巣食 われたのは
※ほのぼのではありません
「平気、ちょっとお休みするだけだよ」
洋墨とエタノール、窓際に飾られた花の蜜、それから少しだけ歯車を回すグリースの匂いが混ざりあって、この医務室の匂いを作り出していた。カーテンに囲われて断絶された向こう、寝台に消えた少年の姿と、彼の持つ本を思い浮かべて、ふ、と息をつく。
先程補修のために触れた彼の本はひどく損傷し、修復にかかる時間は一刻半ほどを示していた。補修にかかる前には大丈夫といったものの。潜書から戻ってきたときの彼は虚ろな瞳で小さく謝って、大好きなはずの悪戯ももうしないと言う幼い姿は痛々しかった。
補修の時間は苦手だ。心身を削って戦う彼らは、消耗すると常の彼らを瓦解させ、弱々しく、または激する様子を見せる。取り乱した姿は彼らにとってただの仕事相手である私に見られたいものではないだろうに、彼らは弱味を司書に見せざるを得ない。彼らと向き合うとき、私はその動揺を悟られないように、心を無に、害にだけはならないよう努めているのだけれど。
特に彼──新美南吉はこの図書館のなかでいっとういとけない見目をしているから。例え過去に歳を重ね、私よりも遥かにものを知る大人であろうと、心身耗弱あるいは喪失する様は一際私の心を掻き乱す。そしてこの葛藤が表に出ないよう気を回し、さとい彼らに気づかれないよう祈るのだ。
呻き声が聞こえた。補修は未だ終わらない。
静かにカーテンを開いて、隙間から彼を見る。苦しそうに喘ぐ彼は、きつく閉じられた瞼の裏、夢に魘されているようだった。
その夢から、掬い出してやれれば良いのに。
汗の玉を浮かべた額に張り付いた、つきしろの髪を払いのけながら、私はそう思った。過ぎた願いだとわかっている。
私は医務室の椅子にくたりと横たわる猫のぬいぐるみをどかして腰掛けた。補修中の彼に出来ることなど何もなく、まだ今日の報告書だって仕上げ終わっていない。こうして彼を眺めても、何にも成りはしないこともわかっていた。
ぬいぐるみを抱えて、前脚と顔を持って。やわい綿の塊の口許を、新美の、淡くまろやかな頬に寄せる。そして、そろりと、その肌に合わせた。
「んん……」
新美の薄桃色の唇から漏れ出た声で、は、と我に返った。私は、今、何を。音を立てて椅子から立ち上がる。手にしていたぬいぐるみが寝台の縁にあたって、ぽーんと床に転がった。慌ててそれを拾って椅子に置いてから、カーテンを元の通りに引いて医務室を出た。
どくどくと脈打つ胸と、去り際に見えた穏やかな新美の寝顔を抱えながら。
あそこに長くいてはいけない。私はきっと過ってしまう。
暫く、何もなかったように司書室に戻って、報告書の作成に取り組んだ。司書は有碍書にも有魂書にも潜書できないため、潜書した文豪たちから話を聞いて取りまとめ、簡潔にして上へと報告する。その作業で一番大事なのは彼らの話を聞くことだ。
「そろそろ南吉くんの補修も終わる頃でしょう、お呼びしますか?」
「あ、ああ。そうですね」
助手の江戸川の言葉に頷きかけて、いやと首を振った。「終わったばかりだと辛いから、もう少し」
言い終わる前に、司書室にノックの音が響いた。私は江戸川と目を見合わせて、誰だろうと首を傾げる。江戸川が闊達とした足取りで扉まで寄って、どうぞと重い戸を開けた。「おや、南吉くん。ちょうど君の話をしていたんです」
「乱歩さん、こんにちは。司書さんにお話に来たんです」
「エエ、エエ。頃合いだと思っていました。……お通ししても?」
江戸川が振り返り、私に目配せした。こういう当然な顔をして気配りのできるところが彼の良い、できたところだと思う。
文豪が司書室に訪ねてきたとして、拒む理由などは存在しない。少なくともただの司書なら。私は頷いた。
そろそろと憚るように現れた新美は、所在なさげに、二人掛けのソファーのそばで止まった。窺う彼の顔は、ベッドに埋もれていたときよりも幾分ましだが、常時の無邪気さは隠れてしまっている。
「来てくれてありがとう、南吉くん。まだ具合が悪そうだし、もうちょっと後でもよろしいですよ」
「ううん、だいじょうぶです。けじめをつけなくちゃ」
彼はそう言って、ちら、と江戸川に冬の空のように澄んだ瞳をやった。その視線を受けて、江戸川はモノクルの向こうの目を細め、私を見る。その意図を拾って、私は再度うなずく。「……じゃあ、江戸川さん。少し席をはずしていただいてもよろしいでしょうか」
「承知致しました」
大仰な仕草で恭しく礼をして、助手は退室していく。
「南吉くん、どうぞ座って。今飲み物を用意します」
私は彼をソファーに促してから、隣接する給湯室へと席を立った。補修を終えたばかりの文豪は、精神状態をしばらく引きずることがある。そして各々差はあれど、その様を人に見せるのは忌避する者が多い。江戸川は彼のそういった心情を察したのだ。
彼の波打っているだろう心を落ち着けるため、何か淹れることにした。ただ司書と相対するよりも間に何か緊張を解すものがあった方がよいと思ったし、私自身のためでもあった。
平静な顔をして見せても、彼と顔を合わせるには少し心の準備が必要だった。
出来ることなら助手の江戸川にも同席してほしいというのが正直な感情だ。まだ先程の、雪原に沈む蒼白な顔がちらついている。医務室の残り香を強く纏わせた彼は、私の脈拍を乱すに充分だった。
何を淹れようか、なるべく手間のかかるものがよい、と棚を見ても、精々茶葉とコーヒー豆しかない。紅茶とコーヒーであれば、彼に出すのは紅茶だろうか。いや、コーヒーマシンで淹れるのが一番時間を使うか。給湯室にあるミルクも沸かして、ラテアートっぽく凝れば無心になれそうだし、彼も喜ぶかもしれない。
ひらめくと名案に思えて、早速取りかかった。時間がかかる方がよいが、不自然に思われることは避けたかった。そのバランスが難しい。
口の広いカップにマシンで淹れたコーヒーを注いで、甘く温かいミルクを慎重に揺らしながら作り上げてゆく。特別心得があるわけではないから上手とは言えないが、雑念を払うにはちょうどよかった。
時間にして5分ほどだろうか。彼はソファーに腰掛けて、ごんと呼ぶ小狐のぬいぐるみを弄りながら待っていた。
「お待たせしました、カフェラテです。苦かったらお砂糖をいれてね」
「わあ、ごんだ!」
「そう見える? よかった」
描いたのはひとつに基本的なラテアートであるハート、もうひとつにハートを描く過程に手を加えたきつねだ。少し不格好ながらも、伝わったなら良い。嬉しそうに歓声をあげた新美に微笑んだ。
きっと大丈夫だ、大丈夫であらねばならぬと思いながら。
コーヒーとミルク、そして砂糖の甘い香りを合間に挟んだ司書室。時折暗い顔で顔もとにごんを抱き寄せながらも、新美はぽつぽつと潜書中の話を続ける。私もしばしば相槌を打って状況を詳細に、かつ簡素に組み換えて、紙に報告を記入していった。
「──うん、それで終わり。潜書室に戻って、司書さんが医務室に連れていってくれた」
「はい、お疲れさまでした。ご協力ありがとう」
「ううん」
彼はあどけなく笑って、芥子色で包まれた手でカップを器用に持った。最初こそきつねがかわいそう、と手をつけなかったが、崩さないでも飲めることに気づいてからは水位の下がったカップの出来上がりである。残ったきつねは少し歪んでいるが、概ね元の通りだ。
こくり、と音がした。こく、こくり。普段は本で隠れることの多い口許と、丸襟と芥子色のリボンで飾られた首元が、カフェラテを飲むために顕になって。白く細い、まだまっさらな喉が、くっと上下する。
ごくり、と響いた音が思いの外大きくて、あ、と掠れた声が出た。今の嚥下音は、他でもない、私の喉が鳴らしたのだ。そう思うと、食い入るように見ていたことにも気づいて。
ばっと自分の手元に目をやって、己のカフェラテを手に取った。乳白色のアートはエスプレッソの涅色に混ざり、元の形を喪っていた。ましろく無垢だったハートは、淀んだ泥濘に侵され蝕まれ、そして。
ぐいとカップを傾けて、そのいびつな幻想を喉に流し込んだ。舌を刺激する濃厚な苦味が、カフェインが、私を正常に目覚めさせてくれるように、と。
「ふふ」
鈴を転がすようなささやかな声が私の耳朶を打って、急速に現実へと引き戻される。はっといつの間にかつむっていた目を開き、カップを下ろして、音の発信源──真向かいの彼を見る。
新美は芥子の手袋で口を押さえて、くすくすと笑っていた。
なにか、何だろうか。彼は何に笑っているのだろう。
彼は、気づいたのか。まさか。
ざあ、と血の気が引く思いがして、恐々彼を見た。
「司書さん、苦いのきらいなのに」
「え、──」
「そんなに慌てて飲んじゃったら噎せちゃいますよ」
笑みの滲んだ声のまま、彼は私に告げた。朝顔が開くときのような、慎ましやかな微笑だった。
「あ、はは。そうね、心配してくれてありがとう」
私は何を疑ったんだろう。こんなにもいたいけな彼が、“なにか”に気づくはずはない。笑うはずがない。そしてだからこそ、私は過たずにいなければ。
己の思考に反吐が出る思いだった。川底の黒土のような、どろどろと重くねばついた薄暗い欲。こんなものを抱くなんて、本当に、なんて邪悪なのだろう。
私はその胸くそ悪さを、カップと共にソーサーに置いてしまいたかった。洗剤をたっぷりつけたスポンジで擦って、涅色の泡と共に排水溝に流しきってしまいたい。そうして濾過装置で綺麗に浄化されて、海に流れてほしかった。
しかし、胸にじわりと滲んだ邪な欲望は、カップの内側、そのへりを囲う渋のように残っている。そのこともおぞましい。
泉さんのバーナーで炙れば綺麗になるかしら。いや、いっそ彼の武器で切り払ってもらえれば──
頭の片隅で希望のない想像をしていると、その視界にふ、と蔭がさす。なんだろう、と空ろにカップから目を離して顔をあげれば、机の向こうにいた筈の新美がそこにいた。
「スバルさん」
今度はずっとそばで、彼が私の名を呼ぶ。ソファーの横に立つ彼の顔は、座る私よりも高い位置にあった。
「っ!」
「あのね、司書さん」
声が喉に張り付いている内に、彼は一歩近づいた。自然と見上げる形になる彼は、天井を飾る灯りを逆行にして、よく見えない。爛々とした蒼が光を放っていて、惹き込まれるような気がした。
ふ、と何かが肌に触れる。冷たく小さい、常なら手袋に覆われた手だ。
いつの間に外したんだろう。その手は頬の輪郭に沿って、そして口許へたどり着いて。
「──おひげ、ついてるよ」
唇の上を、ひやりとした親指が掠めた。
その感触はくっと肌を薙いで、消えていた視界からすぐ眼前に現れては、ゆっくりと遠ざかってゆく。右手の親指の白い腹には、わずかにエスプレッソの泡がついている。
かぁ、と血が顔に集まるのがわかった。おひげ──髭、泡の髭。慌てて飲み干した邪悪の残骸。それを、彼は穢れなき指で拭ったのだ。
さぞかしおかしかったことだろう。髭をつけたまま、目を白黒させて少年を凝視する女など。きっとその純真さで変なひと、と思ったことだろう。
もう、涙が出そうだった。
どれだけ繕っても、私の心を巣食うのは、到底彼のような少年に向けるべきではない欲だ。彼の伸ばす手、彼の囁く唇、彼の真白い頬。一挙手一投足に、一顰一笑に、心臓は素直に鼓動を速める。苦痛に歪む彼も、ただ暗がりで微笑む彼も、私には妖しく艶やかに見えるのだ。
厭い、忌むべき感情だ。唾棄され打ち棄てられて然るべき感情だ。司書として彼らに接するにはまずあってはならない、彼が新美南吉という大人を疑う少年の風貌であるなら尚更だった。
それでも。私は司書だった。彼らを揺り起こした錬金術師だった。
まだこの感情は明確な言葉になっていない、口にも出ていないなら。そこに救いはあるだろうか。いや、救いがなければ。
隠し通せば良いのだ。言葉にしなければ無いも同然だろう。そうして殺して、亡くせばいい。形を与えなければ、透明なままのはずだ。
どうにか持ち直して、私はにっこりと笑った。ただの羞恥なのだというように。
「本当だ、恥ずかしい。ごめんね、今ティッシュを」
机の上に目をやっても目当てのものはなく、棚ならあるかと探そうとして。
「へーき」
声が降って、立ち上がりかけた脚は縺れ、浮かした腰は再びソファーに沈みこんでいた。
一体、何が。滑った? 転んだ? いや、何かに引っ掛かった。机の脚? 否、もっと柔らかい何かだった。
一度倒れた思考は容易く混乱する。その間にぎしりと軋んだ音がして、鼻を掠めたのは甘い砂糖とほろ苦いエスプレッソに隠れた、洋墨とグリースの匂い。
また鈴が転がった。三度目はずっとずっと近く、すぐ頭の上。目の前には雪を模した白い線がはしる杏色と、長く脚の大半を覆う白地の靴下、隙間に覗く肌。随分と近くで、深雪に潜むうさぎの耳のように見え隠れするその肌は。私の脚を挟んで両側にあって、膝がソファーのクッションにうずもれているのが見えた。
──彼が、ソファーに座る私に膝立ちして、跨がっている。
認識した途端、甘い砂糖菓子を鍋で煮詰めたみたいな、噎せ返るような芳香が鼻を抜けた。狭間の雪白の肌が、誘い込むように蠱惑的に揺れている。
「こんなに近くにいるのに、スバルさんたら。脚ばっかりなの?」
「ひ、」
「スバルさん、ぼくを見て」
ひたり、と冷たい手が。小さな手が、私の右の頬を撫でた。ぞわ、と背筋を駆け抜けたのは、何に対する怖気だったのだろう。
その可愛らしく高い声に、有無を言わさぬ何かを感じ取ったのは、私の抱いた後ろめたさゆえか。おそるおそる、ゆっくりと彼を見上げて、目が合った。蒼く輝く瞳が、じいと私の内を覗き込んだ。
瞳が弧を描いて、少しだけ離れていく。緊張が緩んだ。さらさらと雪の白が動いて、彼の片目を隠す。
広がった視界に、彼の右手が写り込む。先程私の邪悪を掬った親指の腹には、まだそのままこびりついていた。そうだろう、だってティッシュはなかったのだから。
私の視線に気づいたのか、彼の吐息が漏れて、笑ったのがわかる。そして指は宙を滑って、彼の口許へと運ばれる。
ちろりと、雪原に落つ椿みたいな紅が、その泡を舐め取った。
「わぁ、苦い。
スバルさんにはつらくなかった?」
どこまでも純粋な響きなのに、私にはやはりあだっぽく聞こえて、でも、本当に気のせいなのだろうか。
喉はからからとひりついて、まともに発声器の役目を果たさない。くすくす、くすくすと鈴が鳴り続けている。
「ぼくには、あまーいのを淹れてくれたのに。
まるでスバルさんの心を溶かしこんだみたいな、そんなカフェラテ」
「ぁ、な、にを」
「スバルさんてば、かわいいなぁ。
隠せてると思ってるのが、とってもかわいくて──ばかだなぁ」
彼の軽やかな声が耳を打っているのに、意味を理解し得なかった。理解しようとして、出来なかった。だって、そんな、理解してしまったら。
「ぼく、よく言ってるのに。『悪戯』と『人間観察』、好きなんだよ」
「────ッ」
「あは、驚いたぁ?」
そうだ。彼らは、彼は、いかにその見た目が幼く、私よりも若く見えようと。人の心に残るような文を書いて、遺した者たちだ。私よりも遥かに鋭敏な感覚でもって、感情を捉えるに長けた者たちだというのに。
騙し通せるわけがない、騙せるわけがない、最初から。有を無に帰すなど、彼の瞳の前では、毛頭無理な話だったのだ。もっと早くに気づくべきだった、気づけたはずだ。だって私はそもそも、苦いものが苦手なんてことも、伝えたことはなかったのだから!
いつから彼は嗅ぎわけていたのだろう、私の邪な感情を。それを知っていて、彼は私と二人きりになった? 大人を厭う彼が、そう選んだというの? でも、彼は助手に自分から目配せをして──そこで、はたと思考が止まる。
彼は何て言ったのだっけ。部屋に入って、江戸川に挨拶をして。江戸川は了承したように『頃合い』だと言って、確か──
「けじめ、つけなくちゃ」
耳元で囁かれた宣告に、びくりと身体が震えた。声にならない声が、呼吸が、ひゅうと喉をすり抜ける。
けじめ、けじめってなんだ。そんなの、もちろん、私のこの感情を認める以外にあるだろうか。
音が遠ざかる中、彼の声だけが鮮明に響く。
「司書さんって、最初はただ、弱った人の姿を見るのが可愛そうで好きなのかと思ってた。そのなかでも一番小さくって弱そうなぼくが苦しむ姿に、興奮したんでしょう?」
「う、あ」
「司書さんもそれに戸惑ってたよね、初めて抱いた感情だったんだね。でも、今はちょっと違うんだよね?」
「そんな、ちが、わたし」
漏れ出るのは言葉にならない最後の足掻き。みっともなくもただ、認めてしまえば終わりだと、それが怖くて。
子どもみたいにぼやける世界で、彼のスカイブルーだけが燦然と妖艷な色を灯している。青い青い、透き通った怜悧な冬空。うっそりと嗤う彼はもう、幼子の無垢な皮は纏わずに。
「いいんだよ、否定しなくって。
スバルさん、もうぼくのことがすきなんでしょう。苦しむ姿じゃあなくって、ぼく自身が。あまいあまいミルクを注いでしまうくらいに。にがいにがいエスプレッソで飲み下すくらいに。
補修中のぼくに、ねこのぬいぐるみでキスするくらいに」
「──あ、あああ」
「嬉しかったなぁ、でもちょっと残念。ねこじゃなくて司書さんがくれるって期待してたんだ」
陶然とした声が、夢を見ているような声が、耳を通って脳へと至る。その鈴の音は、熱をもった吐息とともに、じわじわと理性を侵し蝕み、そして。
「スバルさんのあまくてにがいカフェラテ、とっても美味しかったよ」
つう、と右頬に添えられた左手が、右手の親指の腹が、肌を擦る。柔く、促すように、ゆっくりと往復する。
ぎしりとソファーが鳴った。背中はクッションに阻まれて、逃げ路など存在しない。
「だからね、また味わいたいな。
──スバルさん、いいかなぁ?」
怪しく光る彼の瞳は、狩るものの瞳。
追い詰められた獲物に出来るのは──亡くすつもりだった感情に言葉を与えて、口にするのみ。
「ぁ、ああ、わたし、あなたに、あなたのこと、すきです」
ぼろぼろとこぼれ落ちる言葉の、剥がれ落ちる仮面の、何とはしたないことか。嗚呼、言ってしまった。ついに過ってしまった。後悔と慙死と諦念と劣情とがない交ぜになった醜いものだ。もう、司書ではいられまい。
その言葉を拾い上げて、ともにこぼれた涙も掬って、彼は──少年の貌を被った、女よりも遥かに年嵩の彼は、ぱくり、と口を開けて。
「ふふ。ぼくもね、スバルさんのことだーいすき」
カフェラテが残る唇に噛み付いた。