02
「あー、準備は終わった?」
「ええ、まぁ。少し出るだけです。詰め込むものなどそうありませんし、挨拶は済ませました」
「……出立前夜にごめん。でも、話をしたかったんだ」
「それはもう聞きましたよ」
「そう、だったね」
ずっと考えてきた言葉は、いざ彼を前にすると、水泡のようにはじけてしまったようだった。呼び止めたときと同じことを言って、宗三が淡白に返すから、私も曖昧に頷く。
どう話そうか、何を伝えたかったんだっけ。彼らの言葉が私のなかに浮かんでは消えてゆく。口を開いては閉じて、阿呆みたいな顔をしているだろうに、宗三は、静かに私を待ってくれている。
嗚呼、この刀は。やっぱり優しいひとだ、かなしいひとだ。きっと私が何を言い出すかわからないのに、覚悟を決めた顔で受け入れるつもりでいる。こんなひとをただ待たせるんだったら、今までとなにも変われてないじゃないか。せめて何か、綺麗な形にはならなくても、口にしなくては。乾いたそれを湿らせるようにして口を開いた。
「……あの。あなたの、修行のことで」
「……はい」
「まず、受け取ってほしいものが、あって」
お守りみたいに手で包んでいた柿を卓上に置いて、文机の棚から取り出した小さな風呂敷包みを、宗三の前にそっと差し出すように広げた。
無地の手拭いの中心にちょこんと座るのは、白い鳩の張り子。
「『修行呼び戻し鳩』です。修行に出たあなたに本丸から送ると、鳩が飛んでいって時空を越えて直ぐに本丸に戻ることができるもの」
修行の終わった宗三を連れてくるのであって、本丸の時間軸で言えば一瞬に思えるだけで、修行の時間が短縮されるわけではないけれど。そう繋いで、宗三を見た。私にはまだ、彼の顔から察することはできない。
「では、これを僕に使ってもいいか、と?」 問う声だって、天下取りの刀と求められたことを話す色と変わらない。
「主である貴方が望むならそうすれば佳い、僕に許可を求めるまでもないことです。刀の言い分など聞いてどうするんですか」
そう語る宗三はいつもの彼のようで、けれど、不動は言ったのだ。宗三は刀としての在り方に諦念がある、と。
私はきっと今までもこうしてなまくらのこころのまま、宗三になにかを諦めさせてきたんだろう。彼らが伝えることを選んだ言葉を額面通りに受け取って、知ったつもりになって、その言葉の裏のこころを認識してこなかった。彼らが向けた、刀の持ち主である私一己へのこころを。それがあったからこそ修行という行動を選び、帰還を選んだのかもしれないのに、そのことを理解し得なかったから、私は彼らの修行も、帰還も、驚きと共に迎えたのだろう。
「宗三さん、私はこれを使うつもりはありません」
彼らの言葉の裏のこころを知れるほど、私は察しがよくないから。知ろうと思うなら、彼の口から伝えてもらえるように、私は言葉を重ねなければならない。
「使わなくて良い、持っていってほしいんです。鳩は帰巣本能があるから、本丸を覚えたこの子はどこに行っても道を示してくれる。
だから、あなたが本丸へ帰れなくなったときは、どうか目印に。……もし宗三さんが修行先で見た景色を選んだときは、この子だけ帰していいから。その旨の手紙を持たせても良い。
宗三さんは刀の言い分なんてっていうけれど、私が審神者でいられるのは、あなたたちが、私のもとに甘んじてくれるからだよ。あなたたちがたくさんのことを教えてくれるから、継ぎ接ぎの形でも続けられたんだ。あなたたちの言い分を取っ払ってしまえば、……なにが残るんだろう」
綻びを繕うように喉を通した言葉たちは、如実に私のうちの空っぽを、空っぽであることの恥を克明にする。
審神者になったのは、確固たる意志があったわけではなかったけれど、自分で選んだことだった。そのくせ何もわからないことばかりで、ぺーぺーの人間を純真に仰ぐ彼らの姿勢が、言葉が、私を主にした。彼らがいたから、慕ってくれたから、導いてくれたから、曲がりなりでも主となれた。いままでの私はただ彼らの向けてくれるものに釦一つ掛け違えたような小さく、しかし確かな違和感を抱きつつも反発もなく、ただ受容していたのだ。
「私は、機微に聡いあなたたちが気遣ってくれて、鈍いままでも赦してくれたから、やってこられた。でも、いつまでもこのままはよくないでしょう。
あなたたちが抱える情には恐らく釣り合わないけど……、少しは返したい。あなたのすべてを理解することは出来ないけど、せめてわかりたいと思う。
だから、宗三さん。あなたが修行に赴くことを選択した理由を、どうか聞かせてほしい」
気にはなっても、彼が選んだならと、すべてを阿っていた。尋ねることもせず、彼が話すべきではないと決めたのだと、そう思っていた。なんて卑怯だろう。私は知りたいと薄く思いながら、知ろうとしてこなかった。彼らの選択に踏み込むことなど出来やしないと、端から諦めていた。そしてきっと、宗三もそうだった。
物憂げに伏せられていることの多い、小夜や不動を見てたまに和らぐ、互い違いの翡翠は、まるく開かれていた。両の瞳に映る私は真摯に見えて、なんだか少し滑稽だ。
「……貴方、興味なさそうにしていたじゃありませんか」
視線を一度下げてから、再び私を覗いて、別にいいんですが、と前置いた。
「僕のことをいつも取り合わない貴方にしては、随分思い切った質問ですね」
「……宗三さんの言うこと、聞かなかったっけ……ん、“いつも”?」
当然私よりも戦場に詳しく近い刀たちのいうことは、極力耳を貸してきたつもりだったが、やっぱり聞き逃して、意味を違えていたのだろう。何を言っても聞いている振りして相手にされないなら、伝えるにも飽いて、諦めるのも詮無いことだ。彼らばかりに甘えていたのだと、痛感する。「……ご、ごめんなさい」、不甲斐なさが口をついた謝罪も、宗三には心の伴わない言葉に聞こえたことだろう、と恐る恐る彼を見れば、どういうわけか、薄らに口角を上げていた。「貴方は本当に、すぐそうやって簡単に、はぐらかされてくれますね」
「……え」
「すみません。貴方が珍しく真面目な顔をしていたから、つい。……まるで一世一代の告白をした、みたいな、勝手な顔」
貴方は取り合わないんじゃなくて、そのままに受け取るでしょう、識っていますよ。低く囁く声音で、柿の香匂う陰に落として微笑んだ。「でもまぁ、貴方が僕に、心から向き合おうとしていることをわかっていて流すのは悪いので」
のでと言うからには、理由を答えてくれるのか。言葉尻を押し開いて、ほっとひとつ、肺の溜まりの息をつく。告白と彼の揶揄した、私の拙いこれまでの後悔とこれからの覚悟の端は、話すに値すると見なされたのだ、とわずかに安堵した。
「貴方に問われれば、話すことは吝かではないんですよ。貴方はまるで僕らをひとの子のようにして接しますが、僕は貴方の刀で、貴方は僕の主です」
大前提として当たり前の事だろうが、改めて言葉にされたのはどうしてだろう。宗三は私が真意を測りかねたことに気付き、一度きりですからね、と付け加える。
「僕の躰も、こころも、僕のすべては貴方のものだ。……何れ時が経ち、そうでなくなるでしょうが、せめてこの一刻は。
……ですから、貴方が僅かでもしりたいと思えば、それがどういう想いから発するものであれ、僕は答えなければなりませんし、貴方に依って僕の行動は制限されるべきです」
持ち主の覚悟なぞあってもなくても、刀はただ主の意思に従うだけだ、と彼は言う。
「ただの刀の身であったころは、そうだったんです。僕の言葉は、届くものではなかった。知覚されないこころなんてないも等しかった。
なのに、今は貴方によって、この躰を与えられてしまった。僕は人間に言葉を伝えられる術を得て……、貴方は貴方のこころなどなしにぼんやりと、僕ら刀の言うことなすこと何でも頷いてしまうし。その癖、刀はそういうものじゃないって言ったって聞きやしない。……質が悪いですよ」
刀の身であった時分は人の世に流され、求められては飾られ、飽いては仕舞われて。多くの人間が価値を見出し継がれたからこそ宿った鋼のこころは、しかし人間の動静を一つ障子の向こうに見るように、永い時の中に置き去りに風化してゆくものだった。時代は変わり、刀は武具より美術品となり、そうして今では、人の身を得て振るうようになった。作り手を同じとする兄弟がいて、かつての同志と部隊を共にし、知らぬ刀とも同じ釜の飯を食べた。言葉は伝わり、主となった人間は将の器には欠くものの、刀たちの言葉を聞いて、人の身として扱う。やっと届く言葉は口からすんなりと正直には出ず、下手に伝わる分、今までなら諦められていたことがいつまでもこころに棘を残して後を引く。練度が上限に達して戦場に出ることも幾分減ると、相対的に増えてゆく懊悩。
「……煩わしくて、面倒で、無ければよかったとも思いました」
でも、と短く吐息と逆接とをついて。
「いつだったか、僕が畑当番をしている折に、貴方、畑に来たでしょう。休憩していいよって、氷の入った、冷たい麦茶を盆にのせて。噎せ返るような肥料と土の匂いに日差しの強い畑の、木陰で飲んだでしょう。畑仕事を手伝おうとして、まあ、特に力になりはしませんでしたけれど。畑に入ってすぐ、空を臨むように高い、玉蜀黍の垣根で迷ってましたよね」
「迷子になったつもりはなかったなぁ」
「僕が見つけたら、おもむろに近くの実を採って、食べたじゃないですか。何かで見たけど採れたてって生でも美味しいらしい、なんて、不確かな記憶に頼って」
「うん、甘かったね」
「まだ早くて硬かったですよ、あれ。匂いこそ立派なものでしたが。思い付きで走らないでください。
それから、厩を汗にまみれながら藁を掻き出して掃除してれば、覗きに来て、風呂が沸いたと言いに来るじゃないですか。貴方、馬に嫌われてるのに。来ないでください、蹴られますよ」
「嫌われてるの? え?」
「あんなに苛立ちを露わにされても分からないくらいに理解がないんですから、ちょっとは学んでから厩に寄る様にしてください。
……それと、水菓子を剥いているような、刃物を扱っているときに目を逸らすの、やめてくださいよ」
障子越しよりこちらで聞きたいと感じた涼やかな声で、流れるように紡がれるのは、本丸に来てからの記憶と、私の失態に対する小言めいた注意。遠まわしに言っては伝わらず、飲み込まれてきたことだった。少し聞けば、宗三が逆接で繋いだような、人の躰を、こころを得てよかったと思える事柄ではないのに、宗三は穏やかに笑む。
「貴方は、どうしようもなく危なっかしい人だ。僕の事もほいほいと、何の不安も持たずに遠征に出陣にと見送る。申し出だって最初はそうでした、かごの鳥が逃げる恐れなど抱いていない。根拠のない信頼からか、僕に興味がないか。……どちらでも構わなかった、貴方が今の僕の主であり、唯一の寄る辺であることには変わりはない。
……冷たい麦の茶の喉に通る感じ、玉蜀黍の白く甘い匂いや、抜けるように青く高い空、敷き藁の乾いた音、……貴方の、柿を剥くときの真剣な顔。貴方が与えたこの身は存外、そういうものを面白いと、好ましいと感じているようでしたので。いつまでもこのままじゃあいられないと思いました」
だから、修行に行くのだ、と。
卓袱台にぽつんと置かれたままの、白い張り子をつつく。
「これはお返しします。貴方が使おうとしない限り、僕には必要のないものです」
「…………あった方が、安心しない?」
「ほんの少し空けるだけで、僕が本丸への道を忘れるとでも?」
『修行先で見た景色』など選ばないというように、不愉快そうに眉をひそめてから。すぐに眉間を和らげて、宗三はいつもみたいにつんと澄まして。
「大丈夫ですよ、ちゃんと帰りますから」
宗三は私のもとに帰ってくるしかないと、私を『唯一の寄る辺』と言う。その言葉はこころに引っかかり、ようやく腑に落ちる。軽い細工の使われない鳩に触りながら、纏まりきらない、今までならきっと言わなかっただろうそれを、縒り合わせるようにして口に出す。
「……あなたの寄る辺は、ここだけじゃあないよ。この本丸は宗三さんの今までいた場所とそう変わらない、止まり木の一つなんだと思う。
そりゃあ、刀であったころと男士となってからは異なるし、あなたの今までの持ち主と私は雲泥の差だけど。あなたの居場所はきっとこれまでのどこにでもあって、これからもあるんだ。あなたはどこだって好きなように行ける、そのこころの思うまま、その躰で。だから……だから、この本丸は唯一ではないよ。唯一ではないから、宗三さんはいつここを飛び立ってもいいし、いつだって帰ってきていいんだよ。ここはあなたに数ある帰る場所の一つで、私は……宗三さんの帰る理由になれたら…………うれしいなぁ。
寄り道したって、何年何十年かかってあなたが道を見失ったって、ふと思い出した時に道標にできるよう、持って行ってほしい。そうすれば、……私が、安心できるんだ。鳩さえあれば、宗三さんはいつでも帰れること、あなたの選択でまだ帰らないってこと、……望まない場所に囚われてしまったわけじゃないってことがわかるから」
彼らに猜疑心を抱かせ、無頓着にも気付かず続けてきた見送りの儀式。私を支えてくれた刀たちならきっと何があっても平気だと信じていて、心配でも不安でもなかったが、その儀式が私に安心を齎していたのだろう。もし本意でない何かがあったときに指標となれる鳩は、ひとり本丸から遠く離れた刀に私が贈れる精一杯だった。
「わかりました、貴方がそれほど望むなら。持っていきましょう」
ややあって、張り子細工は、再び宗三のもとへと寄せられる。白く滑らかな、しかし刀も農具も握ることの多い指が、私が撫でた鳩の側面をなぞる。
「…………貴方が僕に向けるものが、無関心でも、無垢な信頼でも。どちらだって構わなかったんです」
降り初めの雨粒が水面におちるように、ぽつぽつと。目を伏せ、睫毛をわずかに震わせる。
「でも、鳩を目の前に出された時。貴方が僕に寄せるのは無量の信頼でなく、無関心でないと思ったら、……僕はどうすればいいか、わからなかった。貴方の心を僕が占めていることがわかりました、貴方は僕のこころよりも在ることに安寧を見出すのかと思いました。ひとの子として扱うふりをして、こんな時になればやはり、刀としてみるのだと、……落胆したんです。
おかしいでしょう、笑ってもいいですよ。刀として扱えと言いながら、貴方があんまりにもひとに向けるような慈心で僕を見るから、……絆されてしまったんだ」
乾いた地面が雨水を吸い込むように、じんわりと。
宗三の紡ぐ『貴方』は殊更優しげな音で私の耳に染みる。
「……やっぱり貴方は、どれだけいっても僕らをただ刀として見ることはないんですね。飽くまで刀の意志を、変わらぬ刀の成長を信じている。だとするなら、やはり、僕は変わらなければなりません。
他の止まり木を、貴方が示した道を寄っていきます。鳩を携えて、貴方が望んだように。僕は僕の思うさま、帰る場所を決めましょう。……そう上手くは、できないでしょうけど」
人の世の水流に翻弄されるばかりで、何かを己の意志で選択することなど、できなかったから。
ひとのこころは複雑で、本当に望んでいることさえ簡単に見失い、わからなくなってしまうから。
時間はかかるかもしれない。
それでも、今の往路の果ての寄る辺として、信じて待っていてくれるなら。
「ですから、少し外に……長くかかるかもしれませんが。出ても、いいですか」
改めて申し出されたその言葉は、ゆっくりと素直に、私のもとに届いた。少しだけ気恥ずかしくなるような感覚が、こころの内を撫ぜる。私の答えはこの前と変わらず、しかし伴うものは違う。
「うん、どうぞ気を付けて。……いってらっしゃい」
出立の朝は秋晴れの、清々しい日和だった。門の向こう側にどこまでも続く空と道の狭間を、彼の背がひとつ、進んでゆく。
彼は修行先で元の主と対面するだろう。
再会は遠い日かもしれない、もしかすると、さいごになるかもわからない。それでもここは、宗三の寄る辺だ。また会えたなら、帰る場所に選んだなら、私はおかえりなさいと迎えよう。また柿を剥いてもいい、嗚呼そうだな、馬の扱いを勉強して待っていよう。少しは仲良くなれたら、宗三と一緒に馬当番に励むのも面白そうだ。
さよならにはまたねがきっと理想的で、だけど再会を願う、きっと一番こころのこもった言葉。
だからどうか、よい旅路を。あなたのこれからに、幸福を。
さようなら、また会う日まで。
タイトル