Low-Q


はじめてのおさそい


 花道と流川はいつものように二人だけの執拗な居残り練習をしながら、いつものように喧嘩もして、いつものように少し離れて部室へと戻って行った。
 そこまで常日頃と何ら変わらない光景に思えた。


「……おい」
「あー?」

 しかし、このとき流川の口から出た言葉は花道にとって初めて耳にする類のものだった。


「今夜、ウチに来いよ」

 視線はロッカーに向けたまま着替える流川の横顔を、花道は放けた表情で言葉もなく見つめた。


 出会いから一年半。人知れず深い付き合いを始めてからは五ヶ月ほど経過するが、これまでに花道は流川を彼の自宅の門前まで送ったことはあっても敷居を越えたことは一度もない。
 それというのも一人暮らしの花道とは違って流川は家族と共に暮らしているからだ。
 友人たちでさえ、その家族に会うことは多少の緊張を伴ってしまう花道にとって、流川の家族に顔を合わせるとなると、それはもうとんでもない勇気と覚悟を要する。

 誰にも気兼ねなく二人きりの時間を過ごすことを優先して自然と自分の家を選んできたが……ここにきてついに自分は流川の家族に紹介にされるのだろうか?


「珍しいじゃねーか。突然どうした?」

 花道はドキドキと高鳴り始めた胸を抑えながら上擦った声を出す。


「親がいねーから」

 淡々と告げられたその言葉に花道はホッとしたようなガッカリしたような複雑な心境になったが、それでも流川に初めて家に誘われた事実には浮かれるしかなかった。


「いっぺんてめーの親の顔も見てみてーけどなー」

 そう言って笑う花道の声はいつも以上に明るい。
 流川を後ろに乗せた自転車を漕ぐ脚も、ハードな練習を終えたばかりとは思えないほどに力強かった。
 そんな花道の背中に顔を埋め、流川は小さく呟いた。

「二人きりの方が良い」

 くぐもった声は殆んど制服に吸い込まれ、残りは風に流されて花道の耳に届くことはなかった。



「お、お邪魔シマース」
「なに緊張してやがる」
「ふぬっ! キンチョーなどしとらんッ!」

 他に誰もいないと分かっていながらも全身を固くこわばらせてドアをくぐった花道だったが、流川にそれを指摘されて幾分緊張がほぐれた。
 しかし、玄関で靴を脱ごうとしたとき、全身にざわざわと粟立つような妙な感覚を覚えた。
 首を傾げながらも深くは考えず、進められるままリビングへ向かう。
 しばらくは座り心地のよいソファでくつろいでいた花道だが、そのうち眼の辺りに痛痒を感じるようになり始めた。

「ぬ?」

 顔をしかめた花道に茶を渡そうとしていた流川も、彼の異変に気付いた。

「どうした?」
「いや……何か急に眼がカユくなってきてよ……」

 するとそのとき、花道の視界に黒い影が飛び込んできた。


「ニャー」

「あーーー!?」

 全身が真っ黒の毛で覆われた猫がどこからともなく二人の前に現れた。
 花道は立ち上がって猫を指差しながら驚愕し、猫の方もその大声に驚き硬直した。

「てめー、何で猫を飼ってんだッ」

 愚問ではないのか。好きだから飼っているのが普通だ。
 大量に発汗しながら叫ぶ姿を怪訝そうに眺め、流川は訊き返した。


「……嫌いなのか、猫」

 花道は充血した目に涙を浮かべて流川を睨みつける。

「嫌いじゃねーよ! むしろ好きだ! でも……ぶぇーっくしょーい!!」
「む?」
「──ね、猫アレルギーがあんだよ……オレは」


 ズズッと鼻をススリ、急に声のトーンを落として告げられた言葉に流川の目は意外そうに見開かれた。


「う〜〜痒ィ……」

 ゴシゴシと目を擦る花道は、ひどく辛そうに見える。

「じゃあ、帰れば」
「なんだとっ! せっかくここまで来たのに!」

 憤る桜木に、流川も苛つき始めた。

「しょーがねーだろ。そんな状態でいられちゃこっちも迷惑だ」
「てめーが誘っといて、なんつぅ言い草だっ」
「猫アレルギーだって分かってたら誘ってねーよ」
「ふぬッ! ……だ、だったら、オレん家に行こーぜ」
「イヤだ。遠いし、面倒くせー」
「面倒くせーだと……?」


 流川なりの思い遣りも、いちいち逆らう物言いになる意味も、いつもであれば解ってやれたかもしれない。
 けれど過度の痛痒感は、花道から思考の余裕を奪い取ってしまう。


「……もういいッ! 帰るッ」

 日頃の徹底した言い合いすら放棄して、花道は子供のように拗ねた捨てゼリフを吐き、勢いよく外へと飛び出て行った。


「ちくしょう、冷酷ギツネめ……。もう家に来ても上げてやんねーからな……」

 流川が本気で花道を帰すことを望んでいたわけではないと、頭の片隅では理解している。
 互いにつまらないことで子供じみた意地を張るばかりだが、そういう意地を隠して我慢することを出来る出来ないに関わらず、花道は善しとしない。
 それでも駅に向かう道を歩きながら何度も背後を振り返った。
 素直になれないくせに、結局、嘘もつけないのだ。
 花道は深いため息を吐いた。




 一方、流川は苛立ちを隠せない様子でシャワーを浴びていた。

(猫アレルギーだと? フザケやがって……)

 期待を裏切られたのはこっちの方だと思う。
 
「どあほうが」

 風呂上がりにキッチンへ向かい、ミネラルウォーターで喉を潤していると、足元に猫が擦り寄って来た。
 暫くその頭や体を撫で、ふと溜め息を吐く。


「……やっぱり物足りねー」


 それから5分もしないうちに流川は家を出て自転車に乗った。
 そして。

(面倒くせーけど……)


 明日は日曜日だから、と特に意味のない言い訳をして、ペダルを踏む。
 目の前に赤い髪の残像が見えた気がした。




( End )





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