海底のランプ


 ある日、司書が消えた。薄く雲が空を翳らせる、蝉の声さんざめく夏の日のことだった。

 と、いかにもこれから深刻さを滲ませるような書き出しで始めたわけだが、なんてことはない。消えたなぞ云うが、正確には。
「し、司書さんなの……? あれが?」
「そういうことになるらしい」
 図書館に集う文士たちが遠まきに眺める先には、子どもの姿があった。齢十になるかならないかというくらいのお嬢さんが、珍しく図書館にいる館長と何やら話している。出入りが制限されているこの図書館で一般人がいるはずもなく、初めは館長の隠し子かとざわめいた文士もあったがどうもそうではないようで。
「見つけたのは南吉でしょう? 昨日司書さんに、今日の助手をお願いされてたよね」
 話を振られた、幼い見目をした少年は、うん、と著作で口許を隠しつつ頷いた。
「お手紙を届けにいったらあの子がいたの、驚いちゃった。ぼくが知ってるのはそれだけだよ」
 この図書館では彼女しかつけていない特務司書の腕章や、彼女の服をぶかぶかに纏ったお嬢さんが一人、ぽつねんと司書室に座っていて、司書の姿を見えなかったのだ。

 こういう不思議なことは彼らを転生せしめた錬金術の不可思議によるところなのだろう、と好き勝手言っていた文士たちが適当に納得したころ。話を終えた館長が野次馬丸出しの文士たちに伝えるには、本日の業務終了。そして、このお嬢さんは文豪たちや司書としての記憶その他もろもろすべてさっぱり忘れたが、間違いなく特務司書その人であるから、彼女の住まいでもある図書館においておくしかないとのこと。ちなみに館長は多忙の身である、心配そうな顔をしてはいたが、ネコに急かされて図書館を去っていった。
 したがって残されたのは、あどけない無表情をさらす子どもと、休日となった男たち。面倒なことになったぞ、と誰かのため息が重く響いた。



 最初こそ、知らぬ子どもの相手なんてと身構えた文士も、子どもなんて転生してこっち遊んでないと喜ぶ文士もいたが。司書は子どもになっても司書だった、つまり、子どもらしいかわいさのない子どもだった。そのかわいくなさときたら、人語を解するネコのようだと誰かがいった。
 館長によると、肉体が退行して精神も引き摺られただけで、そのうちもとに戻るだろう、と。子どもなんだからあまり怖がらせるなよ、と念を押していたが、その心配は無用だったかもしれない。
 大人しく椅子に座る子どもの顔には見知らぬ場所や人々に対する恐れも興味もなく、無表情で学術書を開いている。興味津々で話しかけた男もいたが、普段の司書よりもさらに薄い反応の少女に興味が薄れ、この子どもは放っておいても然程問題なさそうであると判断し、結局は珍しく揃っての一日休暇を楽しむことにシフトした。転生してから異なる世界に興味をもって外に出掛ける文士は多い。昼間から飲みに出る者、新しい刺激を受けて創作に励む者、小旅行に赴く者と各々好きに過ごし始めた。

 その日一日助手を勤める予定だった新美も、任から解放され、悪戯でも仕掛けようかと考えていた。庭に蛇の玩具をおくのはどうだろう、釣りざおでちょっと動かして……と考えて、外の景色を見て肩を落とした。雲行きが怪しい、新美の鼻を掠めたのは雨の匂いだった。それもひどそうな雨。
 朝から気分が上がらなかったのは、このせいかもしれない。彼は雨が、正確に言えば、雷が苦手だった。目を眩ませる稲妻と、心の臓をとめる雷鳴が。思うだけでぞわぞわする。
 そして彼が苦手なものをもうひとつあげるなら。気分が落ち込む原因だと思っていたそれは、特務司書である。



 新美は文豪・新美南吉の転生した身である。本の中で眠っていた魂を揺り起こされ、身体を与えられた。未だはっきりとすべてを思い出せない新美に、文学が何者かによって穢され消えてしまう対抗策として、協力が必要なのだと説明したのは、うら若い女の人。特務司書の肩書きを携えた彼女の表情は何となく、無機質に感じられて。じいっと観察するように彼女の目を見ても、どこか温度の感じない、冷たい目だった。
 彼女が信頼に足る人物か、好ましいと思えるか。己より先に来ていた文士たちに聞いても、濁すような回答ばかり。実のところよく知らないのだと、最初に転生した男は言う。彼女は仕事を真面目にこなすが、それ以外では文士と積極的に関わろうとはしなかった。食事や外出に彼女を誘っても仕事があるからとすげなく断られ続け、次第に仕事以外で関わる気がないのだと知れた。文士たちの方も潜書や執筆、かつての同士との交流に明け暮れて、頑なな司書にかまける暇などない。
 こうして同じ図書館内にいても疎遠である特務司書に関わるのは、潜書報告や指名制の助手のときくらいであった。遠くから見ていると、司書はまるで動いているのが不思議に思えるくらい、人間のようには見えない。助手になったときに見る、司書室で細々と書類を書き込んでいるときなど、手元さえ見なければ人形のようだった。
 作りが特段美しいわけではない。ただ、息づかいが感じられない。肌色が悪いわけでもないが、生命を感じ取れないのだ、表情にしても声にしても。一度そのお面が取れるところを見たいと悪戯を──クラッカーを放っても、一言、危ないですよ、と平淡な声で言うだけだった。ごめんなさい、としおらしく謝ってみても、いいえ、と気にもしていないようだった。そのあとも態度は変わらず、しかしたまにだった助手がよく回ってくるようになったのは、時折突き刺す視線からして、監視を含めているのだろう。
 そういうわけで、新美は彼女が苦手であった。特に助手を勤めるときは、どうしてもそばにいないといけないから尚のこと。ちょっと引け目を感じているから、恐く見えるのだろうけど。嫌だなと思う憂鬱がもやもやと己から外に出て、空に暗雲を垂れ込めさせているようだった。今日の天気みたいに。

 せっかくの休みなのに雨とはついていないと思ったが、それなら館内にいればよい。幸い、図書館は壁が厚いのか、あまり雷の音が恐くなかった。書庫でご本でも借りて読もう。そう思い立って新美が向かった書庫の窓の外は、真夏の昼前だというのにうす暗く、夜が風呂敷のような影をひろげて図書館を包みにやってきたようだった。



 真昼のような瞬きと、どオん、と大きく地が揺れて。
「わアッ」
 その音にびくりと身体を揺らした拍子に、ばさばさと積み上げていた本が崩れて降ってきたが、それどころではない。何事かと本の海から抜け出して辺りを見回すと、雨粒が窓を揺らして、真っ暗闇だった。集中していて気づかなかったが、夏の嵐がそばまで来ていたのだ。
 こわい、かみなりさまだ。でも、どうして? いつもよりとっても、とっても大きく聞こえた。地獄の釜でも開いたかのような音だった。もしかして、すぐちかくにいるのかも。胸がどっどと逸って、背筋を汗が冷たくなぞる。夏に似合わない毛糸の帽子や、頁をめくるのにやりづらい手袋を外していたから、とても寒く感じた。恐怖でいっぱいで動けないが、頭では逃げなくちゃと思った。そうだ、何処か、音の聞こえないところに。
 床に散らばった本や手袋を抱えて、傍に置いていた帽子をかぶって、ほうぼうの体で立ち上がる。まだ耳元でどくどくと云っていて、脚先は冷たいけれど。
「いこう、ごん」 次の稲妻が落ちる前に動かなきゃ。

 混乱する頭を必死に巡らせる。雷がならない場所。自分の部屋はだめだ、この前の嵐の夜にすごく響いて、恐ろしかった。どこならこんなに怖くないだろう? いつも、僕はどこにいたんだっけ。
 びかっと空が白んで、すぐあとに、がしゃアん、と心臓を縮ませる音。ひっと声が漏れて、脚を引っ掻けて転んでしまう。持っていた絵本がばらばらと、床にかなしく散らばった。そしてまた、ごろごろと獰猛な獣のうなり声がする。 なけなしの勇気がぷすりとしぼんでしまって、擦りむいた膝は投げ出して。
 獣が吠えた。つむった目の先で、部屋が翳る。停電だ、図書館の明かりが落ちたのだ。外はざアざアと大きな雨粒がガラスを叩いていて、部屋はどんどん寒く、暗くなっていく。

 雨はいつかにやむことも、雷が鎮まることも、経験として知っている。それまで耐えればいいことも、わかっている。だけど、こんなにおそろしくて、つめたくて、さみしいから。物語に独りかなしく取り残されて、忘れられ、終わってしまいそう。
 ──こわいよ、ごん。
 ぎゅっと抱きしめたごんは少しだけ慰めてくれる。でも。
 かなしいよ、だれかたすけて。


「今晩は」
 寒々としていた彼のもとに、どこか場違いな言葉が降ってきた。まるで彼の心の声に喚ばれたかのようなタイミングでの挨拶に、一瞬雷のことも忘れて、え、と顔をあげた少年は、声の主を見た。「……こ、今晩は」
 それはお嬢さんだった、今朝がた何故か小さい子どもになってしまった司書だ。闇に溶ける図書館のなか、小さな子どもの手で、花のように明かるいランプを掲げている。ガラス越しの光のもと、きらきらと瞬いて、何となくなつかしかった。
「なんで、ここに」 彼はランプの光がまばゆかったので、めんくらって、ぽつっと呟いてしまっていた。
「本を読み終えたので戻しにきました」 ランプを持たぬ方の手には、昼間に開いていた書物があった。ああ、と彼は納得すると同時に、少し落胆した。しかし、望んだものではなかった偶然だとしても、ごんとふたりで恐怖に震えるよりも幾分よいだろうとも思った。

「どうして、泣いているのです」
 じいっとまっすぐに、光をさした瞳で、お嬢さんが聞く。彼の目尻の涙をとらえていた。声は覚えのある司書よりずいぶん高いのに、調子はやっぱり無愛想な彼女そのものだ。だけどもいつもより親しみを感じたのは、彼女が子どもの見目だからか、何よりおそろしい雷さまがいるからか、淋しい中にランプが灯ったからか。全部かもしれなかった。
「かみなりが、こわくて」
 するりと出た言葉は一寸濡れていた。落ち着き払ったお嬢さんに言うのは恥ずかしかったけど、そんなことよりもがらがら鳴っている音と、明かりを断つ光が恐かった。
「雷がこわい、ですか」
「うん、……音が」 少しばつが悪くなって、付け足すようにこぼす。「音がね、大きくて。狼がとっても怒ってて、食べられてしまいそうだから」
「……そうですか」 お嬢さんはそれきり黙ってしまって、雨の音が反響していた。
 彼は言ったことを後悔し始めていた。こわくてさみしくて助けてほしいと、見つけてくれてよかったと思ったけれど、このお嬢さんが来ても、心細いことはかわりなかった。聞くだけ聞いて、わからない、興味がないと言われているようだったから、悲しさはいっそう増していく。裸の手で抱いたごんに顔をうずめても、胸はしくしくと痛んだまま。
 ちょうどその時、ぴしゃりと光って、ランプの明かりが白と影に消えた。
「ひう、」 また、咆哮がきこえる。帽子の上から裸の手で、ぎゅっと耳を押さえても、振動は彼を震え上がらせる筈だった。

「あれ?」
 身構えても、狼の怒りは落ちなかった。そして、さっきまで肌が粟立っていたのに、寒くなくなっていた。もしや雷雲が去ったのか、そんな急なことがあるものか、と恐る恐る目をあけて、見えたのは。
「……わァ!」
 青やかな光がゆらゆらと膜をつくって、彼とその周りを囲っていた。冷たい色をしているのに、じわりと温かい。床を見れば、ランプの明かりがきらきらと反射している中、床の四方に紙が敷かれている。光の天蓋は、4枚の紙を支柱に、彼の身の丈ほどの高さから降りていた。
 薄い光の膜の向こう、図書館のようすは変わらず嵐に巻かれているようだけれど、囲いの内側は雨の地を打つ音も、雷の吠える音も聞こえず、ただランプの花のような明かりが、ガラスを通して青くかがやいていた。
「とってもきれい、竜宮城みたい!」
 おそろしさも、さみしさも、かなしみも忘れて、物語の世界のような美しさに見惚れる。空気の流れに光が揺れて、水中にいるかのようだった。
 新美は、この海の底、ランプのそばに座るお嬢さんに見た、あの子の仕業だろう。内側にいるのは彼とごん、それからお嬢さんだけだったし、その手には本とチョークが握られていたから。きらきらしい垂れ幕の四隅にある、何やら白く図形や文字が描かれている紙が、きっとこの空間を作り出していた。ランプを持ってきた小さな手には白粉が微かについていて、開かれた本は頁が破られた跡がある。
「すごいねぇ、ごん。ちらちらしてるよ」 そう言って、ごんを抱きしめていた手を、水面にたゆたう青に伸ばそうとして。
「あぶないですよ」
 司書が言った。いつかに聞いた、平淡なものだった。
「あ、」 ──彼の脳裡を司書の冷やかな視線が過って、びくりと肩を揺れて。謝らなくちゃと口を衝いて出ようとした、ごめんなさい、が聴き遂げられることはなく。
「きっと、『こわい』、です」 お嬢さんが言った。変化のない、涼やかな声だった。

 雷が恐いといった新美を、不思議そうな顔をしてみていた。音がおそろしいと言ったから、聞こえないような細工をした。その細工に触れようとした新美に、危ないのだと、『こわい』からと忠告した。
 このお嬢さんは確かに司書なんだろう。無愛想で、温度のない女の人。そして、雷雨の日ばかり、僕を助手にして司書室でお仕事させる人。

 雷が降るとき、いつもいた場所。彼の私室でも図書館でも雷は彼を脅かすけれど、助手として司書のとなりにいたとき、雷鳴に怯えたことはなかった。
 助手になると常に天気が悪いのは、新美の心が空に写ったのではなくて、わざと雷の日を選んでいたんじゃあないか? 新美が、雷にふるえないように。

 思えば、司書にした悪戯だって。初めて手にした、音の鳴る華やかな玩具だと、おめでたい時や嬉しい時に鳴らすのだと聞いたクラッカーを、司書に向けて糸を引いた。その音に誰より驚いたのは新美だった、雷が落ちたかと思ったのだ。びっくりして腰を抜かした新美に、危ないですよと云ったのは、悪戯を咎めるよりも、新美の身を案じての言葉だったのかもしれない。
 苦手だと、恐いと思っていた司書は、数少ない交わした言葉を反芻してみれば、温度こそないもののきちんとなにがしか返事はあったし。射るような視線は、こちらをつぶさに観察していたものだったのではないか。怪我はしないか、怖がってはいないかと、心配していたのではないだろうか。

 じわじわと、かなしかった胸が暖まっていくようだった。人形のように思えた彼女は、このランプの青やかな光のような、いい暖い手袋のような、こころをくれたから。
 一度そう思ってしまえば、もう、ちっとも恐くなかった。


 司書さん、そう呼び掛けてようとして、ちょっと考えて、言い換えて。司書の名前を呼んだ。「──スバルちゃん」
 教えてもらっていたけれど初めて口にした名は、ランプの明かりみたいにゆらゆらと彼のこころを心地よくくすぐる。
「はい」 行儀の良い返事が返ってきて、彼はそれだけで嬉しく思った。
「これ、きれいだねぇ。どうなってるの?」
「錬成陣で囲った部分──四隅に固定した紙に、温度を変える式を組み込んでいます」
「温度を? どうして?」
「温度の違う層を置くことで、音が屈折し、この空間の外側に音が逃げるようにしています」
「へえぇ、すごい! 青い光がきらきらしてるのは?」
「上方蜃気楼です。温度の違う層を重ねているので、ランプの明かりが全反射して目に写ります」
「蜃気楼! ぼく、初めて見たなぁ」
 質問に、簡潔な答えが返ってくること。素っ気なくも聞こえるけれど、何を尋ねても返事があることが彼のこころを弾ませた。
「うふふ、やっぱりここは海なんだ。大きなはまぐりが息してるんだもの」

 図書館の一角の海の内側、幻燈の世界みたいに美しくなつかしく見えるそこで。彼はお嬢さんとお喋りをする。楽しそうな声と、落ち着いた声が交わされる。
 司書さんが元に戻ったときに、この記憶があるかどうかわからないけれど。次に司書に会うときには、おんなじように話しかけてみよう。そしたら驚くかな、それともいつもみたいに変わらないかな。でも、きっとあっさりと、どうしたんですかって聞いてくれるだろうから、僕は秘密を知ってるんだよって教えてあげよう。司書さんが僕を助手にする理由を。
 それから、晴れている日も助手をお願いしてみよう。落ち着いて司書さんを観察できるし、お話もいっぱいしたいから。



参考:新美南吉『おじいさんのランプ』/ 『手袋を買いに』 / 『赤とんぼ』ほか


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