先天性絶望症



思い出と呼べるようなものが、何かあっただろうか。かの人と私の間に。

一度だけ、一緒に海を見に行ったことがある。例によってその日はひどく肌寒い日で、分厚い曇天にはばまれた空は暗く、海はどんよりとして倦んだように満ち干きを繰り返していた。初冬の、なんの見るべきところもない、陰鬱で湿っぽい景色だった。
さんざんホロウを斬って疲れていたのに、なんでわざわざ冬の海を見に行きたいなどと思ったのか、もう自分でも思い出せない。
ただ意味もなく砂浜を延々と歩いていたことだけは覚えている。
「ここ、ほんとに寒いですよ。名前さん」
我慢しきれないふうにイヅルはぼそぼそとした声で言い、草履にまとわりつく細かな砂を飽かず神経質に払い落としていた。払っても払っても、どうせまた入ってくるのに。さっきから足袋がじゃりじゃりする。
わざと軽い足取りで歩く私の後ろを嫌々ついてくるイヅルの横顔は、鬱陶しいほど長い金の前髪に隠れてよく見えない。海風が冷たくその髪と死覇装を煽り、彼の肌は骨のように白く見えた。
「あ、雨だ」
思わず声が出た。ぱつ、ぱつ、と小さな雨の雫が死覇装の上で弾ける。どおどおと海が鳴っている。
「帰りませんか。いい加減」
「うん。帰りましょうか」
「ええ……」
拍子抜けしたような、ほっとしたような顔でため息を漏らしたあと、イヅルは足を早めた。ぎゅもぎゅもと深く砂を踏み、道路へ続く石段に向かう。
「あッ」
突然、短い声と共にイヅルの影が小さくなって、前のめりに倒れ込む。
「?」
追いついてみたら、彼の足元に大きな瓶が顔をのぞかせていた。砂にうもっていた、古い瓶だ。薄緑色のガラス瓶。彼はそれにみごとに蹴つまずいたらしい。
「あーあ」
言いながら、笑いが漏れた。さっきまで暗い目つきで刀を握っていた男が、小さな子供のようにすっ転んだのがおかしかった。
「ほら立って」
差し伸べた手を、イヅルは途方に暮れたような目で見た。
「名前さんが」
「うん」
「海に行きたいなんて、言うから」
「うん」
「あなたのせいだ」
まっすぐな声でイヅルは私を責めた。本気なのか冗談なのかはかりかねて、私はあいまいに笑った。イヅルはどきりとするほど薄青い、シーグラスのような目で恨みがましく私を見上げている。砂浜に這いつくばったまま、立ち上がることすらおっくうそうな顔をして。
それからイヅルはやおら私の伸ばした手に応え、容赦ない力で引っぱった。私も負けじとふんばったから、綱引きみたいになった。さぞ滑稽な風景だったことだろう。
それで。
それから、どうしたのだっけ。

はッとなって重いまぶたをこじ開けると、ピ、ピ、ピ、と規則正しく響く機械音が聞こえた。
懐かしい夢を見ていた。
イヅルの夢。
そうだ。
イヅルの体は私の目の前で吹き飛ばされた。腕いっぽんと、脇腹からへそまでをえぐるように一撃で持っていかれて、そのなまあたたかな血と肉が石畳の上にどっさり散った。
「三番隊には死に損いが多いネ」
暗い部屋のすみから、声がした。画質の悪いモニターに涅マユリの横顔が映っている。なにか作業をしているらしく、彼の両手は高速で動いている。
がばっと身を起こしたら、浴槽で寝ていた時のように水が音を立てて波打ち、裸の肉体から大量の液体がしたたった。なにやら粘っこい、奇妙な水の中に全身が浸かっていたらしい。
「生き汚いことだヨ。実に結構」
「死んで、ない」
ぼうぜんとしてつぶやくと、涅隊長は鼻で笑った。
しかしあの日、腹の肉を消し飛ばされて、内臓から出る黒っぽい血液を大量に吐いたことは覚えている。あれは完全に致死量だった。
「ほとんど死んだようなものだ。私の技術が無ければ、今頃キミの魂魄は瀞霊廷のどこにも存在していない」
平坦な声で言って、涅隊長は初めてモニター越しに私を一瞥した。
「三番隊は壊滅寸前だヨ。副隊長の吉良イヅルに加えて、上位席官の半数以上が死亡したのだから」
浴槽のような肉体保全装置から、水が床にしたたる音が聞こえていた。どこまでが思い出で、過去の夢で、どこからが現実か。線があいまいになる。ただ、あの日見た世界の終わりのような海が、まだ私の眼前に広がっていた。

***

思い出と呼べるようなものが何かあっただろうか。あの人とぼくの間に。

三番隊に入って最初の上司だった名前さんは、いつも笑っている人だった。質問に答えたくない時、嘘をつく時、それから、怒っている時も。底の見えない笑みを浮かべ、誰に対しても丁重な姿勢を崩さない人。精神干渉系の斬魄刀を遣うことも相まって、隊内では若干敬遠されているふしがあった。
思えばどことなく市丸隊長に通ずる雰囲気があったような気もする。はりつけたような笑みと、人をけむにまく態度。そして本当の心は、誰にも見せない。
「聞いてる?イヅル」
「ぅえっ、あ、はい。聞いてます」
「嘘ですよね」
にこ!と笑って名前さんは言い、構えていた抜き身の斬魄刀をくるくると器用に回転させて鞘にしまった。刃から飛んだ血と肉片の残骸が草むらに落ちる。
「任務で一緒になるのはずいぶん久しぶりですね。吉良副隊長」
「はあ。まあ、そういえば久しぶりですね」
死神をやっていると何年何十年なんて単位はあっという間に過ぎていってしまうので、僕らの言う久しぶり、はかなり大雑把なものではあるのだが。
しかし名前さんは冴えない返事をする僕のことなど既に気にとめておらず、なにやら確信めいた足どりで歩き始める。
「どこに行くんですか」
「海です」
「海?」
死覇装の上に防寒用の分厚い羽織を着ているこの季節に、海?
疑問符を浮かべる僕に構わず、彼女は淡々と歩を進めている。
いや。
そういえば。
「前、見てましたね。写真」
三番隊の倉庫を大掃除したおりに出てきた白黒写真かと思うほど色のない海の写真を、彼女は飽かず眺めていた。額縁入りの大写しの写真で、その撮り方がうまいのかまずいのか僕にははかりかねた。なにしろ人も鳥一羽すらも写っておらず、ただ寒々しい水平線と、だだっ広い砂浜の景色が写っているだけだったから。誰がなんのために撮ったのか、なぜ三番隊の倉庫で埃を被っていたのか誰にも分からない、意味不明な遺物のひとつ。
ただその写真の前に立ち尽くしていた名前さんの、魂を抜かれたような、めずらしく無防備な顔が記憶に引っかかっている。
「……よく覚えてますね。そんなこと」
「覚えてますよ。色々。炊事場に積んであったどんぶりを棚ごと倒して壊滅させて、経費で申請するのが嫌だからって自費で弁償してたこととか」
「それ、六十年くらい前の話でしょう」
「死んだ地獄蝶で昆虫採集見本を作って隊長に始末書書かされてたこととか」
「それも半世紀くらい前の話ですよ」
ざざあ……ざざあ……と規則的に引いては寄せる波の音を聞きながら、歯の根が合わなくなりそうなほど寒い砂浜を僕らは歩いた。
「イヅルだって酔い倒して伊賀木場四席の羽織にゲロかけたことあったでしょう」
伊賀木場四席はヒグマみたいな三番隊古株の戦士で、稽古場で新人をいびることこそ生きる喜び、みたいな人だ。それにしても嫌なことを思い出させてくれる。あのシンと時が固まった空間で背中を伝った脂汗までよみがえってきて、僕は顔をしかめた。
あれは一体何年前のことだろう。もう伊賀木場四席は三番隊にいない。異動先の一番隊で相変わらずバリバリ働いているだろう。
「名前さん、どうして三番隊にこだわるんですか」
ぽろりと素直な疑問が落ちた。どちらかというと体術や歩法が得意分野の名前さんに、二番隊から声がかかっているのは知っている。今では僕の方が上司なので。ついでに、ここ数十年彼女が三番隊残留の希望を出し続けていることも知っている。
「さあ。どうしてでしょうねえ」
聞いているのかいないのか、砂に埋まった滞留物を木の枝でほじっている名前さんは気のない返事だ。風に彼女の髪が乱されてたゆたう。その荒い潮風につられて目を細める。
「イヅルがいるからかなあ」
ふと顔を上げて、名前さんはつぶやくように言った。絶え間なく繰り返される波音の合間から、その声は不思議とハッキリ僕の耳に届いた。無防備でまっさらな彼女の目つきは、三番隊の物置きにあった海の写真を見ている時のまなざしに良く似ていた。
僕はただ無意味にまばたきを繰り返し、なにか言おうとして開いた口からも結局何ひとつ言葉は出てこないまま、しゃがんでいる彼女をぼんやりと眺めて立っていた。
「うそだよ」
彼女はあっさり言って無意味に笑った。感情をともなわない笑顔。仮面をかぶったみたいな変化だった。
帰り道、鼓膜に反響する彼女の声に―――イヅルがいるからかなあ―――気を取られ、捨てられていた瓶にけつまずいて転んだ。
それでようやく、僕は心置きなく彼女を責めることができたのだ。とうの名前さんは何を責められているのか判然としない様子で笑っていたけど。
僕を立たせようとさしのべられた手は死体みたいに冷たくて、彼女の存在を確かめるように僕はわざとその手を強く引いた。

***

まだこんなものが残っていたのか。
暗い海が大写しになった古い写真の前に立つと、何もかも悪い夢であるような気がしてくる。子供じみた現実逃避だ。
離隊届をぶら下げて戻ってきたら、三番隊の隊舎がすっかり新しくなっていて驚いた(一度ほとんどさら地になったのだから、考えてみれば当たり前のことなのだけれど)。私は好奇心半分感傷半分でその隊舎を歩いた。昔の三番隊を踏襲したらしい懐かしいような景色もあれば、まったく見知らぬ造りの場所もある。
半年以上も十二番隊で、他の負傷した隊士と一緒に実験体よろしく管理・修復してもらったというのに、私の体は元には戻らなかった。内臓はところどころ欠損しているし、あの日ぐちゃぐちゃになった両足は今や他人のもののようにままならない。一度決定的に破壊されたものはどうしようもないのだろう。
死神としてはもう使い物にならなくなった足であたりを蛞蝓のようにゆっくりと歩き回っているうちに、無人の離れにたどり着いた。扉からしか採光のない暗い土蔵で、ゴミ捨て場か倉庫か見分けがつかないほど散らかっている。大戦の瓦礫から掘り起こしてきたものが未整理のまま放置されているらしい。
大きな棚や机の上はもちろん、床にいたるまでガラクタと重要な物品がいっしょくたに積まれている混沌とした空間のすみに、その写真は無造作に忘れ去られていた。棚の高い位置に打ち捨てられたそれに近よるため、ガラクタの山を足場がわりに苦労してよじのぼる。
両手を広げても足りないほど大きな額縁に入れられた、一枚の写真。
画面いっぱいの冷ややかな海。
絶望的に統一された灰色の景色。
もしも世界に終わりがあるならこうであって欲しいと思わされるような風景。
「まだあったんですね。その写真」
幻聴にしては明瞭なイヅルの声が響いた瞬間、信じがたいことに私は足を踏み外した。にぎやかな音をたてて不安定な足場が瓦解していく。こんなに驚いたのは生まれて初めてだ。落下しながら素直に思う。うらやましいほど鮮やかな瞬歩でイヅルは私をいともたやすく抱きとめ、静かに床へ降り立った。扉からさすわずかな陽光が舞い散る埃をきらきら照らす。
「イヅル、どうして―――」
生きているんですか。
とはさすがに言えない。
少し伸びた金髪をうっとうしそうにはらいのけて、イヅルはあいもかわらぬ暗い目つきで私を見下ろした。しかし頬骨がしらじらと目立つほど痩せている。彼はおもむろに私の手を取り―――それはまごうことなき死人の、温度を失った手だった―――死覇装の上からあの日吹き飛ばされた自分の脇腹あたりを触らせた。そこには、何も無かった。添え木のようなものが触れるだけで、肉は失われたままだった。
「死んでますよ。ちゃんと」
平坦な声で彼は言った。ちゃんと死んでいる、というのもおかしな話ではあるのだけれど。
ならば今彼はどうやって喋り、動いているというのか。
脇腹だった場所に触れていた手を、するりと心臓のあたりまですべらせる。イヅルはわずかに身じろぎし、困惑したようにまばたきした。しかしこばめないまま立ち尽くしている。
手のひらを彼の胸に当てても、冷たい石板のようにしんとしている。その心臓は言い逃れのしようもなく完全に停止していた。
イヅルの栄養を失ってぱさついた髪が私の頬に触れた。その青い切れ長の瞳だけが昔と同じ光を宿している。冷たい炎だ。炎は青い方が熱い。
「名前さん、前に言ってましたよね。僕がいるから、三番隊にいるって」
耳に声の温度が感じられるほど近くでイヅルは言う。確信的な物言いだった。
言っただろうか。そんな、核心をつくような言葉を。いったいいつ、あけすけに本心をさらすような真似を私はしたのだろうか。
「あなたのために地獄の淵からよみがえってきたのに」
死神と亡霊の間をたゆたう魂が、私を両の眼でじっと見つめていた。
いつか、この人が三番隊の羽織を身につける日が来ると思っていた。寡黙な指導者として、絶望を背負う三番隊の長になるイヅルの姿を想像していた。
だがもうその日が来ることは永遠にない。彼の腕には既に、金盞花の腕章すらなかった。
かつて、イヅルの腕に巻きつけられていた副官章。真冬の冷たい海でも、あれは鈍い金色に輝いていた。
困ったようにたたずむイヅルの横顔、私をまっすぐに見るあの目つき。
たとえわびしさそのもののような景色だったとしても、あれは私にとってたった一瞬の輝きだった。希望や未来がもろくも崩れ去る前の。
絶え間なく繰り返される波の音がありありと耳によみがえってやまなかった。




Long time no see