わ〜〜二ヶ月ほど空きましてすみません……元気です
子規庵さんとか漱石山房さんとか、『漱石と子規』展とか、『KとT』展とか、田端文士村とか、鎌倉文学館とか、いろいろ行ったりしてました。あっあと神楽坂であったコラボ展示も拝見しました!
金沢弾丸ツアーを企てていたのですが、旅行資金が白樺召装ガチャで……お捻りになりまして……………………またの機会に。交換所があるって素晴らしいですよね。
朗読CDも手にいれましたが、耳元で声がするのがくすぐったくて恥ずかしくてふふふってなってしまって、全然聞けません。お前はいつもそうだ
三振りの極が来ましたね。鳴狐くんの極かわいくてかわいくて頭抱えました。つつくとついついニコニコしてしまいます。同田貫さんもかっこいいですけど、万屋ボイスが……!素敵が過ぎる。弊本丸では大倶利伽羅さんが修行中です。お手紙が楽しみ。
追記では宗三左文字の『グッド・バイの寄る辺』について、あとがきのようなつらつらを書きます。
企画サイトAsh.さんの、『さいご(と)ふたり』というテーマでした。
主催の藤佳さまが添えられたことばに、“不意に目の前に現れるなにかのさいごの瞬間に、わいてくる感情はいったいなんでしょう。そしてその感情はふたりのどこに留まるのでしょう。さいごをむかえる何かと一緒に、ふたりの関係性が変わる瞬間、変わらない瞬間、お好きなように描いていただけたらと思います。”とあり、修行前夜の刀剣男士が浮かびました。
『グッド・バイの寄る辺』というタイトルについて
花洩(もしくはamore)さんの素敵なお題です。
軽い別れであればbyeでよいところを、goodbyeとするなら、そこにあるのは永遠の別れの予感と、相手の幸福への祈りではないでしょうか。good-byeを辞書で引くと、さようならとまたねの意味が出てきます。さようならって、あまり言わないですよね。改めてさようならを言うときは、左様ならという相手の選択を受け入れると同時に、離別への決意か諦めか、再会を願うこころがこもっているように思えます。サヨナラだけが人生だ、そうかもしれない。それでもまたあえたなら。そう思います。
寄る辺。辞書には、拠り所、よすが、等あります。寄る辺ってどういうイメージでしょう。水辺。広い大海の、流された末にたどり着いた先。そういうものが彷彿としました。なのでちょこちょこと水のあたりのものが例えとして出してます。
本丸ごとで違う体験を経る刀は、主となった審神者ともそれぞれの関係を築くでしょう。そうした上での極で、男士は真に己の本丸の審神者を主と認めるのではないかと思います。
宗三さんからの手紙の一通目を読むと、修行の素振りをあまり見せていなかったようですね。本人からしたらそのつもりなだけでバレバレだったかもしれませんが、この期に改めて宗三さんの台詞や回想を見たところ、言葉一つ一つを大事にとるとわかりづらい刀のように感じました。葛藤を抱え、素直になにかを思うには過去が邪魔をする、そういう方かなぁと。キャラとしてでなく目の前にいきるひととして接することがあれば、困惑することも多そうな相手だと思います。
籠の鳥と宗三さんは言います。けれどその籠は、宗三さんが自らに施した籠にも思えます。そこに籠はないと、自由に羽ばたいてもよいと言われても、思っても、その籠のなかで幾年を過ごしてきた彼には、難しいかもしれません。それでも、いつかは変われるかもしれないと思えたなら、それは変化の兆しではないでしょうか。緩やかに変わっていく宗三さんの本丸が、幸福なものであればと願います。