待ち合わせはエピローグ前



 まだ子供の頃の記憶だった。だが記憶と呼ぶには少し妙な出来事で、今思えば草原の上で寝転がって居た時に見た夢なのではないかとも思う。
 今はもう亡くなった祖父母の家が随分な田舎にあり、子供の頃は夏休みや冬休みの度に父親の運転する車で三時間ほど掛けて向かっていた。大体そこには一週間ほど滞在して、思いつく遊びを三つ違いの兄と全て遊び終え、疲れ果てて東京の自宅へと帰っていた。
 周りは田んぼと山に囲まれた地域だったから、大声を出して走り回るには最適で、東京では出来ない木登りや雑木林に秘密基地を作ったりしていた気がする。もう二十年も前の記憶だから多くの思い出は断片的で、先日の年末年始に実家に帰った時兄と少しだけ昔の話をしたがそんな事もあったっけ、というような事ばかりだった。
 そんな中で、一つだけ鮮明な記憶があった。あれは夏の太陽が高く登る昼頃だった。祖父母の田舎は夏でもあまり気温が上がらない地域で、日の当たる草原に寝転がり、川のせせらぎを聞きながら目を瞑ると実に良い心地だった。その日も私は兄と走り回り疲れて二人で寝転がり空の雲が流れてゆく様子を暫く眺めていたものだ。
 ふと目が覚めたのは、やけに強く冷たい風がびゅうと頬を掠めたからだった。いつの間にか眠っていたようで、その夏とは思えないほど凍えるような風に驚き思わず飛び起きたのだ。兄はまだ横で口を開けて眠りこけていて、もうそろそろ昼ごはんの時間だろうから一回帰ろうかと揺り起こそうとした。
 しかしその手を止めたのは、ふと見慣れない人影を少し先に見つけたからだった。その人影は雑木林へ吸い込まれるように消えていって、思わず私は追いかけた。というのも、まるで祖父がよく見ている時代劇に現れるような格好をしていたからだ。
 兄の存在なんてすっかり忘れて、つい今しがた見かけた姿を探す為に雑木林へと入り込んだ。ミシミシと細い木の枝を踏みつけながら、あの侍のような姿をきょろきょろと探す。子供の私の興味はあの刀を腰に下げた姿だけに向いていて、あれだけ帰れない場所まで入るんじゃないと祖父母にも両親にも強く言われていたにも関わらず、深く深く進んだ。
 私がようやくその目的の姿を見つけたのは、恐らく十分程探し回ったときだった。木の根本に腰を下ろしていた黒い着物を着た姿に、侍だ、と一言呟けば彼はその顔を向けてじろりと私を見る。

「何だ、俺が視えてんのか」

 そんなようなことを侍は言っていたと思う。さっき遠くで見かけた印象よりも侍は若くて、丁度今の私くらいの年齢だろうか。ちょんまげは無く顔には傷があって、ひどく目つきが悪かった。黒い着物は袖が無く、初めて見る種類の着物だなあと興味深く眺めていた覚えがある。

「ドラマですか?」
「ドラマ?」
「時代劇、おじいちゃん好きだからたまに一緒に見てる」
「ああ…ちげーよ。悪いな嬢ちゃん」

 シッシ、と追い払うような動作をする侍に私はさらに興味を惹かれた。今思えば、子供の頃の積極性というのは信じられないものがある。私はさらに近づくと、その横へと腰を下ろした。面倒くさい子供だと思ったことだろう。
 どうして此処にいるのかとか刀を触らせてほしいとか、侍は本当に侍なのかとか、色々と質問攻めをした記憶がある。細かなやり取りはあまり覚えていないが、面倒くさそうにしながらも私の質問に全て答えてくれたあの侍を私は勝手に「いい人」認定をしていた。
 私のこの遠い記憶では、そこから一時間ほどはその侍と過ごした覚えがある。見ず知らずの相手によくも一時間会話を続けたものだ。今の私からすれば信じられないほどのコミュニケーション能力、一体どこに消えたんだろうか。

「ずっと此処に居て平気なのか」
「あー…お兄ちゃんに怒られるかも」
「それならさっさと帰れ、俺ももう次の仕事がある」

 そう言って侍は立ち上がる。私も流石に帰ろうと立ち上がったものの、周りは一切の木々で一体何処から来たのかなんて分かったものじゃなかった。もしこのまま帰れなかったら兄が父親と母親めちゃくちゃに怒られるだろうとそんな事を考えながら立ち尽くしていれば、おい、と無愛想に侍が私を呼ぶ。
 きょろきょろと辺りを見回し帰り道が分からない様子を察したのか、彼は少し屈むと私の手を引いて無言で歩き出した。侍に手を引かれ歩いている状況が非現実的で、子供ながらにその顔を見上げながらドキドキとしたものだ。

「お名前は何ていうの?」
「人に名前を聞くなら、まずは自分から名乗るんだな」
「私は名前」
「シューヘー」

 シューヘーか、と私は満足気に呟いた。
 雑木林を出たのはもう間もなくで、まだ草原の上で寝転ぶ兄が見えるとそれなりに安心をしたのか私は駆け出した。一度振り返ればシューヘーは木々の影へ隠れるように立っていて、私がありがとうと叫びながら手を振れば、一瞬だけ笑ったように口元が弧を描いたように見えた。
 それが私の幼少期の記憶だ。あれからまたシューヘーに会えないかと何度か雑木林に行ったが勿論あの姿を見かける事は一度もなかった。
 祖父母の田舎へ帰った断片的な記憶の中で、あのシューヘーと名乗った侍のことだけがやけに鮮明に頭に残っていた。だが、今思えばあの場所に妙な着物姿で刀を下げた若い男が一人で居るなんておかしな話だ。
 だからあれは本当にあの昼寝の時に見ていた夢で、それがどうしてだか現実のように記憶に根付いてしまっているだけかもしれない、なんて思っていた。その方がよっぽど説明がつく。
 一人暮らしの自宅へと帰る道すがら、びゅうと吹く風を浴び身を竦めた。駅を出たときにも一度同じような突風が吹いた。さむ、と呟きながらマフラーへと顔を埋めるがあまり効果は感じられない。点々と立つ街灯の下に影を作りながら人気のない住宅街を進むのは毎日のことながら寂しいものだった。
 幼少期のあの夏の出来事を私は暫く忘れていたのに、どうしてか急にこの帰路で思い出した。もしかしたら急な突風を浴びて、記憶が刺激されたのかも知れない。あの夏の日も同じくらい冷たい突然の風で目を覚ましたんだった。
 勿論あの日は口を開けて眠る兄を叩き起こしてシューヘーの話を聞かせたし、家に帰ってからも散々祖父母や両親に話して聞かせた。だがきっと夢でも見たんだろうというような反応で宥められ、その時はムキになっていたものだが、やがて時間が経って確かに夢だったかも知れないと思うようになっていた。夢にしては、あまりにも鮮明な記憶だったが。
 ふと思い出に浸り自然とスピードを落としていた歩幅を、私は元に戻す。パタパタと足音がこの静かな住宅街に響いていたが、何やら突然聞き慣れない動物のような鳴き声と共にまた激しい風が吹いて髪の毛を乱した。
 迷惑な風に多少苛立ちを感じながら髪を後ろに流した時、味わった事のない悪寒を感じてそのまま石になったかのようにその場で立ち止まった。動かそうにも身体が動かず声も出ない、まるで金縛りのような状態だ。
 目線だけで辺りを見回すと、私の付近の電柱だけがゆらゆらと地震の時のように揺れ電灯が気味悪くチカチカとしている。寝ている時に金縛りにあうことは時折あれど、ここまで意識がはっきりとした状況では初めてだ。まさかこれが心霊現象なのかと、言い得ぬ恐怖と、少しの興味を感じながら私は路上で相変わらず固まっていた。

「道のど真ん中で邪魔だな」

 突然の無愛想な声に、ようやく誰か私以外の人間が通りかかってくれたのだと思った。助けてくれとそう喉の奥からひねり出そうとした時、背後から私を追い抜いた影に息が止まった。

「シューヘー…」
「…何で知ってんだ…てか、俺が視えてんのか」

 その姿は、間違いなく私が幼少期に会った彼だった。驚いたことにあの日見た姿とほとんど姿は変わって居なくて、丁度今の私と同じくらいの歳のように見える。シューヘーが私を追い抜いた瞬間にようやく金縛りは解け、そのまま地面へとへたり込んだ。
 一瞬私を見て不思議そうに眉根を寄せた後、彼は一息に飛び上がり腰の刀を振りかざす。何者かとの戦闘が起きている事は分かったが、私には彼の姿しか見えず、数十メートル先でまるで映画のワイヤーアクションのように飛び回る様子を目で追いながらぽかんと口を開けていた。
 やがて決着がついたのか、シューヘーは地面へと降り立つと刀を一つ払いその鞘へと納刀する。黒い着物姿がゆっくりとへたり込む私に近づき、無表情のまま手を差し出した。掴まれという事らしい。

「あの時の、雑木林の嬢ちゃんだろ」

 彼の手を掴み、私は立ち上がりながら頷く。何者かとの戦闘の間に思い出してくれたんだろうか。やっぱりあの夏の出来事は夢じゃなかったんだと、その顔を見上げながら思わず笑みが溢れた。

「あの雑木林で会ったこと、夢だと思ってた」
「夢?何でだよ」
「だって、黒い着物姿の侍が居たって誰も信じてくれないから」

 そりゃあそうだろう。今思えば、そんな事を興奮して語られても気味の悪い夢でも見たのだろうと思われるに違いない。
 でも私はシューヘーの事が忘れられなくて、何度か一人で雑木林を覗いたりその付近をうろうろとしていた。今ようやく二度目に会えた彼の目を、私はまじまじと見つめる。

「シューヘーって何の仕事してるの」
「別に今お前が知らなくても良いような仕事」
「何それ、いつか分かるってこと?」

 私が聞けば、さあなとはぐらかされた。恐らく教えてもらった所で分からないだろう。子供の私は分からなかったが、今は彼が同じ人間でないという事に薄々気付いている。
 おい、と少し視線を外して声を掛けられ、暫く握りっぱなしにしていた手を慌てて離した。シューヘーは私から離れると、少し乱れた着衣を軽く整える。恐らく此処に長く留まる気はないのだろう。

「また会える?」
「どうだろうな」

 彼は二、三歩私の前を進み背中のまま答える。私はまたその姿が夢にならないよう、焼き付けるようにじっと見つめていた。先程吹いていた風は嘘のように今は静まって、しんとしている。

「でもまあ、二度ある事は三度あるって言うだろ」
「それはつまり、また会えるって事だね」

 私がそう言い切れば、どうだろうなと答えて大きくひとつ伸びをした。

「じゃ、またな名前」

 そう言ったシューヘーは、そのまま勢いよく飛び上がり次の瞬間には電柱の上へと移動をしていた。一瞬振り返った姿に、私はあの時と同じように大きく手を振る。またね、と思わず叫んだ声は、冬の冷えた住宅街にこだました。
 月の微かな光に照らされた口元は、少しだけ笑んでいるように見えた。




Long time no see