02
「そうですね、僕もそう思います。伝え聞いた僕らの人柄よりも、司書さんの目で見た僕らを信じてほしいです」
武者小路は司書の意図を汲んで、親友の言葉をなぞって頷いた。「そう言っていただけると気が楽ですね」 肯定を受けて言いつつ、司書の顔色は明るくならなかった。
風がざざあと木々を揺らして、その池の水を含んだ冷たさに、司書はぶるりと身を震わせた。くしゃみを一つ。未だ八月の折りではあったが、秋の訪れを感じさせる、一段と涼しい日だった。蝉の声はいつのまにやら途絶えていた。
「どうぞ」 武者小路は血色のよくない司書の肩に、自身の羽織を脱いで掛けた。彼女が見つけてきてくれた羽織紐の飾りが、大粒のさくらんぼの双子のように、風に揺れる。
「あ、いえ、そこまでしていただかなくても」 想像した通りに引け目を感じて断ろうとする司書の肩の羽織を押さえて、武者小路はいいえと強く首を振る。
「女性が身体を冷やしてはなりませんし、そんな司書さんを放っておくのは男が廃ります。受け取ってください」
そう微笑めば、司書は「……ありがとうございます」と観念する。武者小路はこうすれば彼女が反論せずに受けとると信じていた。彼女は何だかんだ押しに弱く、そして自分達に弱いのだ。
「悩みごとがあるなら聞きますよ」
武者小路はいつもの力強い、夢を実行する固い意思が込められた声で、彼の羽織に手を添える司書に言った。
彼女は一見愛想の薄い女性だったけれど、その心のうちでは文士たちを強く想っている優しく尊敬に値する女性であることを彼は知っていた。例え自身のことをあまり話さなかろうと、司書として以外に彼らに触れようとしない姿勢であろうと。彼らの話によく耳を投じて、真摯に向き合っている姿は、その下手にあまりあるが彼らを安心させようとする笑顔といい、武者小路は司書のことを快く思っていた。
司書は読書も研究の端としているが、その生活全てが研究であるようだった。武者小路は彼女が趣味に興じている姿を見たことがないし、ましてやこの図書館の敷地から出るのも片手で数えられるほどしか見たことがない。自分だったら気が塞ぐと武者小路は思うが、ただでさえ少ない休日に引きこもる彼女の表情は特に正負もなく、研究にあたっているときの彼女も同様だった。前に同僚の少年が人形のようと評していたけれど、武者小路からしたら人形だって作り手の想いが透けて見えるのだから、遠く及ばないように思えた。
そういう司書だったから、最初のうちは皆遠巻きであったが。関わる内に前述のような司書の人柄を知るようになると、もっと親しくなりたいと思うようになった。吐き出す先の無さそうな、抱え込みがちな彼女の力になりたいとも。
屈託のない笑みながらも、誠実さがかいま見えるのは彼の性質が為せる妙だろう。司書を始めて当初の彼女であれば、きっと謝辞だけ述べて終わっていたが、ついその情熱にあてられて、返そうと思ってしまったか。
「……一度退いた身を我らの都合でその静謐から喚び起こすのは、倫理や道理や摂理、そういう此の世の理から外れた所業であるという声があります。しかし、あなた方の協力なくして文学を侵蝕の手から守る技術を確立できていない現状、その賛否如何に問わず不可避の手段です」
報告書を読み上げるような、感情の伴わない声。常の彼女らしい、事実のみを述べる平淡な声だった。
「それを踏まえ特務司書は術師として、力を貸してくださる皆さんが円滑に職務を行えるよう最大限便宜を図ることが課せられていますが、遂行できているかわかりません。施設や物品等の要望はさておき、精神面における安寧は私の力ではとても及んでいない、及ばないことのように思えます」
一息に言ってから、少しおいて、司書は頭を振った。今の言葉では彼らと向き合うときにあるのは義務のようだと司書は気づいた、それは本意ではない。
「……義務の前に私個人の感情としても。紙上で洋墨と言葉でもって闘い、文学のうちにその痕跡を遺すことを選んだ方々を、戦いの場に引きずり出して、傷付ける武器を作り出し、振るわせること。そして過去さまざまにあった、どうにか折り合いをつけ乗り越えてきたであろう苦しみに、対面を余儀なくさせること。
弁解の余地なく、謝罪の一切でもっても許されず断罪され得るべきことだと思うのです」
先程『恐ろしい』と言ったときよりも更に苦しそうに、しかし掠れることなく司書は言った。断罪を口にしているけれど、その声は裁かれることを望んでいるようには聞こえなかった。裁かれ刑に服することで赦されることを恐れているようであった。何よりも猛省し心苦しく思う一方、許しは請わないのだろう。武者小路には、司書のたじろがない背筋から、そういう司書の心のうちが見えた。
罪の意識を抱いて罪と共に生きること、ただそれを受容し助けを求むることのないのは彼女らしい生き方であるように感ぜられた。武者小路はその生き方を肯とはしないが否もしない。彼ならば選ばない道であるし、彼の描く理想であれば彼女はどんな困難に在っても救われてあってほしいと思う。だが、彼女自身救われないことが救いであるとするなら、自身の否定は彼女を助けない。彼女がこの悩みを話したことこそが、彼女にとって受け入れられるわずかな救済の端だと彼は思った。
しかし、武者小路に1つ言うべきことが、言えることがあるならば。
「人生は楽ではない。そこが面白いとしておく」
詠うように彼は、自身の一節を諳じた。その朗々とした声は風にのって司書に届く。司書は思い詰めて寄っていた眉を開けて、黒の眼で武者小路を見た。
「……苦しいこともあります、骨折ることもある。とても大変です。けれどとても面白いです。
僕は今、司書さんによって二度目の生を享けました。使命は堪えることも、執筆はうまいこといかなかったり、以前に闘った人もいますから、面白いだけではないです。しかし、だからこそ面白いと思います」
武者小路は熱意に溢れた夢を思うような色をその蘇芳に宿して、司書に、人生に苦悩する若輩に微笑む。あなたが思うほど、吾々の二度目の生は、この世界は、悪いものではないのだと想いを込めて。
「苦しいことばかりではありません。
僕らでなければ為せない偉大な使命が在って文学に賭せるのは誇り高いことですし、書きたいことはどんどん溢れてきてじっとしていられない、一人で立っていられないときは肩を貸してくれる仲間もいて、以前に別れた同士とまた言葉を交わして笑い合えることも心が躍ります。
僕は南瓜が好きですが、育てたことはありません。志賀も多分ないです。だから作っちゃおうと思って彼に声を掛けましたし、司書さんも小さな力を貸してくれます。南瓜ができたら題材にして夏目先生や佐藤さん、犀星さんたちを誘って描くのも楽しそうです。有島や里見や木下にもまた会えるでしょう。
そして司書さんと出会えたこと、司書さんが読者になって僕らに向き合うこともまた、素晴らしいことです。とても幸福なことだ。
人生はわかりませんね、わかりきれない。だからこんなに面白い」
武者小路の言葉は、果たして救済ではない。武者小路自身もそのつもりはなかったし、司書もそうは思わなかった。
ただ受容だった。司書の行為を、その懺悔を受け入れることの宣誓だ。そして奮励だった。司書の行為を肯定するものだった。
「……そうですね、人生はわからない。そして、面白いと思います、私も」
相変わらずの下手な笑顔を司書は武者小路に向けて、武者小路は力強く頷いたのだった。
「司書さんは志賀の本を読みましたか」
司書が志賀の推薦で自分の小説を読み、感想を伝えてくれたのは嬉しかったが。同時に彼からの手紙に、機会があれば勧めてくれとあったのを思い出したのだ。
「最近読み初めて、まだ途中です」
「彼の作品も多いので、僕が知らないものかもしれませんが……どれを?」
「『暗夜行路』を」
「嗚呼、なるほど。長編ですから時間も掛かりますね」
やはり既に侵蝕が認められた作品だから選んだのだろうが、武者小路の『お目出度き人』と異なって、普段業務や某かの研究ばかりの彼女が読破するのは容易ではない作品だ。読み始めたのだから最後まで読了するのだろうが、短いものの方が取っつきやすいだろう、何を勧めようかと武者小路が思考を巡らせると、司書は珍しくその横顔に雑談を振った。
「武者小路さんの口から、志賀さんの息災を聞けて良かったです」
「うん? すごく元気ですよ、でも何故?」
「最近あまりお姿を見掛けませんでしたので。自転車を楽しんでいるのでしたら、私としましても嬉しいと思います」
「姿を見ない? うーん」 確かに現在、志賀は新しく手にした自転車を気に入って乗り回していたが、司書が全く会わないというのも変な話だと、彼は一つ可能性を思い付く。
「司書さん、志賀に作品を読み始めたことを伝えましたか?」
「え……」
武者小路の本を勧めてくれた彼だったから、その読了報告もかねて伝えていた。「はい、お伝えしました」
「あー……もしかしたら、それのせいかもしれません」
「どういうことでしょうか」
「志賀ってば、勝手なところあるんですよね」
「勝手」 司書はちょっと繰り返した。
「はい。勝手です」
「勝手、ですか」
「はい。まぁわからなくもないんですけど」 しかつめらしく顔をつくって、武者小路は困ったものだと頷く。「志賀はどうも、読めって言いつつ、自分の作品を眼の前で讚められるのは工合が悪いらしいんです」
「……なるほど」 きっと読み終わればその感想を伝えていただろう司書を想像して納得した。司書は、自身の感想は彼らにとって学の無い者の理解の足らない感想だろうと知りつつ、その小説がいかに自身の心に響いたか、作者に伝えるのが礼儀と捉えている節があった。認識を改めなければならない。
「加えてまだ読みかけだからだと思います。『暗夜行路』は彼自身苦心して書いていたので……」
武者小路は少し昔──過去の生を思い出し、自然と笑みが浮かぶが。司書からしたらそういった志賀の心持ちは兎も角として、会えないことは不安にもなるだろう。
そして感想は苦手だけどと前置きして挑戦した司書の気持ちも考える。
一読者として作者に伝えることは大変だ。先ず読んで、そこに心を動かして。心の熱をどうにか形作って言葉を与えて文に仕上げて、創作者に向けるのだ。緊張もするだろう、勇気もいるだろう、恐怖もあるかもしれない。しかし伝えたいという情熱を糧に声をあげる。
その声は、作者にとって、世に向けてあげた心の叫びが届いた証だ。発表した時点では誰が聞くともわからない、ただ孤独に打ち上げた鬨の咆哮は、誰かの耳に入って、その内の者が心を動かして。声が届くことで作者は初めて叫び声がその人に届いたことを知れるのだ。
作文の難しさも、創作にあたってどれだけ支えになるかも、武者小路は身に染みて知っている。それを司書に伝えたかったし、志賀に憤りも感じた。
「感想は執筆の励みになるものです! 司書さんの感想、嬉しいですし、志賀の態度は看過できません。
僕からも言っておきますね、司書さんが志賀に会いたがっているって」
「え、……ありがとうございます。でも、そんな気になさらなくとも」
「いいえ! せっかくお互いに話せる場所にいるのだから、話さなくってどうするんです」
武者小路は握りこぶしに決意を纏わせ司書に詰め寄り、少し後退った司書が勢いにおされて頷くのを見ると立ち上がる。「では早速」
「え」
「志賀の部屋に行きましょう」
「え? いえ、私は未だ仕事の最中ですし」
「嗚呼、そうでした! では僕は司書さんの終業のころに志賀にいくように伝えにいくことにします」
それでは!と立ち上がった流れで武者小路は、着物の裾を翻し、下駄で地を叩いて颯爽と去っていき。
中庭には彼の羽織と司書が一人。
「志賀さんは外出中では……」
ぽつりと呟かれた言葉は、麗らかな風に吹かれて消えていった。