秋の夜、魔法をかけて
うだるような熱をひく夏が過ぎた。蝉吟は油蝉よりもつくつくぼうしが耳について、赤とんぼが池の水面に姿を映し出す。いろは楓がまばらに緑から紅へと変わり、イチョウは大きな黄金で道々を色づかせ始める頃になれば、夜長の季節がやって来る。
下草に紛れた藪蘭が花を終えて実をつけ、代わるように蕾を宿した石蕗の陰から聞こえる鈴虫の合唱は、宵を賑やかに深めてゆく。
開けた窓から吹き込む涼やかな風が、束ねていないカーテンをふくらませてはほどいて、肌を撫でる心地好い夜だった。
明日はおやすみだ。窓越しに薄くたなびくレコードのジャズと、遠く誰かの部屋で開かれたどんちゃん騒ぎが混ざりあって、夜の中で独りではないとわかるから、ただ眠るにはもったいない。
何をしようかな。撮り溜めてたドラマを見ようか、積み上がった本を読もうか。慣れない日々に忙殺されて趣味に費やす時間が久しく取れていなかったから、やりたいことは山程あった。でもいざ時間をとれるようになると、選り取り見取で何から手をつけようかと惑ってしまう。
テレビをいたずらにつけて録画を見ようとして、流れたCMをぼおっと魅入って。眩しさに目をすがめて消す。最近届いた画集を手にとって、その緻密さと鮮やかさに閉じた。
どうにも散漫だった。たぶん、目から受け取る情報の多さに頭が疲弊しているのだ。こんなに穏やかな夜なのに。
仕方がない、と椅子から立ち上がる。なにか温かいものを淹れれば休まるだろう。そう思い立って、キッチンへと向かうことにした。
廊下に出るために開いた扉は、ぎい、と金具をたわませた。この音を聴くと寒くなってきたのだなぁと思う。冬になるともっと大きく鳴くのだ、この扉は。しずかの夜には憚るような音で、ずいぶん驚いた。就任したてに与えられた司書室で初めて聞いたのだっけ。
私がこの図書館に就いてから季節はそろそろ一巡りになろうとしている。秋が再びやって来た。
キッチンは小さな常夜灯がついているだけで、しんと静まり返っていた。その間を自然、忍ぶように辿り着く。
緑茶、コーヒー、紅茶、ココア、ハーブティー。帝國図書館の住人は喫食を楽しむ者が多く、それを反映してバラエティー豊かな飲み物が引き出しに揃っている。どれにしようかな、と指を動かしたけど、答えは決まっていた。
ちょっと贅沢なミルクティーが飲みたい。
ティーバッグは手頃だが、じっくりと手間を楽しみたい気分だった。アッサムの缶をとって、小さなホーロー鍋を出す。鍋底は落ち着いた緑色をしていて、内側はやわくすべらかな白。片手で持つのに楽なミルクパンは、たまひさのこういうひとときの相棒だ。
缶の蓋は少し固く閉まっていて、ぱかりと開ければ、顔を近づけなくても茶葉の香りが鼻を擽った。うーん、いい香り。さらさらと缶の中で音を奏でる砕かれた茶葉を、先がまろく広がる銀色のティーキャディスプーンで山盛りに掬えば、気分はぐんと上がってゆく。白いホーローに落とすと、茶葉が跳ね返って軽い音をたてた。
そうだ、確かアップルパイを作ったときのシナモンスティックが残っていたはずだ。ごそごそと調味料をあさって、瓶に入っていたシナモンを取り出す。それを砕いて鍋にいれれば、茶葉から外れて、からんからんと小さく散る。
水をカップ一杯注いで火にかける。最初は強火が良いんだっけ。かちかち、ごおっとコンロが鳴いて、鍋の中の茶葉が命を宿して泳ぎ出す。
ふつふつと鍋が泡立って葉が踊り始めたら、火を少し弱めてワルツに変える。緩やかに茶葉が煮出されて、紅がじわじわ滲んでひろがってゆく。
司書室よりも厚い食堂の壁は、キッチンを先程まで聞こえていた微かな喧騒から切り離す。ここに在るのは紅茶のダンスとかがる焔、私の呼吸だけ。何て久しい時間なんだろう。
図書館に来てから最初の頃は人が少なくて、目が回るように忙しくても、夜は本当に静かだった。
帝國図書館の門を叩いた私を出迎えてくれた館長とネコ、徳田先生。それから、初めて私が喚び出して、応えてくれた中野先生。
館長とネコはここに住んでいるわけではないから、最初の夜は彼らだけ。不安で何となく眠れなくて、抜け出した司書室の扉は大きく鳴いた。
ああ、心臓が軋んだように聞こえたのは、今よりずっとずっと、あの頃が寂しかったからかもしれない。
もうずいぶんと図書館の人たちは増えて、生活音が聞こえない方が珍しい。もったいなくて眠りたくない夜はあっても、漠然とした恐怖に身を苛まれる夜はない。不安も恐怖も私が抱けば、目敏い同僚たちに見抜かれて、話す内にいつのまにやら拭い取られてしまうから。
この図書館の生活は愉しい、毎日は騒がしく淑やかに過ぎてゆく。
だけどたまには静かな夜もいい、私をほぐしてくれる。
──女の子はお砂糖とスパイスとでできてる。
私が作り出す音以外しないキッチンは、気を大きくさせた。つい歌いだしたのは、慰みに灯したテレビで流れたフレーズで。ふんふんと口ずさみながら、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
蒸らし終えたら牛乳をホーローに注ぐ。とろりとまろやかなミルクブラウンがたゆたう鍋をまた火にかける。もうそろそろで出来上がり。
棚からマグカップを取り出した。取って置きのカップは、ミルクパンの外側と同じ、深緑で彩られている。お気に入りの色、あのひとの色。ミルクティーを注ぐのにぴったりだ。
カップに淹れたらホイップをのせてとびきり甘くして、シナモンスティックも添えよう。彼の瞳みたいな色したミントをてっぺんにつけたら、きっととても素敵だ。
想いのように膨らんだ泡が溢れる前に火を止めて、ストレーナーを通してマグカップへ。うん、やっぱり、このマグカップはこの色が一番似合う。立ち上るときめきの匂いが、私の胸を甘く満たして、自然と頬が緩む。
「──楽しそうな歌が聞こえると思ったら、君かぁ」
「どゎっ!?」
耳が、柔らかな彼の声を拾って。驚いて振り向けば想像した通りの姿が、キッチンの入り口、暖簾を美しい手の甲で引っ掛けて持ち上げ、覗くように立っていた。
私の口からついて出た奇声と心臓に、彼は眼鏡の奥の瞳を丸くする。
「ごめん、驚かせてしまったかな」
「だっ……いえ、その、すみません……。過剰な反応をしました……」
は、鼻歌を聞かれたし、何より変な声が出た……。めちゃくちゃ恥ずかしい。
居たたまれなくなって謝罪をすると、ふふ、と笑む声が空気を震わせた。顔に熱が集まるのがわかる、漫画的に言えば真っ赤に染まって湯気が出てるんだろうけど、生憎と現実だから私の顔はそこまで赤くもなっていない。湯気だってカップと鍋からゆらゆらと漂っているだけで。
「何やら良い匂いがするね。ミルクティー、にしては不思議な香りもするなぁ」
すん、と鼻を嗅いで、彼はキッチンへと入ってきた。隣まで来ると、鍋を覗きそのベージュをとらえて、また、くん、と匂いを嗅いだ。
「あ、はい。シナモンを入れているからかな、チャーイみたいな感じです。そうだ、中野先生も飲みますか」
「え、いいのかい」
「勿論です。作りやすい分量の都合上、二杯分になってしまうんですが、一人で飲むにはちょっと多いので」
「嬉しいな、ありがとう」
彼の感謝はいつだって、私の心を優しく触れてくれる。少しくすぐったいような心地で、つい溢れてしまった笑みのまま、棚から彼のマグカップを探す。
「じゃあ、中野先生は食堂で待っててくださいね」
「ここで司書さんを見てるのはいけないかな」
「えーと、うーん。いけませんねぇ」
これからの盛り付け作業を、彼の観察のもとで行うのは大分避けたい。視線が気になってぎこちなくなること請け合いだ。笑みを苦笑に変え、彼の背中に両手を置いてちょっと押す。「おとなしく座っててください、中を見ちゃダメですよ」
背中は案外あっさりと押されてくれて、引き下がった彼が振り向いて言った。「その言い方、まるで鶴の恩返しみたいだね」
「あはは、確かに。暖簾を開けたら飛んでっちゃうから、絶対見ないでくださいね」
「飛んでいかれるのは困るなぁ。わかったよ」
垂れ下がる布の向こうへ消える際、若草色の瞳を柔らかく細めて微笑んだ。そうして暖簾が支えを失ってぱさりと落ちて、食堂の重い椅子をひく音がする。
私は鶴じゃないけど、女の子は誰でも魔法使いに向いてるらしい。
彼の羽織のような焦げ茶色のカップに、濾したミルクティーを注いでゆく。八分目あたりで止めようとして少し過ぎてしまったけれど、私のものより少な目にホイップを落とし、シナモンを振り掛けて、最後に心を込めたまじないを、スプーンに添えて完成だ。
右手に深緑、左手に焦茶のカップを持って彼のもとへ向かう。食堂は一つだけついた淡いオレンジの明かりが落ちて、磨かれたマホガニーのテーブルに反射してきらきらと、手持ち無沙汰に佇む彼を包んでいる。どこか暖かな郷愁を誘う光景だった。
「お待たせしました、どうぞ。口止め料です」
「ああ、ありがとう。……口止め?」
「鼻歌の。内緒にしてくださいね」
「ええ? 歌を聞かせてもらって、飲み物までもらって……役得だね」
「もう、からかわないでください」
ミントの乗っていない方を彼の前に置いて、向かいの席に腰かける。両手をカップに添えて、その温かさを肌で感じながら、泡の狭間から昇る一筋の湯気越しに、彼を見た。
彼のカップは湯気を遮るホイップが少ないから、白い蒸気はカップを傾けた彼の眼鏡や髪にあたる。眼鏡は微かに曇って、目に掛かる長さの前髪はしなやかさを帯びた。
見ていると目に悪く思える柔らかそうな髪は、普段の彼は気にしないひとだったけれど。白く霞む視界は気になったのか、彼の手によってはずされた眼鏡は、机におかれてかちゃりと音をたてる。
「うん、おいしいね……ん? 司書さん、飲まないの?」
「え、あ、飲みますよ」
いつも掛かっているんだか掛かっていないんだか、中途半端に着用されていた眼鏡は外れて。現れた素顔は、年上の男性にいうには間違っているのかもしれないけれど、あどけない。下がる目尻が普段よりもよく見えて、つい見てしまっていた。
彼の声に我に返って、慌てて自分のマグカップを持ち上げる。くるくるとスプーンでかき混ぜれば、白い山の頂上の双葉は回って、ミルクティーが顔を出す。
「君の、かわいいね」
「ん、ミントのことですか? ちょっと添えるとさっぱりして、好きなんです」
「ふぅん、そうなんだ」
柔くすがめられた瞳が殊更優しくて、正面からかち合ったことにまごつき、紛らわすように一口飲む。あまいミルクティー、シナモンのスパイスに隠れて、ミントが薫る。贅沢な味は、だけど彼が微笑んでみているから味わえない。
──惚れたあなたにだけは魔法使いも形無し。
脳裡をちらと流れる女性の歌声。
その通りだ、どれだけ想って、紅茶を淹れたって、彼を前にすれば浮わついてしまう。
司書になってから今日までずっと共にいてくれた彼は、人を観察するのが好きだという。助手としてよく手伝って、助けてくれた彼の瞳には、私の心なんて簡単に紐解かれて、まるはだかにうつっていそうで。今だって精一杯平静を装ってみても、すべて見透かされてしまっているんじゃないかと心臓はどきどきしている。
いやでも、意外と大雑把なところもあるから、気づかれていないんじゃないか。浮き沈みする心を抑えるように一口なめて、彼に気づかれないように窺っても、ばちりと目が合う。
「……中野先生も、ミントいれますか?」
「え? うーん」
じっとこちらを見ていたようだったから、味を知りたいのかと思ったんだけど、違うのだろうか。考えるそぶりを見せた彼は首を振る。「いいや」
「そうですか? あ、一口いります?」
食いしん坊だと自称する、彼の幸せそうな食事風景を見るのが私の密かな楽しみだったから。つい、とカップを寄せると、その行為がどう繋がるか気づく前に。
「いいの? じゃあいただきます」
深緑のマグカップは、リブニットの袖で覆われた白く骨ばった手に浚われる。
「……うん、こっちも美味しいな」
「お、口にあったようで、よかったです」
ぎしっと固まった身体をなんとか動かしてカップを彼の手から受け取る。掠めた指先が身体を一気に暑くした。
ち、小さいことだ。間接キス未満だもの。そう言い聞かせても、鼓動は高まっていく。
正直すぎるでしょう私……別に、初恋って訳でもないのに。というか、恋ですらないかもしれないのに。
この気持ちは、ただ彼が初めての文豪だったから、ずっと頼りない私を支えて、眠れない私を見抜いて、柔らかく微笑んで「おやすみ」と言ってくれたから、温かな帰る場所になってくれたから、覚えた安寧かもしれないと思うのだ。
雛鳥が最初に見たものになつくように、刷り込みのようだと。
ただ、彼の柔らかい笑顔が私の心を解いて、彼の穏やかな声が私を舞い上がらせることも事実で。
中庭で彼が触れる野花を見てはああして触れてもらえたら、とあさましく願いに焦がされているのを思えば、やはり、恋ですらないと惑うのはまやかしだ。
息を軽くついて、マグカップはただ手で包むばかり。意識してしまって、とても飲めない。この動揺は、眼鏡をはずしている彼には悟られていないと願いたい。
「そういえば、中野先生はどうしてキッチンに? お夜食?」
とりとめもなく話をして、ミルクティーの湯気が消える頃、ふと気になったのは彼の元々の予定だった。彼と雑談ができる時間は私にはとても嬉しい誤算だったけれど、きっと彼は何かこの穏やかな夜を過ごす計画があったはず。
「ちがうよ。喉が乾いたなと思って、そうしたら君がいた。魔法使いなんてかわいい歌だね」
「忘れてくださいね、口止め料も飲んだんですから」
「うん? 忘れるのは難しいなぁ」
「ええ……いやまぁ、誰にも言わないならいいか……」
ふふ、とこぼして微笑む彼は、ああもう、なんだって良いかもしれないと思わせるからずるい。大体、かわいいなんて言葉、動揺しないわけがない。しかし彼に予定はないのなら、こうして何気ない会話を続けられることが、ふわふわと私を浮かび上がらせる。
「嬉しいけれど、やっぱり少し恥ずかしいね」
「……ん、何のことです?」
彼のこぼした言葉の意味を図りかねて問い返すと、目尻をわずかに色づかせた彼は深い森の色をした外套の襟を正して、口許を陰らせる。
「ミルクティーと、ミントと、そのマグのこと」
「……な、何のことです……?」
カップを、ひっくり返すかと。
心臓が飛び出るかと、思った。
ぎこちなく繰り返した問いは、情けなく失墜する。
真正面、優しく微笑む彼の前。
私のマグカップは逃げ道などなくそこにある。
「司書さんが知らないというなら、何でもないことかな」
にこ、と笑みを深めた彼は。シナモンスティックでくるりと彼のマグカップの中身をかき混ぜて、素知らぬ顔でカップに口をつける彼は、もう全部お見通しってことなのか。
ミルクティーが好きな理由も、ミントを添えた理由も、マグカップの色の理由も。
私がはぐらかす理由さえも。
私が知らないならなんでもないこと、なんて、私に委ねた言い方をして。
「ず、ずるい……先生、狡いひとです」
「まぁ、僕は君よりずいぶんと大人だから」
肩を竦める彼は、口の端があがっていた。それまでの慈しむような笑みではなく、悪戯めいている。その愉しげな様子にむっと眉をひそめても、彼の笑顔を前に長くは続かない。
私の気持ちはいったり来たり、彼の前では忙しなくて、彼の手のなかで転がされているなら。少しはお返ししなくちゃいけないと、形だけ口を尖らせる。
「……知ってるって言ったら?」
「もしかしたら、と自信はなかったけどね。そうだとしたら僕も、期待をしていたんだ」
カップを置いた彼は、机においた眼鏡を手にとって、苦く笑う。暖かな燈りが彼のミルクティーみたいな髪をてろりと照らしていて、現実でも、幻想でもないと思うような空間だった。
自信はなかったと言う彼の言葉を噛み砕けば、つまり、私は、私の反応こそが自白したことになるってことで。
「っ中野先生、」
「え、」
ほんとにずるい、鎌をかけて、私に委ねてから、自分の気持ちを口にするなんて、狡い大人だ。
立ち上がった拍子に、ガタッと大きく音をたてた椅子を蹴って乗り出して、眼鏡をとった彼の手に指をぎゅっと重ねる。
見開かれた若いミントみたいな色の瞳に反射した私は、必死な顔をしていたけれど。精一杯、魅力的に見えるようなまじないを唱えて。
「知ってるっていったら、何をしてくださるんです、中野さん。
ね、大人なんでしょう」
決死の覚悟の魔法使いは、彼のひろい瞼がまどかけのようにおりて陰る。再び現れたときには、白旗をあげた彼の顔がそっと近づいた。
「……批判のしようがないよ、君の魔法は」
触れる吐息が、秋の夜に隠れて、しめやかに更けてゆく。