいつも近しい場所にいた腐れ縁の彼女。自分が咎我人として執行者に追われるように、彼女もまた同じ道を走っている。それに悲しみとやるせなさを覚えていたはずだったのに。そのバニラに対して、今自分は何を考えていた? それを考え始めてしまったイージスの心の中はきっと、汗でびっちょりと濡れていることだろう。

「そっ、……ろそろ、夕食の時間だろう。後で、その、食事を持って来る」
「? いえ、私、下で食べられますよ」
「……あ、あぁ、そうか……いや、違う、その。〜〜ッ無理するな! いいから待っていろ!」

 イージスは元々コミュニケーション能力やユーモラスに恵まれている訳ではないので、話を逸らしたり切り替えたりしても、結果はご覧の有り様である。
 居た堪れなくて、本当に自分が自分ではなくなるようで、冷静になるため、いつもの自分を取り戻すために、イージスは今までにないくらい俊敏な動きで部屋を出て食堂まで走っていった。
 本当に嘘が付けない人だ、とバニラは思った。気まずいならそろそろ部屋へ戻るとか適当な理由を作ってでも部屋に戻ればいいのに。わざわざまた戻ってくるような選択をするなんて――。

「……いじらしい人」

 そもそも、彼には適当なことを言うだなんて出来ない。それはずっと前から知っている。
 いつも誠実で、謹厳であろうと努めていた。両親に支えられて騎士になるべくここまで邁進して生きて来た彼は。……どこまでも、自分とは違い陽の目を浴びてその下を歩む人間なのだと、彼女はまざまざと思い知らされる。
 ――自分がそんな彼に、きっと前から惹かれていたのだということも。

「……ふう」

 自覚なんてしたくなかった。私みたいな人に好かれるだなんて、あの人が可哀想でじゃないか。
 悪辣という毒薬で煮詰められた自分のような人間が。
 可愛げのない性悪な人間が。
 あんな、清廉潔白な彼に僅かでも影をかけようものなら、神に断罪されるのだろうな、なんて考えた。神など信仰していないくせに。
 さっきまでの甘さなんて嘘みたいに心は毒に犯されていくようで。追い討ちにケーキナイフで優美にサックリいってしまいましょうか。なんて自虐したりして。

「キュ……」
「……平気ですよ」

 か細く鳴いたニッキュの頭を毛並みに沿って指で撫でて微笑む。その時の彼女の表情は不思議な生き物しか知らない。

「やっぱり、不相応なことは、だめですね」

 自分は恋なんてしない。絶対にしない。いらない。そう意識した時点で、もしかしたら。恋は始まっていたのかもしれない。
 蜂蜜色の瞳を不意に思い出して、身体が甘さを感じてしまった気がした。
 私は、甘過ぎるのは嫌いなの。紅茶にだって、角砂糖ひとつしか入れないのですから。だから、やめて。
 しかし、そう思っても、どう抗っても。甘美な恋の味からは逃げられないのかもしれない。
 ……ごめんなさい、可哀想な腐れ縁の騎士。

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