03
その夕方、終業の鐘を柱時計が鳴らす頃。司書は武者小路に焚き付けられた志賀が司書室まで訪ねてくるかと構えていたが。
「司書さん、どうしたの? お仕事終わったよ」
「ああ、はい。お勤めありがとうございました、新美さん、ごんさん」
「ふふ、頑張りましたよぉ」
本日の助手は労われてもその場から動かなかった。司書がきちんと仕事を切り上げて、司書室を出るのを見届けるつもりのようだ。
「……施錠します」
「うん!」
鍵を取り出した司書に従って、彼も嬉しそうにあとに続いた。司書室の外、廊下の先からわずかににぎやかな声が聞こえてくる。そろそろ夕食を摂る文士たちが食堂に集まる頃合いだった。
「晩ご飯はなんだろうねぇ、ごん」
「今日はお疲れさまでした、ゆっくり休まれてください」 鼻歌を歌う助手に挨拶をして、その場を去ろうとした司書は、くいと何かに引っ掛かって動きを止めた。手袋に覆われた手が司書のブラウスの袖を引いている。白銀の新雪のような髪の隙間から覗くアクアマリンブルーの瞳が、見上げるようにして凝然と司書を観察していた。
「ご飯、一緒に食べないんですか?」
「少し用事があるので、新美さんは是非皆さんと。ありがとうございます」
「そお? じゃあまた今度一緒に食べようね、約束ですよ」
「……はい」
「じゃあスバルさん、ばいばーい!」 司書が首肯すると、花のような笑顔を浮かべ、大きく手を振って走り去っていく。司書も小さく手を振って見送ると、食堂へ向かった新美とは反対の方向、エントランスを目指した。
帝國図書館では出入館記録が詳細に取られている。これは図書館にいる大多数がかつての文豪の転生体であり、実態は限られたものにしか認知されていないからだ。彼らを転生させた錬金術においても同様であり、図書館では司書を始めその錬金術に深く関与するものばかりであるから、隠匿のための管理体制が存在していた。
半日を越える外出では届けを出さねばならないので窮屈に感じるものも多かろうが、どうしても錬金術は秘術であらねば無用の混乱を招く恐れがあるため協力を願い出る形になっている。
司書がその記録を確認すれば、探していた者の名を見ることができた。書き込まれた数字は現時刻から一刻ほど前だった。
もしや未だ帰還していないのではと思っていたが、経過時間からすると話を受けていてもおかしくはない。ただ彼の方は思い付きの勢いがあったから実際に伝えたかもわからないし、伝わったとしてその言葉通りに行動するかもわからない。聞いていないならそれで良いと、そう選んだのだとしても構わなかった。
今までだって職務以外で彼らと関わることの方が珍しかったのだ。休日の彼らを見かけても、彼らの様子を離れて確認するだけで、話すことなど皆無だった。
仕事上での彼は変わりない。現状の生活に楽しみを見つけているらしいことも知れたのであれば、司書として他に何も望むことはない。
彼女は自室に戻ることにした。自室は図書館の敷地に存在する別棟にあって、彼女はそこで衣食住を過ごし、毎朝図書館に出勤している。休日も無論自室で過ごすので、必然的に図書館の敷地から出ることはあまり無い。館長から受けとる手紙には時々その事を咎め、外出を勧める旨があるが、彼女は依然引きこもる日々を送っている。
別棟は奥まったところにあり、エントランスよりも中庭を抜けた方が早い。図書館の中庭は広大で、別棟は庭の端を歩くのが一番近い道であり、常ならばその道を通るのだが。司書は普段そういうものにとんと目を向けないが、文士たちがその自然を感じられる空間を好んでいることを知っていた。
昼間、武者小路と話していた中庭の情景が思い出された。さわさわと揺れる葉の描く木漏れ日や、さざめく池の鏡面に広がる波紋、風の運ぶ草花の微かな香り。そして秋を伴った少々冷たい風や、彼が掛けてくれた羽織の暖かさを。
彼女としては珍しいことに、またその風にあたりたいと思ったから、中央の池周りに寄ることにした。
武者小路は肥料云々を言っていたが、畑予定地はあれから何か動いたりしたのだろうか。まだきっと栽培方法については見地を得られていないだろうが、その性分で取り敢えず触っていることもあるかもしれない。もし本格的に畑仕事に精を出すようであるなら農作業用に衣服や道具を用意するべきだろう、特に先導する彼らの常の服は派閥名に相応しい色だから……。
そんなとりとめのない思考を続けていれば、ちょうど昼頃に武者小路と話していた場所が見えてくる。彼が鯨を飼えると評した池は変わらず澄んだ水をたたえて、暮れ泥む夕焼けを写していた。鮮やかな夏の残滓を纏った橙色は、その内を滑る水鳥が生み出す波で穏やかに揺らいでいる。
ざあ、と一つ大きな風が吹いて、司書は流れ飛ぶ青葉と緋色の中に、一人の影を気づいた。
彼は、沈みつつある夕陽にその身の白皙を染め上げて、池の畔にしゃがんでいた。ちらちらと覗くストールは照らされ、翡翠のような昏さがあったが、元は明るい春の躍動を連想させる若竹色のそれだ。──今日は何かと縁のある、志賀直哉だった。
司書は逡巡した。業務も終了したからには勤務外であるし彼は休日だ、彼と話すことは仕事にあたらない。そして彼はあまり彼女と顔を合わせたがっていないらしいことを考えれば、彼が気づく前にこの場を離れるべきだろうか。だが、池の側で座り込んでいることが気になった。
具合が悪いのかもしれない、それとも単に何か目的あってのことか。もし前者であれば勤務外がどうのとは言っていられない。文豪の体調管理は司書の管轄であったし、苦しいなら早々に手当てをしたい。判別のつかない内に去るのは戸惑われた。
そうこうしているうちに、男の広い背が大きく、池の方に傾いた。
司書は持っていた書類や鞄を投げ出して、その背の元に駆け寄る。「志賀さん!」
「うぉっ!? なんだ!?」
切羽詰まった声で突然名を呼ばれた男は、驚いて身体を起こして振り返り、声の主を認めて更に吃驚した。「は、あんた、どうしたんだ。そんな慌てて……」
その顔は逆光で陰っていたがただ驚愕の色ばかりで、どこか疲労の色はあるものの、心神耗弱の兆しは無いように見えた。早とちりだろうか、見間違いだったか。しかし万が一もあってはならない、と司書は彼に向かい合う。
「志賀さん、先程しゃがみこんでいらっしゃいましたね」
「あ、嗚呼」 彼女の纏う雰囲気が潜書報告時の司書だったから、志賀は驚愕を引き摺りつつも素直に頷く。「アヒルに手を伸ばそうとしていた」
「……アヒル、ですか?」
「おう、ここによくいるだろ?」 つい、と形のいい指を池に向ける。そこには大きな波紋が広がっていた。「さっきのは飛んでいっちまったようだが」
志賀の言葉に司書は、最初に見た池の鳥は消えて、大声を出したときに飛び立つ羽音と過る姿とがあったことに気づく。
「ああ……。申し訳ありませんでした」
司書は勘違いだったことと彼の邪魔をしたことを悟って、何より彼を驚かせてしまったことを後悔した。
その様子に志賀は目を瞬かせた。驚きこそしたが司書の大声なぞそう聞けるものでもなく、かと思えば反省して深く謝罪する姿の何と忙しないことか。彼女は言わなかったが、その慌て振りと質問からきっと池に落ちるかと心配されたのだろうと志賀は類推する。まったく心配性な司書だ、と苦く笑うがそのこそばゆさは嫌いではなかった。
「気にしないさ、アヒルならまた来るだろ。というかあれ、図書館で飼っているのか?」
「いえ、記録にはない筈ですが……。どこかから逃げ出したにしても、近くに農場はありませんし」
「アヒルにしてはよく飛べるヤツだもんなぁ、野生化したのかもな」
アヒルは漢字では家鴨、英語ではdomestic duckというように、マガモが家禽化されたものだ。飛行には適していない小さな翼は、主に食用として品種改良された証左である。
ふと、彼女は彼のいう『手を伸ばそうとしていた』行為は、ただの愛玩か、彼の得意とするところの食材の用意か、二つの可能性に行き着いたが。図書館の備品に属さない野良アヒルを可愛がるにせよ料理するにせよ、それは彼らに認められるべき自由の範疇かと思い、口に出すことはなかった。愛らしいペットと美味しい料理、彼らはどちらが好きなのだろうか。
もし他所のペットであれば迷子届か何か知らせがある筈だ、アヒルが彼に捕まる前に一応調べておこう、と脳内のタスクリストの一番上、南瓜の種の手配と並んで書き足した。
普段の無表情にも見える神妙な面持ちをした司書の横で、志賀は手を首の後ろにやる。彼は司書に相対してすこし気まずさを抱えていた。親友の口から司書の話を聞いたからだ。
志賀が休日の小旅行も兼ねた武者小路の遣いから帰還し、肥料を置いて先ず親友の部屋を訪ねたが会えず。仕方なしに私室に戻ると、何故か親友の姿があった。我が物顔で書斎を使用し、原稿をばらばらに広げているのは相変わらずの光景だった。ため息と帰宅を告げれば、執筆に没頭していた親友は勢いよく顔をあげて「おかえり!」と言った。力がみなぎっていた。志賀は疲れていた。
元気な武者小路は、そのまま「僕はちょっとおこっているよ」と言った。ちょっとかぁ。さて何をしたろうか、覚えがなかった。
「志賀、僕は君のことを大切な親友と思うし尊敬している。だが、君は勝手な男だ」 あげて落としてきた。勝手だと。志賀は出掛ける前は整頓されていた部屋を見た。散乱した原稿用紙が床を白くしていた。
「まさかなんとも思っていないということはないだろうね。僕らの司書さんのことだよ」 ようやく話が見えてきた。顔を苦く歪めた志賀に武者小路が気づかないわけはない。「自覚があるようだね、彼女も気づいていた。君を案じていた」
「おう」
「君の葛藤はわからないでもないが、彼女からしたら謂われなく避けられもすれば心配にもなる。ただでさえ僕らをよく気に掛ける人なんだから」
「……おう」
「彼女は君が日々を息災に過ごしていると聞いて安堵していたし、ならよいと言ったけれど、僕はそうは思わない。君もそうだろう」
「…………ああ」
「じゃあ志賀は今から彼女のもとに行くね?」
「はっ?」
「君が彼女と話を終えるまで、僕はここで待っているから」
武者小路は疲労の滲んだ志賀の背をぐいぐいとおしやって部屋から退けると、「応援してるよ」とエールを送って扉を閉めた。がちゃっと鍵の落ちる音。自室から閉め出された。「おいおい……」 彼の溜め息は重厚な扉に跳ね返って、一人の廊下に落ちた。
その後、時計を確認すれば業務終了までは幾ばくかあったため、時間をどこかで潰さなければならなくなり。談話室の喧騒は遠慮したかった、そんな気分ではなかった。中庭からならいずれ別棟に向かう司書を見掛けられるだろうと思い、そこで待つことにした。
果たして思惑通り司書に会えた。司書の方から飛び込んできたが、結果としては同じことだ。想像していた気まずさもしっかり伴っている、無論彼だけが感じていることも理解している。
アヒルの話は正直どうでもよかったが、滞りなく彼女と雑談を興じられるのは嬉しくもあった。しかしこのままでは良くないこともわかっていた。特に親友が待ち受ける自室とか。あいつ自分の原稿揃えねぇからなぁ、俺が揃える羽目になるんだ。いやそれは今大事ではない。
「あー……、その」
「? 何でしょうか」
打って変わって言い淀む志賀に、司書は水面に揺れる夕空にやっていた視線を彼に戻す。
彼は西陽にあたって真白のカンバスを明々とさせていた。宵闇でも変わらず輝きを放つイブニングエメラルドの瞳で、彼女の黒曜石を射抜く。
「すまなかった、避けたりして」
「……ああ、はい。大丈夫ですよ、気にしていませんから」
「俺が気にする。悪かった。……気恥ずかしくてな」
彼は作者として、自身の小説にそれぞれ思うところはあった。これは愛着があるとか、あれは試みがうまくいったとか、それは苦労したとか。そして、『暗夜行路』は彼の最初にして最後の長篇である。完成までに長年を要したし、出来映えについてはある程度満足していた。後篇は前篇から時を空けて仕上げたもので、主人公の時任謙作は彼であって彼ではないが。前篇は前作『時任謙作』を多く残し、『時任謙作』は志賀自身であった。まだ若い頃の志賀直哉の色の濃いそれを司書が読み、感想を眼の前で述べられるのは、小説の神様であっても座りが悪かった。
「武者小路さんからお聞きしました、直接作物に好意を示されるのが不得手であると」
武者め、ばらしやがったな。事実であったが、避けた相手の口から客観的に指摘されると少し反発したくもなった。それと感想を全く聞きたくないわけでもなかった。頭の中の親友が「そういうところが勝手だ」と言う、うるせえ。
「ですので」 志賀が頭を振って武者小路を追い出している中、彼女が口を開いた。「手紙を」
「あー、なんだ。感想は聞けるなら──ん? 手紙?」 彼女の言葉を遮ろうと纏まらない内に出した考えは、予想外の単語を拾って止まる。
「はい」 唖然と眼を見開く彼に頷いて、彼女は続ける。「眼の前でない、手紙ならよろしいでしょうか」
文士同士が館内での文通を行っていることは司書も知っている。彼らが以前に生きた時代には電話などすぐ相手に繋がる連絡手段は親しみの無いものが多く、専ら手紙でのやり取りだったのだ。彼らはその、言葉や文が文字として人の手と墨で紡がれる手紙を好んでいることも知っていた。
彼女は生まれた時代もあって、手紙はあまり書いたことがない。文字だって人に見せるように書くことは多くない。しかし彼らの好む手紙であるなら、非効率であろうと或いはと思ったのだ。
「……手紙をくれるのか?」
彼女のその提案を、至るまでの思考を、かつて文壇に君臨し、人間の感情の動きを捉えて描き出してきた彼は。
「もしお嫌でなければ」
「ハハ、嫌なものかよ。
ありがとうな、待ってる」
くしゃりと破顔して、受け入れたのだった。
彼女は志賀の表情の変遷を見て、ああと自身が安堵するのを感じていた。彼はよく『小説の神様』だと口にする、事実そう呼ばれてきた。しかし神様という言葉は、遠く感じるのだ。その言葉でかためていけば、彼は正しく神様になるだろう。その声に応えようとするかもしれない。
それは恐ろしかった。『お目出度き人』や『友情』を読んで感じた恐ろしさだ。司書は彼を理想化したくない、物語の中であれば理想化された彼女たちは主人公の前から姿を消すが、この図書館で彼が姿を失うとしたら。──絶筆に他ならない。
一度死した先人を後の都合で喚び起こして、そのまま後の都合で殺すことなど絶対に阻止しなければならないことだ。特務司書は文学を守ることが仕事だ、彼らを守れずして文学を守れるべくもない。
だから、彼が気恥ずかしいといったその感情が人間らしいもので。一人の青年らしい感情を見せた彼に、安心したのだ。彼を神様に仕立てあげてはいない、一人の人間として認識できていると。
『お互いに話せる場所にいるのだから』
武者小路の言葉が甦る。
彼女と彼らは今、かつての生まれも育ちも、死さえ越えて、一時に共に存在している。彼が『大きな力』と例えた錬金術によって。後にも先にも無い、この緊急下だからこそだ。
話さなければ司書は恐れを抱いたまま、その遠い距離で彼を神様にしていたかもしれない。しかし言葉を交わしたから、彼の感情を、言葉を、肌で感じられた。志賀直哉という文豪であり、その転生した一人の青年である彼を。
斜陽の中で燦めくペリドットに朱を射して、柔らかに笑む彼を。
そうだ、私は。
彼女の中で唐突に奔流が起こる。いや、もとより彼女の心にあった流れが、徐々に徐々に川縁を削っていて、今この時、決壊した。
私は、彼を、彼らを守りたいと特務司書に成った。でもそうだ、きっと愛だ。私は彼らを、彼らの人間としての部分を愛したいのだ。愛したいから守りたいのだ。彼らを文豪だけではなく、その転生した姿として、私の手で巻き込んで戦いの場に送り出す彼らを。そして、他人の心に智く、ただの司書に心を砕く心優しい彼らを。彼らの持つ人の心を。
その自覚は大きな力でもって彼女の中を駆け抜け、処理しきれないエネルギーがぐうともたげて彼女の頭に昇る。どうしようもなく集まった熱が涙腺を緩めようとする。それをこうにか強い意志で抑えつけて、いつものような笑顔を作った。眉に力のはいった、ぎこちない、へたな笑みだ。
手紙を、私の声を、愛したいという想いの発露を受け取ることを選んでくれて。
「──ありがとうございます、志賀さん」
声は掠れていた。
翌日、司書が普段の荷物とは別に紙袋を持って出勤すると、ちょうど待ち構えていたらしい武者小路が彼女を出迎えた。
「おはようございます! 司書さん!」 司書は彼が昨日の風で体調を崩してやいないかと案じていたが、今日も元気である。大変良いことだ。
「はい、おはようございます。昨日はありがとうございました、羽織をお借りしたままで申し訳ありません」
そう言って司書は手にしていた紙袋を彼の前に差し出した。「アイロン掛けだけですが。それと南瓜についての本です」
「もうですか! ありがとうございます」
「種子の方は未だ……ご希望の品種があればそちらで手配してみますが」
「むむ? その辺りは……志賀と相談します、料理するのは彼ですし」 武者小路は親友の名前を出してから、はっとした。司書の紙袋で一瞬飛んだが、彼が司書を待っていたのは羽織でも南瓜でもなく、彼女と志賀とのことだった。「司書さん!」
「? はい、何でしょうか」
彼の声はホールによく響いたが、司書は平静な声で答える。
「僕にもお手紙ください!」
「……はい?」
紙袋を手に、武者小路はずずいと司書に顔を寄せた。その近さに司書は少し仰け反り、武者小路はすぐそれに気づいて、咳払いを一つ。元の位置に戻って、彼女からした突然だろうお願いを説明する。
「志賀から聞きました、無事に話せたようで何よりです」
「ああ、はい。武者小路さんのお陰です」
「いえ、僕ではなく志賀とあなたの意思あってのことです。僕も本当に嬉しく思います」 言ってから、ふっと息を吸い込み気合いをいれる。「それでですね。司書さんは……彼に感想を綴ったお手紙を送るとか」
「そういう話になりましたね」 事も無げに彼女は頷いた。「手紙なんて改めて書くことは多くないですから、文字は綺麗ではないし拙文ですが」
「そんなこと!」 また大きな声は反響して更に大きくなって彼に降ってきたため、武者小路は慌てて改める。
「そんなことはないです。何よりもその手紙という形、あなたが考えてその手で綴った文字を前にして、歓喜より他があるものか。是非彼にその心を伝えてください、彼は絶対に喜ぶはずです」
トーンを落として、司書のその杞憂を飛ばすように彼は笑顔を向けた。その気持ちと言葉に嘘はなかったが。志賀の口から経緯を聞いたとき、和解を喜ぶと同時に沸き上がった感情がある。
「それで、お願いがあって。
……僕も、あなたの心がほしいのです」
彼は親友が手紙を受けとるときいて、羨ましいと思った。自分も彼女が心を込めた手紙が欲しいと思った。自分を見上げる、見開かれた黒曜石の瞳が何を写し、何を想うのかを知りたいと思った。
「あなたが選んだ文字を、文を読みたい。感想を直接いってくれることはとても嬉しかったです。これからも機会があれば同じように話してくれたらとても嬉しい。
そしてそれとは別に、あなたからの手紙が欲しいんです。僕は未だあなたのことをあまり知らないから、あなたが過ごす日々の、そこに惹起するあなたの心を知りたい。あなたが選んだ言葉で、教えてほしい。
僕も書きます、あなたがくれた僕の世界について、僕について。あなたに知ってほしいんです」
彼は二度目の生を、世界を、この衝動を、愛していた。それを与えた彼女ごと引っ括めて。
わかりましたと頷く彼女のその返事が、やはり嬉しくて、愛しくて、武者小路はこの世界を変わらず美しいと思えた。