つかず離れず

 前世の記憶を持ったまま、新しい世界に生まれ変わることになるなんて、だれが想像しただろう。
 もちろん生まれ変わる前の私は想像もしていなかった。

 けれど生まれ変わってしまったのは本当で、私には前世の記憶というものが残っている。
 だから最初は混乱した。なぜ自分がこの世界に生まれたのかと。

 私が生まれた世界。
 それは前世の自分が好んで、愛読していた漫画の世界だった。


 記憶が蘇ったのは小学校を卒業し、新しい土地に移り住んだ時。
 会社の辞令で海外に栄転・移住するという両親から離れ、1人喫茶店を営む祖父の家に引っ越した日のこと。
 商店街の裏道という渋い場所に店を構える祖父の連れられ、歩き回った挨拶回り。その最後に喫茶店にもパンを卸してくれる付き合いの深い家族だと紹介された中に、彼がいた。


「俺、竈門炭次郎。困ったことがあったらなんでも言ってくれ!」


 溌剌とした笑顔。澄んだ、まっすぐな瞳。少し赤みがかった髪。額に刻まれた痣が印象的な少年。
 紙で、映像で、穴が開くほど見てきた彼が、彼女が、目の前で笑っている。その衝撃たるや、まさに雷に打たれたかのようで。

 瞬間、パリンと割れた記憶の器からあふれ出したのは前世の記憶だった。
 日本の製菓専門学校に通い、卒業と同時にパティシエとして経験を積むべく海外へと渡航した私。1人孤独な生活を支えてくれていたのが、彼らの激闘を描いたコミックだった。
 鬼と呼ばれる異形と戦う姿。血に汚れ、大きな傷を負い、己の弱さに絶望し、仲間の死に打ちのめされながらも、それでも前へと進む青年たち。その姿に時に共感し、励まされ、奮い起たされたのは1度や2度じゃない。

 私は彼の過去を知っている。彼らの歩いた軌跡を、漫画という作られた物語として読んでいた。
 けれどこの世界では彼らは現実に生きていて、鬼殺隊として正に命を掛けた戦いを乗り越えてきたのだ。

 そしてこうして鬼のいない世界に再び生まれ変わり、生きている。

 だからこそ嬉しいと思うと同時に、あまり深い付き合いをしてはいけないと思った。
 こことは全く別世界で事の顛末だけを知っている私が、深い絆で結ばれた彼らの中に入ってはいけない。入れるわけもないし、入ろうなんて烏滸がましい考えは持ってはいけないと。


「諸刃夏夜です。こちらこそ、よろしく」


 だから私は笑った。
 渾身の作り笑顔というもので、透明の壁を作って守ろうとした。
 違う世界からこの世界に生まれた私は、いわば不純物だ。綺麗な音を邪魔する不協和音。ならば少しでも距離をおいた方がいいだろう。

 この時、このタイミングで蘇った自分の記憶に感謝した。
 生前の私は社会を知る大人だった。人との距離感の作り方も、作り笑顔も、空気の読み方も完璧に心得ている。だからつかず離れずの距離を保つことは容易いことだ。



 その思いは、高校生になった今も変わらない。


「夏夜、そろそろ行かんと遅刻するぞ」
「はーい」


 うまく焼きあがったチーズケーキを冷蔵庫にしまい、エプロンを外した。
 代わりに馴染んでしまった制服のブレザーに袖を通しながらフロアに出れば、喫茶店のマスターでもあるロマンスグレーな祖父が優しい笑顔で学生鞄を渡してくれた。


「ありがとう、祖父ちゃん」
「構わんよ。ほれ、弁当は持ったか?」
「うん、大丈夫」


 竈門家と縁のある祖父だが、鬼殺隊とは全く関係のない人間だった。
 店の名前が「Wisteriaウィスティリア」だった時は藤の家関係かと思ったけれど、たんに自分の名前が藤朗だったから藤をとっただけなのだそうだ。あと祖母ちゃんが藤の花が好きだったから。そんな単純な理由だと笑って教えられた時は、心底ほっとした。

 日本に残りたいと訴えた私を、店の手伝いを条件に快く引き取ってくれた祖父ちゃん。
 美味しいコーヒーや紅茶の淹れ方を教わりながら、前世でパティシエをしていた私は喫茶店のスイーツ担当として少しばかり売り上げに貢献させてもらっている。


「今日の目玉はチーズケーキ。あとはほうじ茶のスコーン、水ようかんに抹茶大福も作ってあるから」


 「お客さんに合わせて出して」と頼めば祖父が「承知した」と親指を立てた。
 うちの喫茶店は少し変わっている。コーヒーや紅茶だけでなく煎茶も提供し、洋菓子だけでなく和菓子も準備して来店した客の好みに合わせてお出ししていた。

 それはもうコーヒーや紅茶には洋菓子が、煎茶には和菓子だと誰が決めたと言わんばかりだ。


「苦いコーヒーに餡子は美味い」
「煎茶にスコーンも中々いけると思うよ」
「「………」」


 お互いに無言で親指を立てたとろで、私は鞄を肩に掛けた。


「じゃぁ、行ってくるね」
「気を付けて」


 遅刻ギリギリの時間だからといって特段慌てることもなく、喫茶店の扉に手を掛ける。
 チリンッと軽い鈴の音に背中を押されることも、人が行き交う商店街の風景にも、もう慣れた。


「さぁ、今日も1日頑張ろう」


 つかず離れずの距離を保ち、今日も安全に1日を過ごす。
 それがいつの間にか出来上がった私の目標だ。