ブラシス!

 仕事と上司とで常にストレスと胃痛を抱えている男ではあったが、法執行機関──── 警官という立場上、焦燥、怯懦、そういった感情は普通の人間よりも持ちにくい。つまるところ、心を律することに長けていると自負している。

 しかしながら、とある休日の昼下がり。風見裕也は困惑していた。



「ぅ……っううう〜〜〜!!」

 風見の腕をがっしりと掴み、メイクが崩れるのも厭わずに泣いているのは今年二十歳になったばかりの妹、なまえである。仕事柄家族とはあまり連絡ができず、数年に一度、元旦に数日帰ることしかできないのだが、年の離れた妹はそれでも“お兄ちゃんお兄ちゃん”と慕ってくれていた。例えそれが風見自身を金ずるとしか思っていない小生意気な理由だとしても、十も歳が離れていれば風見とて口も出ない。可愛い妹のため、お願いされるたびに財布の紐は緩んでいく。

 そんな大事な大事な妹が、午前中に文字通り飛び込んできてから数時間も泣き喚いている理由とは。
 ──── 失恋である。
 いわく、高校のときから付き合ってきた彼氏が、離れた大学でサークルに入り浮気。よくあることと言えばよくあることだが、そんなことをこの場で口走ろうもんなら、妹の拳が飛んでくるだろう。人よりも華奢で、まして鍛えている風見とは正反対の妹の拳を受けたところで物理的に痛くはない。痛くはないが、精神的な意味で言うとかなり効く。上司の拳並に吹っ飛ぶ。あっちは肉体が吹っ飛ぶがこっちは精神が吹っ飛ぶ。

 しかしこの場において傷心中の妹に掛けてやる言葉などひとつとて思い浮かばない。なんせ風見という男は齢三十にもなって独身である。プライベートはことごとく上司に潰され、休日出勤過多、そんな中で出会いがあるはずもなく。恋愛経験だけでいえば、現在大学生のなまえの方があると言えるほどに。

「お兄ちゃん聞いてるの!?」
「え゙っ、あ、ああもちろん、聞いてる。聞いてるとも。クソ野郎だな」
「そう! そうなの! あいつ、あいつ……っだってわた、私、プレゼントあげたくて……! バイト頑張って……!」
「そうだな、頑張ってたな」

 彼氏……否、元彼が黒い髪が好きだと言っていたから、珍しくなまえの髪は染められていない。トリートメントなるものも、欠かさずしていた。稀に泊まりに来る妹のため、風見の家には妹の使うもので溢れているが、こと洗面台周りにおいては、風見の数少ない持ち物が肩身狭く端に追いやられているほどにケアグッズで溢れている。

 すべては元彼のため。なまえは自分の容姿に一切の妥協を許さず、怠惰も許さず。大学には朝早くから起きて必ず化粧を施し、服は基本オシャレなものを着ているが、たまに手を抜いてTシャツとジーパンという姿にはなっても、靴は必ずヒールを履いていた。いつなんどき、彼氏からお声が掛かってもいいようにと、とにかく妹は手を抜かなかったし、かといって学費を親と兄の金で払ってもらっている手前、大学をサボることもしなかった。成績が多少落ちることはあっても、単位を落とすことだけはしなかった。それに妹は、学校が終わり次第短期で入っている居酒屋に直行してプレゼント代を貯めていたのだ。元彼の好きなブランド物をあげるために。

 よく風見の家に泊まり込んでいた理由もそれである。バイト先がここから徒歩十五分程度の距離なのだ。合鍵を渡してからと言うものの、なまえはずっと働いていた。風見の退勤時間が事前にわかっていればその時間まで働き、風見が車で迎えにも行った。風見の帰宅が夜中になるときなどは、家に帰れば一足先になまえがソファで寝ていたことも少なくはない。それを見かけるたびにベッドに運んでやっていたのは他でもない風見である。

 とにかく、なまえはひたすらに頑張っていた。愛する彼氏のために。その苦労を知っている風見にとっては、それはもう、なまえとまではいかないが、充分怒っていた。

「バイト、頑張ってたな」
「……うん」
「バイトなのに、月の給料十万超えるってすごいぞ」
「……うん。頑張ったもん」
「ゲーム好きなのに、彼氏ができてからやめたよな」
「……あいつ、ゲームあんましないから」

 なまえは、可愛い。彼氏に一途な所も、彼氏のために自分を変えられる所も、彼氏のために頑張れる所も。妹は、可愛い。それなのに、振った理由が浮気。兄として、男として、許せるはずもない。
 かといって、妹の代わりに警官である風見が復讐を果たしてやることなんてできやしない。せいぜい交通課に話を通して、元彼が万一違反切符を切られた際には絶対に見逃すなと言うくらいが限界である。
 テールランプ切れろ。一時停止違反しろ! そんな呪いが発動したかは、風見の知るところではない。

「なまえ。今日はステーキ食いに行くか?」
「…………」
「この前はダイエットって言ってたけど、お前はもう少し肉をつけろ。痩せすぎだ」
「……でも」
「ステーキ食べたあとは、ケーキ屋に寄ろう。俺がなんでも買ってやる」
「お兄ちゃん、」
「あとは……明日。ゲームでもなんでも、買いに行こう。久しぶりに、一緒にゲームしないか」

 兄があまりゲームをしないことなど、妹は知っているけれど。妹が誘えば、必ず一緒にしてやっていた。
 鼻を鳴らすなまえは乱雑に目元を拭うと、「うん」と答えてくれた。







 妹の大失恋から早数ヶ月。バイトも辞めたなまえが家に寄る理由もなくなって、あれ以来上がり込むことはなくなっていた。風見が一抹の寂しさを抱きながらも、相変わらず理不尽な上司と多忙極める仕事をこなして、やっときたる休日の、とある午後。
 インターホンを慣らしもせず、唐突にやってきた妹は、頬を可愛らしくピンク色に染めて、同じ大学内でかっこいい人を見かけたのだと転がり込んでくるのはまた別の話である────



「なに? 東都大学で?」
「そうなの! なんかね、目は細いけど……でもでも、すっごく賢くて、めっちゃかっこよくて、統計学のレポートちょっと教えてもらった! 院生なんだって! ねえお兄ちゃん、今日三限から授業なんだけど、メイク変じゃないよね!? 服はどう!? やっぱ変えた方がいいかな? 私の服あっち?」
「ちょ、まて、落ち着け、名前は……」
「え? 知らないよ。聞いてないもん。ねえそれより、今日の服どれがいいと思う? こっち?」
「なっ……なんだそれは! 肩が隠れてないぞ!」
「は? ただのオフショルじゃん」