雨の中を歩き続けるならいざ知らず、魔物と出食わし、走らなければならないだなんて。濡れ衣で咎我人となったのだからこれ以上の困難は勘弁して貰いたいものだ。
猛り狂う魔物が既のところまで来ていることが分かったバニラがくるりと振り向きざまに鋭く放ったブラッドシンである短刀は雨のベールを切り裂くように飛び、魔物へと突き刺さる。ギャン! と情けなく呻き怯んだ隙を逃さず、カナタが身の丈に似合わない大剣を大きく振るった。
「うわわっ! 雨で持ち手が滑りそうだよ〜!」
「カナタは下がってて、私が処理する」
まるで腕輪のように、ミゼラの細い手首に浮かび上がる魔法陣。手のひらから炎が飛び出し、斬り伏せられた魔物に追い討ちをかける。
仕方ないことだが、毎日毎日何かしらに追いかけられていて、しばらく宿を利用できていない。鬼ごっこでもあるまいに――と忌々しくてたまらない。今回の鬼は執行者ではないだけまだマシなのだろうが、今日こそは宿のベッドで休めると思っていた分、とても残念だ。
それもこれも元はと言えば――。
「魔物の巣にあった果実酒の素であった実を取ろうとしたヴィシャスさんのせいですね」
「あーうるせぇうるせぇ! 腹が減ってたんだからしょうがねーだろ」
「なんでもかんでも食べようとするの、辞めて頂けます? 動物じゃないんですから」
「あーん? ンだとバニラてめぇコラ!」
後で覚えてやがれ! と言いつつ眼前に迫る獣に弾を撃ち込むヴィシャスを横目に、バニラは「もう忘れました」と言い、追い討つように薬瓶を投げ付ける。小さくぱりんと割れた瓶の音は雨に掻き消されたが、中に入っていた劇薬は魔物の身体に浸透していき、細胞を破壊させていく。獣の姿のそいつは、ビク! と動きを止めたかと思えば、横たわり痙攣を起こして震え始めていた。
「相変わらずえげつねーの使うな、お前」
「薬師として、お褒め頂き光栄です」
「褒めてねーって……」
数もだいぶ減って来たので余裕が出てきたのか、軽口が増え始める。森中の魔物が集まってくるのではと思うと気が気ではないが、残るは片手で数える程度。何かハプニングでも起こらない限りは乗り越えられるだろう。
「よーし、あとひと息! いくよ、イージス!」
「ああ! ――払槍一閃!」
薙ぎ払い、打ち上げた敵に無数の牙突を見舞う。ふ、と魔物が落ちるのを見計らい、カナタが技を繋げていく。共に旅を始めた頃では考えられないほどの連携だった。
む。と、面白くなさげにミゼラが少し頬を膨らませているのがバニラの目に映る。カナタと仲良くしているのが自分から見て異性でも嫉妬するのか、と思うとなんだかいじらしくて笑みを溢しそうになってしまうが――あっ、と口をぱたむと覆う。気を抜いてはいけない。今は戦闘の真っ只中なのだ。さあ、早くこの場を切り抜けて街へ行き、宿で暖まろう。そう思い、こちらを捕食しようとグルルと喉を鳴らす獣に向き直ると――。
「ガァアア!!」
「なっ……!?」
「――え、」
飛び掛かろうとした攻撃を躱すと、獣は地面に強く衝突した。……それが、いけなかった。
ビキ、と嫌な音がして地面に亀裂が走る。森の内側ではなく外側に居たふたり――イージスとバニラは、嫌な想像が止められない。
(落ちる。……落ちたら、どうなる?)
雨で濡れて冷えた身体から血の気が失せていく。まずい、まずい、まずい。せめて亀裂の向こうへ行かなければ! そうして足を進めようとしたが、遅かった。亀裂が入った時点でもう、どうしようもなかったのだ。
散々の雨で濡れた足場は、ふたりを受け止めることもなくガラガラと崩れて――。イージスとバニラは重力に引かれるように、呆気なく、どうしようもなく、落ちていく。あまりに突然の出来事。流れるように、自然に、当たり前のように起こったかのようなそれはあまりにも無慈悲で。まるで金縛りにあったかのように仲間たちは身動き出来なかった。
「イージス! バニラ!」
そんな中カナタがいち早く金縛りから解き放たれる。しかし、伸ばした手はふたりのどちらの手も――服の端すら掴むことは出来なかった。
◆
ざあざあ。ざあざあ。
うるさいな、と言いたくなるほどに雨足は強く、痛いほどに身体を刺していく。
(なぜ、傘も差さずに雨に打たれているの?)
傘を差さないと濡れてしまう。そんな当たり前のことを思いながら目を開けると、視界に広がったのは土。
「……?」
……意味がわからない。一体どういう状況なんだろうか。身体を起こすため手に体重をかけようとすると、弾力のあるものが下にあることに気付く。目を向けると、それは。
「イージスさん……?」
待って、待って待って。本当にどういうことだろう。……と、冷静を装いつつ辺りを見回そうとするがうまく身体が起き上がらない。身体をがっしりと締め付けられている――というより、抱き締められているようだった。
「……本当に、どういう状況なの……これは……」
勘弁して、と言いたげに深く溜息をこれみよがしに吐く。そのお陰か頭は幾分かマシに働くようになりつつあった。
(……そうだわ。魔物に追われて、戦っていて、それで)
自分たちは戦闘中、崖から落ちたのだ。そして彼はきっと―― バニラを助けようとしていたのだろう。気を失っているというのに彼女の細い身体を力強く抱いたままというこの状態から、嫌と言うほどにそう把握せざるを得なかった。
何にせよこのままではいけない。仲間も居ないまま、よく魔物に囲まれなかったものだとある種の幸運だと思いながらイージスの頬をぺちぺちと叩いて呼び起こそうと試みた。
「イージスさん、起きてください。イージスさん」
「……う……、バニラ……?」
「はい」
「……、ッ! バニラ! 平気か!?」
電撃に撃たれたかのように、がばりと勢い良く身を起こしたイージスは、余裕なんて欠片もない様子で頭の先から足の先までバニラを見詰める。特に目立った外傷はないことが分かると、はぁあと気の抜けたように息を吐いた。そんな彼の顔には大きな擦り傷があり、服も汚れていたり所々破れたりほつれたりと酷い有り様だ。
「どうでしょうね。あなたが庇ってくれたので大きな怪我はありませんけど」
――顔の大きなすり傷。目立った怪我はそれだけに見えたが、崖から落ちたのだ。身体を打ち付けたり擦り傷だらけに違いない。
さすがに戦闘経験も碌に積んでおらず、日々研究に勤しんでいて体力も力も対してないバニラでは、イージスを担いでこの崖を登っていくなど無理でしかないだろう。それは彼女ひとりでも変わらないことでもあったが。
気付けば崖上から降りて来ていた戦いの音は止んでいた。
……だが、よく考えなくてもわかる。雨も未だ止まず、空を雲が覆い尽くしている今、日が陰るのは普段よりも早い。それに加えて、恐らく今はもう深夜。そんな状況ではさすがに合流も難しいだろう。
とにかく、今は仲間を探して動き回るべきではないが、それでもこのままここにぽつりと佇んでいるのは愚の骨頂だ。雨風を凌げる場所を探してふたりは覚束ない足を懸命に動かし、崖下を離れた。
「バニラ」
「……? なんですか、イージスさん」
「身体は……本当に大丈夫か?」
彼の気遣いはいつもより度を増しているようだとバニラは感じた。
(冗談、言うんじゃなかった、かしら……)
自分が無事であることを示すためにいつも通り可愛げのない軽口を叩いてみせたバニラは、若干の後ろめたさを覚えるしかなかった。冗談すら通じない……いいや、こんな状況では仕方ないというか、当たり前ではある。彼はそれほどまでに真摯なのだ。それをわかっている筈なのに、そう感じれば感じるほど自分の淀みが浮き彫りになるようで、ままならない。惨めだ、哀れだ、最低だともうひとりの自分が嘲るのだ。
「……結構……、いえ、大丈夫です。それより、あなたの方が怪我をしているのですから無理はなさらず」
しかし、とまったく引く様子のないイージスにバニラはかける言葉を上手く見付けられずにいた。
きっぱり強く、心配なんて必要ないと告げる?
庇ってくれたあなたの怪我が心配ですと告げる?
……どちらも選べない。選べるはずがない。強く言えば落ち込ませてしまうだろう。ましてや、……心配ですなどと告げることはいつもの自分ではないようで、変に思われたくなくて……何より気恥ずかしくて、どうしても口にすることは出来なかった。
どう話したものか、と思いながら目線を先へ向けると少し口の開いた岩場が目に入った。ちょうど良い。そこまで大きくない洞窟ならば魔物や追手に気付かれることなく一晩過ごせるだろう。
「イージスさん」
「どうした?」
「あそこ、空洞になっていそうです。身を隠すならああ言った場所の方が良いかと……」
こくりと頷き合い、洞窟へ向かうためにと足を向けた――のはバニラだけだった。イージスは立ち止まったまま、両手を広げている。不自然な様子に訝しげに首を傾げるバニラをまっすぐ見据えたまま、イージスも少し首をこてりと傾けた。
これ以上雨を吸って身体を冷やすのは得策な筈もないのにこの人は何をしているのか。心配していた気持ちがだんだんと焦燥感や苛立ちへと変わっていくようだった。怪我してる癖に、何をしているの!? と。感情そのままに「何をしているんですか?」と声に出てしまう。
イージスは「姫抱きが必要かと思ったんだが」と言ってのけたが、バニラは「必要ありません」と突っぱねて先に洞窟へとずんずんと向かって行った。足取りは打ち身のせいでいつもよりも遅い。顔の方は寒さのせいか、はたまた彼のせいか、赤くさせながら。
◆
野宿の際の焚き火はいつもミゼラのブラッドシンの力に任せていたので、自分達で火を起こすのはなかなか骨が折れた。幸いにも洞窟内で散らばっていた木枝があったとはいえ雨でしけっており、さらにお互い魔術の素養がある訳ではないので仕方がないのだが。
割と奥深くまである空洞で、外に灯りも漏れないだろう。雨に打たれてすっかり冷えた身体を暖めなければいけないし、さすがに月明かりすら望めない真っ暗な中で過ごすのは不安でしかない。パチパチ、と音を立てて木屑が燃える様子を何も言わずに見詰めていると、少し安心出来る気がした。
「くしゅんっ……」
小さなくしゃみをひとつ、バニラが溢した。……当然だろう。いくら焚火が目の前にあるといえど、濡れた服を着たままでは寒いに決まっている。温まるものも暖まらない。となれば、どうするのが一番良いのかは考えなくてもわかる。お互いにわかってもいる。しかし、気恥ずかしくてそれを口にすることがなかなか出来ないでいた。
(男が女に、そんな……はっ、破廉恥極まりない!)
まさか、服を脱ぐように言うだなんて――有り得ない。少し離れた場所に座るバニラに目をやり、ついその脳裏に浮かべてしまいそうになったイージスは、慌ててビジョンを振り払うように首をぶんぶんと振った。
馬鹿な。何を考えているんだ。腐れ縁であり仲間である彼女のことをそんな目で見るなんて。……と自分を律しようとした。まだ想像すらして居ないというのに罪悪感を抱いたイージスはそろりとバニラを盗み見た。少しでも濡れたところを拭こうと思ったのかハンカチを広げていたが、それもびしょりと濡れていたようで少し眉間に皺を寄せている。雨のせいでいつもよりも艶やかに見える唇を少し尖らせていた。
何気なく――ではなく、吸い込まれるようにそれを見詰めていたイージスは脳裏にこの間の宿屋での出来事がフラッシュバックし、みるみる内に顔を赤くさせてしまう。
毒や薬の研究をする薬師でも咎我人でもなく、ただひとりの少女にしか見えなかった昔馴染みの彼女。宿の窓から差し込む暖かな光がトッピングされたような……大きなアメジストの瞳に、木苺のジャムのような色の柔らかな髪に、白い肌に、柔らかく美味しそうな唇を――思い、出してしまった。
だめだ、だめだ、だめだ。どうして今思い出した! 辞めてくれふたりきりなんだ! と、イージスはわなわなと震えつつ緊張の汗を握りしめた。冷静になれ! と自分を咎めつつも鼓舞し、無理矢理立ち上がることにする。精神的な意味合いも含めて。
「…… バニラ」
「……! はい……?」
「誓う。天地神明に誓って、見ない。だから……、服を、その、脱いでくれ」
乾かさないと風邪をひく。そう気まずそうに続けるイージスの髪からぽたりと雫が落ちて渇いた地面に滲みを広げさせる。
特に深い意味がなく彼が自分をそういう目線で見ていないとバニラは思っていたが、それでも、イージスが紅潮が耳まで及ぶほどに動揺し、自分を女性だと扱うその様子に心をくすぐられた。心の中にある、毒女らしくない、甘くあまく砂糖漬けにされたような恋心が、揺れ動くのが嫌でもわかる。私のような可愛げのない女に好かれて可哀想。だなんて思っているくせに、彼に焦がれることを辞められないのだ。
結局自分も恋という甘いケーキやドーナツに群がり、そんな甘味を頬張り、男に守られようとする女と変わらないのではないか。そう思うと、バニラはますます自分が嫌になった。か弱く守られる女子供で居たくなくて、少しでも世の中に貢献することで生きた爪痕を残すために王国に属する薬学の学校にまで通ったというのに、そうして王宮薬師にまでなったというのに。
これ以上考えるのは辞めよう。意味がない。そう思い、バニラはすっくと立ち上がる。じゃり、としけった地の音にイージスはつい目線を向けてしまった。
「……イージスさん、あっち向いててくださいよ。……えっち」
「な!? す、すまな……っ! いや、まだ……! うぐ…………すまない……」
ぎゅるん! という勢いでバニラから視線を逸らしたイージスだったが、えっちと言われたのが納得いかなかったのか「まだ見ていないだろ!」と抗議の声をあげようとして――濡れた布が擦れる音が耳に届くとすっかり押し黙ってしまった。
バニラは、今身体に貼りついている気持ち悪い感覚に似て非なる胸の内のざわめきを取り払うように水気を含んですっかり重くなった衣服を脱ぐ。背を向けてくれているとはいえ、さすがに下着姿になれるほどの度胸はなかったため上着とワンピースを脱いだだけではあるが。中にペチコートワンピースを着ていて良かった……とバニラは心の底から安堵し、背後から彼に声を掛けた。
「……も、う……いいですよ」
どうやらバニラが服を脱いでいる間に同じようにしていたらしく、ジャケットと白いシャツとインナーを全て脱いでいたイージス。
普段はきっちりと服を着ていて見ることのない肌が視界に入ってしまう。脱ぐことは何も悪くない。風邪を引いては元も子もないのだから、むしろ当たり前のことだ。正しい対処だ。……でも、鍛えられたイージスの身体を服越しでない状態で、心の準備もなく見ることになってしまうだなんて……驚きと緊張で声が少しうわずるのも仕方ないことだと、バニラは自分に言い聞かせた。
「……ああ。……。い、いや、やはり俺は背中を向けている」
相変わらず高潔で真面目な人だ。と思いつつ、よいしょと先程座っていた場所に再び腰を下ろす。本当ならハンカチを敷きたいところだがお尻が冷えてしまうかも……と思い、そのままに。いやに気まずい、なんとも言い難い空気のせいか、布の擦れる音や小さな息遣いが気になって仕方がない。
特に話すことも浮かんで来ず、今はやることもない。手持ち無沙汰になった白い手は、さすり……と自らの薄い腕を小さく擦った。
(やっぱり、薄着だから寒い……)
濡れた服が張り付いているよりはよっぽど良いが、今は雨が降っている上に日が陰っている。洞窟の中だから風は入って来ないため炎に影響がないという点は救いではあるものの、元々、病弱で身体を冷やしてはいけなかったバニラは薄着で外に出るということが世間一般の人に比べて本当になかったほどなので、肌をちくりと刺すような小さい寒気に困惑が止まらない。……まあ、そのいわゆる普通の人たちもまさかインナーだけで外出することはないだろうが。
「……」
「……」
……相変わらずの、沈黙。視線を向けるわけには行かないので確実性はないのだが、イージスはバニラが寒そうにしていることは微かに聞こえる吐息や肌をさすっているであろう摩擦音から察していた。……しかし。不可抗力(は少し違うだろうが)とはいえ、致し方ないとはいえ、薄着でいる女性に、自分――男性の隣に来いなどと言うのは……いかがなものか。
(やはりこれは、セクシャルハラスメント……というものになるのではないか?)
ぐるぐる、ぐるぐると、生真面目ゆえに抜け出せない思考の迷路に陥ってしまうイージス。うなされているかのように眉間に皺を寄せ、だんだんと顔が青ざめてすらいる。その様子を隣で見ているバニラの目は「何をしてるんだろうこの人は」と言いたげにじとりとしていた。
どういう言葉なら不快な思いをさせずに済むだろうかと百面相で――というよりは苦悶の表情の方が正しいが――脳を絞って絞って、絞り出して口にした言葉は。
「さっ……、寒いなら、も、う少し近くに座れば、いい……と思うんだ、が」
緊張で身体がガチガチに固まっていたせいで声は裏返りサラリと発することが出来ず。散々悩んだ挙句これか、とイージスは心の中でガックリと項垂れるしかなかった。丸まった背に、クスクスという笑う声が降りかかる。滑稽だと笑われてしまった、と思った彼は「笑うな!」と顔を赤くして小さく叫んだ。
「ふふ、あなたが私にそんなことするなんて思っていませんよ」
ああおかしい、と微笑むバニラに反して、イージスの胸中はもやもやとした感情が渦巻いていた。……“そんなことするなんて思っていない”、という言葉は信頼されている証だ。そのはずだ。それなのに、なぜそれを嬉しいことだと受け取れないのだろう、と。同じ王国騎士の者から堅蔵と呼び揶揄われることもあるほどに厳格で愚直。咎我人にされる前はそのことを前向きに捉えていたというのに。
(俺は、何をどう、思っているんだ?)
自分の感情が掴めない。冷静に判断して、論理立てて話すのが得意なはずだ。理屈っぽい昔からよく言われていたはずだ。なのに、これはなんだ? 部屋や身の回りの物――仲間の荷物までキッチリと整えるのが得意である彼のこの想いは整理整頓が効かない。
「……やましい事を、考えなかった訳じゃない」
勝手に口からぽろりと溢れた言葉。そうしたことで、イージスは自分の本当の感情が手に落ちて来るのが分かった。――なかったことに、ないものとされたくないのだ。自分はこんなにも、彼女を意識してしまっているのに。
まるで悪いことをしてしまったことを親に告白したときのような罰の悪さが後ろめたさを助長させる。そしてさらに、自分が吐露した言葉を再認識したことでまっすぐにバニラを見詰めることが出来なくなった。
……幾度目かの沈黙がふたりを覆う。お互いの顔どころか炎の中で木屑が躍る様子に目を向けることも出来ない。居たたまれなさから、どちらも俯いたまま。バニラがちらりと盗み見るように横目でイージスの顔を見やったとき、ライトグレーな彼の髪に滴る雫が睫毛にかかる。それがまるで宝石のように煌めいて見えて、綺麗だと漠然と感じた。そして同時に、こんなにも綺麗で穢れのない彼が、自分を女として見ているだなんて嘘のようだと思ってしまう。冗談がお上手ですね、と流してしまえばいい。けれど、イージスが嘘を吐くような人間ではないことは、今まで近くで彼を見て来たバニラ自身がよく知っているからこそ、出来ないのだ。
自分が女性として意識されたことを密かに想いを寄せる相手に真正面から伝えられて動揺しないなんて、ポーカーフェイスという仮面で心を隠すことに慣れているバニラでも無理で。嬉しいと喜んで見せることも、嘘だと突っ撥ねることも出来ず――ざり、と少しだけ、イージスが座る方とは反対の方へ距離を取ってしまう。すると、イージスは身体を傾けて彼女の方へと距離を詰める。
「……!? は、……ちょ、っと……!」
イージスの行動にぎょっとしてまた後ずさる。それなのに彼がまたひとつ距離を詰めてくるものだから、バニラはびくりと肩を震わせてしまった。離れてと言おうとした矢先、か細い手首が掴まれ、声にならない声が喉の奥で震える。乱暴さなんてないイージスの手は、まるで逃げないでくれと訴えているようだ。負けず嫌いなプライドも相まってバニラはそれ以上動けない。
ドキン、ドキン、という心臓の音が洞窟の中で響いていると感じるほどの高鳴りが自身を支配する。相手に聞こえていないことを祈りつつ、手を離すことも、手を振り払うことも出来ない。
顔が、身体が、熱い。吐息も唇も震える。あれだけ雨に濡れて寒かったというのに。
「……、っ」
「……ぁ……、」
嫌でも思い出してしまう、以前の――宿屋での一件。あのときと似ているが細かくは違う今の状況。服装だって、場所だって、違う。迫る彼の鎖骨や胸板、思ったよりもたくましい腕に滴る水滴がなんだか艶麗で――。
イージスは、目を合わせようとしないバニラの頬に貼り付く髪を退かしながら恐る恐る触れる。優しく、やさしく、怯えさせないように。ぴくりと反応した彼女の名前を呼ぶと、浅く息を吐いたバニラのアメジストが琥珀を映した。紫が困惑に揺れている。なぜかそれがとても扇情的に見えてしまい、イージスの心は激しくドクンと脈打つのであった。
(そうだ、あの時も――そう思ったんだ)
頬を林檎のように熟らせ、夕焼けに濡れた彼女を、異性として――“女”として見てしまったことを思い出す。同じ道を歩む仲間である彼女になんてことを、と自責の念に駆られていたはずだったのに、なぜまたこんな。自分は野生の獣や品のない男と相違ないのでは、いつからこんな下衆な男になったんだ、と自分を叱責するイージス。だが、違う。そうだ、違うことに気付いている。女性なら誰でもよいわけではない。彼女だから、こんなにも心が揺さぶられるのだ。
なぜこんなタイミングで、最悪のタイミングで自覚してしまったのだろう。つい目で追ってしまったり、他の人よりも気にかけてしまったり、憎らしかったり腹立たしいとことばかりいう素直じゃない彼女を愛らしく思ってしまったり――自分が、腐れ縁である彼女にいつからか心惹かれていたんだということを。
カァッと全身が沸騰しそうなほどに熱を帯びていく。ああいっそ、そのまま雨で濡れた身体を暖めて水気を飛ばしてくれと思うほどに。
(……なぜ拒まないんだ、バニラ……、)
残酷だ。いっそ最低だと突っ撥ねてくれたなら、謝って引き下がれるのに。目の前の彼女はまるで、甘い蠱惑の毒が仕込まれているケーキだ。生地の薄いペチコートワンピースしか纏っておらず、普段見えない肌を晒している。肌の白さと服の白さに差異はそれほどなく、上品で上質なクリームを思わせる。赤い髪と紫の瞳はベリーのよう。
服の下に隠れる柔らかな膨らみを目に映さないようにする。それでも、手を伸ばして触れたくなってしまって。奥歯をぎりりと噛み締め、鋼の理性でどうしようもない性を抑え込み、イージスは自分を律した。
……いけない。据え膳食わぬは男の恥、という言葉があるが――想い合ってもいないのにそんな筋の通らないことをするだなんて許されない。そんな不義理で彼女を傷付けるようなこと、自分が自分を許さない。イージスはバニラの赤らんだ桜色の頬に触れていた手をそっと引いた。
「……俺は、もう少し入口の近くまで行って見張りをしておく。お前はしっかり暖まって休むといい」
早口気味に告げると、半乾きのカッターシャツに袖を通しながら空洞の奥であるここから少し離れて宣言通り入口の方へそそくさと足を向かわせる。ぽかん、としたままのバニラは呼び止めることも出来ず、遅れて「……はい」と返事をしたが、それはイージスには届かなかった。
へなへなと力が抜けていく。膝を抱え込むように座り顔を埋める彼女は、耳まで真っ赤にさせていた。
(なにあれ、なにあれ、なんなの……あれは……!?)
待って。誰も急かしていないが、待って欲しいと何かに訴えかける。そうしないと、冷静に考えるだなんて出来そうになかったからだ。早く鎮まれ、となかなか収まらない心臓のざわめきと身体に籠った熱を抱き締めた。
……勘違いしそうで嫌になる。あんな熱の籠った目で見詰められたら、もしかして彼は私を……、と。一拍置いて、ふるふると首を横に振った。――違う。それはただの、ひとりの少女としての浅ましい願望でしかない。彼を想う気持ちが消えない限り、こうやって振り回されていく。たった一回、心が揺さぶられるだけで甘いケーキを食べた幼な子のように一喜一憂してしまうのだろう――いつまでも、いつまでも。忌々しげにわざとらしくため息を吐いたバニラの頬はまだ、赤く熟れたまま。
そっと、イージスに触れられた頬に指先で触れ、そのまま流れるようにするすると掴まれていた手首へ。そこはまだ熱を帯びているようで、あまりの熱さにどろりどろりと溶けてしまいそうだ。
は、という短い吐息と共に籠った熱を外に出すバニラ。こんなにも甘く熱いものを刻まれて、夢になんて、なかったことになんて……きっと出来ない。甘さに心を揺さぶられながらそう確信したとき、洞窟の外では朝日が顔を覗かせようとしていた。