寄り道
ずっと雨が降っている。
「ますたぁ。せめて傘をかぶってくださいまし。風邪を引いてしまいます」
「大丈夫だよ、雨ってほど降ってないし空は晴れてるし、寒くないよ」
「まぁ」
でも御髪が濡れては、と清姫が愛らしい顔を曇らせる。
愛の狂気に陥った霊基で固定されているバーサーカーだが、マスターに対する細やかな気遣いは紛れもなく好意から生じている。つと隣に寄り添い傘の代わりに扇で頭頂を雨から庇おうとする仕草に、少年は優しく笑って「大丈夫だから」と背伸びする彼女の頭を撫でた。あぁ、ますたぁ、とうっとり呟く声は多幸感に震えている。
他のどのサーヴァントが同じ提案をしたとしても、あんなふうに優しく微笑んでやんわりと断っただろう。遠目に二人の様子を眺めていたヘクトールは、少年がサーヴァントに対して見せる距離の変化を、胸中で苦く噛みしめた。
異聞帯オリュンポスの切除が完了し、一旦、ノウム・カルデアに撤収したカルデア一行は、次の目的地に向けて戦力と物資の拡充を行いつつ、点々と生じる特異点を調査している。異聞帯切除後、世界に対する大きな振り戻しから発生する微細な特異点の修復は、大きな戦いと次の戦いのインターバルとして良い作用をもたらしていた。
人類史が漂白された今、失われた歴史が再び表層に表れることはけしてないのだが、漂白されたといっても同じガイアの上に構築された「別の」可能性である以上、星が夢の間に間に失った時間、場所の夢を見ることもあるのだろう。失われた、誰かにとって見覚えがある景色を伴って、異聞帯との狭間に特異点が生じるのだった。砂漠に揺らめき経つ蜃気楼の町めいた、それらの景色を、正しい過去を取り戻すためには、摘み取らねばならない。
データ上の「あるべき」地理、歴史によると、ここは、雨の絶えない南国のとある島だという。シャドウ・ボーダーのシステムと連動する人造英霊レオナルド・ダ・ヴィンチは、事前の探査を済ませた後、わざわざ紙媒体の地図をプリントしてマスターに持たせ、「ゆっくりしてくるといいよ」と送り出した。護衛役の人選も、すべてマスターに一任させた。今回は、清姫、刑部姫、巴御前、そしてアキレウス、ヘクトールの五騎が選ばれた。アキレウス、ヘクトールの二人が有事の対応を期待され、残りの女性サーヴァントたちは息抜きがてら、一緒に観光しようということらしい。
少なくともヘクトールの方は、そう理解して、マスター達からやや距離を置いて付いていくことにした。アキレウスも同じで、ヘクトールともマスターとも距離を取っている。
(変わっちまったなあ)
ヘクトールは内心で独りごちた。
以前、人理修復中だった頃ならば、余計なリスクを避けて観光まがいの真似はさせず、特異点の調査、修復あるいは解体だけに専念させていた。だが、何度となく命の危険にさらされながら、時には過酷なほど僅かな扶けで困難を乗り越えてきたマスターは、並大抵の有事ではびくともしなくなっている。サーヴァントたちとの連携も、魔術師の素養がないとは思えないほど、的確で綿密だ。経験が、少年を戦う者に変えてしまった。だからダ・ヴィンチも、あるべきだった日常を摩耗させないため、こうして息抜きをさせる。かつての景色に触れさせる。
だが、戦いで摩耗した者は同じ形には戻らないことを、ヘクトールはよく知っている。ヘクトールだけではない、戦いに縁のあるサーヴァントなら誰しも。
温い霧雨を浴びながら、清姫と刑部姫に腕を取られて歩く、マスターのやや後ろを巴御前が付いていく。ふと振り向いた彼女と目が合い、ヘクトールは束の間、解る者同士のやり取りをした。彼女も戦いに身を投じた女傑だと聞く、ヘクトールが感じてるマスターの変化を、彼女なりに感じ取っているのだろう。巴御前は頷き、マスターの後を確かな足取りでついていく。
島全体は、もぬけの殻だった。ダ・ヴィンチの話では、この地域で信仰される土着の神が小聖杯ほどの魔力リソースを保持しているという。向こうに敵意らしい敵意はない。漂白によって消失したはずの自分が異聞帯世界を認知出来ているか、戸惑っている様子だという。居るはずない誰かを招こうとする声が、ノウム・カルデアに観測されていて、声は助けを求めていると解釈された。
穏便に聖杯を回収して特異点を解消できるかどうかは、まだ解らない。だが、周囲の穏やかな空気は、残酷極まる状況から脱したばかりのマスターを癒やしているのは間違いなかった。
「お店がある」
「えっ、どこにです?」
「あの木の向こう」
「本当だー。ハワイアンダイナーってやつかな?」
「ダ・ヴィンチちゃんから貰った観光ガイドに載ってる店だ。人は、いなさそうだけど……」
ファイルケースに仕舞って濡れないようにしたガイドマップを確かめつつ、マスターが言う。ヘクトールもアキレウスも大股で追いついて、マスターの見ている地図を後ろから覗き込んだ。
地図にはマークと店の端的な紹介とが書き込まれていて、位置も店の趣もだいたい一致している。
「入ってみます?」
巴御前の提案に、刑部姫がすぐに賛成した。
「ずっと歩いてきたから姫疲れた〜コーヒー飲みたい〜」
「ますたぁも何か召し上がった方がよろしいですよね?店の方がおられなくても、清姫がお作りします♡」
両隣の二人から賛成意見が出て、マスターは頷いた。
建物に罠がないかどうかは、巴御前とヘクトールがすでに目先で確認している。アキレウスは来た道を顧みて、ダイナーの戸口を見て「俺はここで見張ってる」と言い出した。
「アキレウス、来ないの?」
「ああ、そんな広い店じゃなさそうだしな。もし飲み物があったら、持ってきてくれるか?」
「もちろん」
快諾したマスターに手を振り、アキレウスは入り口にあるポーチに腰を下ろした。背中を向けたまま、店内を顧みる気配はない。
一行が店内に入る。中は、しんと静まりかえっていた。しかし打ち棄てられた廃墟の空気ではない。テーブル席やカウンターは普段客が出入りしていただろう名残が窺え、折りたたまれた紙ナプキン、シュガーポット、ケチャップ、マスタードが一席ずつに配置されている。キッチンの中も料理がしやすいように整理整頓されていた。シンクも、棚に並んだ調味料や材料の瓶や缶詰は見て解るようにラベルがこちら側を向いているし、コーヒーメーカーに温かなコーヒーが用意されている。どちらかというと、さっきまで開店していたのを店主がちょっと出かけてしまった趣があった。
「店の人、出かけたのかな」
「そういう場所なのでは?今まで誰にも行きあいませんでしたし」
巴御前が、窓の外に視線を向けながら答える。
マスターも店内を見回して首を捻った。巴御前が警戒して席に着かないのとは違い、案内もなく座っていいのか判断しかねるといった様子だ。刑部姫はテーブルに置かれたメニューを広げて「作ってくれる人いないのかぁ」と残念そうに独りごちた。
店内中央で清姫を伴って見回したマスターが、カウンター席に手をかける。清姫が腕を引いて、マスターを呼びとめた。
「店の御方、お戻りになるのでしょうか」
「どうだろう…巴御前の言う通り、そういう場所なのかもしれない」
「どっちにしても、姫は座って待ちたいな。いいよね、まーくん」
二人の後ろから声をかけた刑部姫が、マスターに先んじて店内を一番見渡せる奥のテーブル席に早速、陣取った。刑部姫が勢いよく椅子を引いたが、店に異変はない。刑部姫が斥候も兼ねて着席した事を理解した、ヘクトールと巴御前は視線を交わし、マスターを顧みた。
「店主が出かけてるか元からいないかは解らんが、座るのは問題ないんじゃないかい」
「そうですね。お料理……は心元ないですが、お茶なら巴も準備出来るかと」
「それなら私が」
マスターを席に案内して座らせた清姫が、ささっとキッチンに回り込もうとする。跳ね戸をそっと押し開いて入ってみたが、キッチンもしんとして、異変の気配もない。
客をもてなす準備だけ万端にして誰も彼も立ち去ってしまった、奇妙な雰囲気に包まれている。奇妙なだけで、無害である。サーヴァントたちの警戒が緩んだのを感じて、マスターは席から店の中を改めて見回し、呟いた。
「注文の多い料理店みたいだな」
「姫知ってる。自分で下ごしらえして食べられに行く話でしょ」
「そうそう」
マスターは笑い、メニューを広げた。無害だがどことなく落ち着かない店内の雰囲気を、あまり怪しんでいる様子はない。肝が据わったのか、咄嗟の事態に慣れてしまったのか。戦場の僅かな間に憩いを求める兵士の面影を見るようで、ヘクトールはうっすらとした淋しさを感じた。
ヘクトールがカルデアに召喚された当時のマスターは冒険者の面差しをしていた。未曾有の危機に立ち向かう果敢さは無謀に等しく、マスターも無謀だと自覚していないところがあった。無謀は冒険者の特権である。見知らぬ、嵐の海に乗り出す航海者の横顔は時間神殿でゲーティアと戦う瞬間まで変わらなかった。
マスターの物腰や表情に兵士の翳りが見え始めたのは、異聞帯世界にたどり着いた後からだ。彼の魂を疲弊させる戦いが続いているのだ。無意識に疲弊していくマスターの感覚が、ヘクトールには否が応でも理解ってしまうのだった。解るからといって、彼に寄り添えるというものでもない。ヘクトールはランサーのサーヴァントとして、戦場での参謀として、彼に助言を与える事しか出来ない。マスターもそうだと知っていて、ヘクトールを頼りしているが頼みには思っていないと伝わってくる。そんな物わかりの良ささえ、ヘクトールにはどことなく寂しく感じるのだった。
その感傷は、多分自分だけのものではなく、この場にいる誰しもが抱いている。キッチンでコーヒーを用意する清姫も、配膳のためにトレイを持って待っている巴御前も、メニューを見ながら話しかける刑部姫も、そして店内に入らず外で待つアキレウスも、それぞれに似たような感傷を抱いてこの場にいる。
力にはなれても寄り添えはしないと解っていて、各々のやり方で、少年の側にいる。恋に狂う清姫ですら、サーヴァントとしての一線を本能的に理解している。こんなに寛いで優しい場所ですら、マスターは孤独だった。
(だがそれでいい、亡霊の心をアテにして生きるなんてのは、ろくでもないからな)
ヘクトールはカウンター席に陣取った。入り口から斜めに位置する席からは、ポーチに座るアキレウスの背中が見える。
「コーヒー、どうぞ」
マグカップを乗せたトレイを持って、巴御前が声を掛けてきた。礼をして受け取り、もう一つ、アキレウスの分を受け取る。
「奴さんには、俺が持ってくよ」
「そうですか?ではお願いします」
ぺこりと頭を下げた巴御前が、テーブルに向かう。ヘクトールはカウンターのスツールから降りて、ポーチに向かった。背中で、楽しげに会話するマスターたちの声が聞こえてくる。
入り口まで来ると、店内の物音はほとんど聞こえなかった。さあさあと降り注ぐ柔らかい雨を眺めるアキレウスは、近付いてきたヘクトールを顧みず、不動のままだ。
「建物内に異常はなかった。しばらく休憩するそうだ」
「そうか」
ヘクトールは隣に腰を下ろした。アキレウスにマグカップを差し出すと、アキレウスは意外そうにヘクトールを見やり、受け取った。
アキレウスの物理的な距離は、そのまま、マスターに対する遠慮と距離だった。マスターのさっぱりした性格と馬があったのか、召喚されて程なくマスターの頼れる兄貴分の一人になったアキレウスだが、実際のところ、マスターの心情に共感できているわけではない。やはり半神の英雄として生きて死んだアキレウスには、選ばれたのではなく選択肢として残されたに過ぎないマスターの心情は、想像もつかないのだろう。頼られる事は快く受け入れても、マスターに寄り添える存在ではないと厳密に自認しているのを、ケイローンとヘクトールだけは知っていた。もちろん、本人が語ったのではない。アキレウスの様子を見て、気付いただけだ。
アキレウスとヘクトールのマスターに対するスタンスは、似ているようで根本的に違う。楔であるマスターという存在を介してまったく対照的な自分とアキレウスの立ち位置に、ヘクトールは世界の作為を感じてしまった。座においてどのように扱われているのかサーヴァントのヘクトールには認知出来ないが、召喚された後の在り方を見れば察しは付く。
カルデアの召喚において、自分の存在は間違いなくあの大英雄の触媒となったのだろう。どこかで、彼が自分の触媒となる場面があったかもしれない。サーヴァントの存在感──世界に対する重みは、場の偏りを形成する。しかし、戦局や道理や運命にバイアスが掛かるのは望ましくない。マスターが申し訳なさそうにしつつも、ヘクトールとアキレウスを並べて連れて行くのは、マスターの感覚として理に適っている。
ヘクトールが理に適っているから受け入れたのと同じで、アキレウスも相応しい連れ合いだと認めて容認している。そもそもアキレウスは、ヘクトールに対して平静さを保とうとらしくない努力をしていた。早晩、自壊する無駄な努力で磨り減ってもらっては困るので、察知した時点で石つぶてを投げ当てて小馬鹿にしてやったために、アキレウスとの関係性は最悪で最良となった。マスターのためにもアレはやっておいて良かった、とヘクトールは自分の英断を内心で讃えた。
淹れてあったコーヒーからは、カルデアで飲むのとは違う苦みと香りがして、ヘクトールは十分暖かいコーヒーを少しずつ啜る。アキレウスは手をつけずに、明るい空から絶えず降り注ぐ雨に煙る景色を見つめている。こんな天気に遭遇するのは、ヘクトールも初めてだった。雨雲がかかっている場所に溜まった雲の水分がさあさあと溢れていき、ひとしきり注ぐと雲は解けて薄らぎ、晴れ間が覗く。だが次の雨雲がすぐに集まってきて平べったく広がり、なみなみと湛えた水分がひと息に地上に降り注ぐ。
「誰かがじょうろで水まきしてるみたいな天気だ」
アキレウスは呟いて、マグカップに口を付けた。横顔に、好戦的な英雄の表情はない。休憩の一時に心身の緊張を解き、寛いでいる。普段見る顔立ちよりどこか幼く見えるアキレウスに、ヘクトールは「ふうん」と可笑しそうに相槌を打った。
「……なんだよ」
「君は詩人にはなれないなと思っただけさ」
「うるせえな」
アキレウスは口先を尖らせて言い返し、はにかむように口を曲げる。ここに来るまでに濡れた髪がしんなりと萎れて、額に若麦色に光る髪が張り付いていた。水も滴るいい男、というマスターの故国の言い回しを思い出して、ヘクトールは揶揄めいた笑いを浮かべてしまう。完璧な均整と造形を備えたアキレウスの美貌の強度と、絶え間なく続く雨の儚さは不思議な釣り合いをみせて、アキレウスの苛烈ではない情緒豊かな一面を浮き立たせている。それは、ヘクトールにとって、好ましいとも疎ましいとも言い切れない側面だった。戦いに臨む以外のアキレウス──詩人曰く、父プリアモスの嘆願に心動かされ涙したという、情に脆く弱い一面の表れなのかもしれない、ヘクトールが知り得なかったアキレウスの表情に対して、自分がどう感じているのかヘクトールも未だに解らない。何も感じていない、と言い切ってしまいたいのだが、そうもいかないようだった。
現に今、アキレウスの静かな眼差しを興味深く眺めてしまっている。
「この特異点を解決したら、次に行くのか?」
「さぁ。進路を決めてるのはマスターとカルデアだからねぇ。まだまだ寄り道するかもしれない」
「確かに、マスターには寄り道が必要かもしれねえな」
「へぇ」
やや意外なアキレウスからの答えに、ヘクトールが軽く眉を上げた。
「なんだよ」
「君がそんな事言い出すとは思ってもみなかったからさ」
「アンタ、俺をなんだと思ってんだよ」
「なにって。戦闘狂、大食らい、無自覚傲慢ヤロウ、持ちすぎの英雄、協調性皆無サーヴァント、あとは…」
アキレウスへの悪評を思いつく限り指折り数えて読み上げるヘクトールに、アキレウスが片脚の先で脛を軽く蹴っ飛ばしてきた。
「あーもういい、もういい。くそ、言いたい放題言いやがって」
「間違ってないと思うけど?」
「協調性に関しては努力してる」
「ええ〜、そうかなぁ〜?」
「テメェなぁ……」
揶揄うのをやめないヘクトールの軽い悪態にアキレウスは憮然と呆れてから、短く首を振った。
「俺だって、マスターの力にはなってやりたいさ。力になれる自信はある。だが、今のマスターに必要なのは『そういう』力じゃないだろ。どっちかと言えば、アンタの方が向いてる。俺は、俺として必要される時に駆けつけられればいい」
「はは、オジサンも全然向いてないよ。マスターの槍になれても、あんなふうには、ね」
ヘクトールは店内を顧みた。刑部姫が作った折り紙たちでゲームを始めたらしい、テーブルで楽しげに一喜一憂する歓声を交えた会話が聞こえてくる。ぴったりと隣に寄り添う清姫、気さくな態度で話しかける刑部姫、そんな三人を見守る巴御前、ああした場がヘクトールはやんわりと苦手だった。飄々と混じれる自信はあるが、マスターの心を解す言葉を自然と紡ぎ出せるとは思えない。
視線を感じてヘクトールが振り向くと、アキレウスが黙って見つめていた。今の、感傷を滲ませた顔を見られていたのだと知ってヘクトールは軽薄な笑いで誤魔化し、正面に向き直った。
「残念ながら俺も君も、平和や寛ぎとは縁遠い存在ってわけだ」
シニカルにヘクトールが呟く。コーヒーを啜り、止まない穏やかな雨と恵みを受けて生き生きと枝をしならせるレインツリーの木陰を見やる。生き物の気配は皆無だ。ここには過去の亡霊たちと、マスターの少年しかいない。優しく、穏やかで、寛げるが、どこまでも寂しい空間だった。
「日常に寄り添う何かに、なりたかったのか?」
唐突にアキレウスが尋ねてきた。ヘクトールが視線だけ振り向くと、アキレウスは真剣な目で見つめ返してきた。つい、せせら笑ってしまいそうになったヘクトールだが、向けられた眼差しの真摯さに、彼が大賢者の弟子だと思い出す。真面目な質問を笑いに誤魔化すのはやめて、ヘクトールは視線をやや俯かせた。
「何かに、なれたらよかったがなれなかった。俺はそういう男の影法師だ。もしも彼らに寄り添えていたなら、君とここでこうして、並んでいなかっただろうさ」
ぼそぼそと呟いたヘクトールは、つやつやと揺蕩うコーヒーを見下ろし、目を閉じる。
家族も、臣下たちも、皆が、城門に出た自分に戻ってくれと懇願した。長年護りつづけた日常や平穏のすべてが「戻れ」と叫んでいたのに、自分は聞き入れなかった。アキレウスを討ち取ることを、選んだのだ。
「ヘクトール」
呼びかけられて、ヘクトールが振り向く。アキレウスの濡れた髪が額に触れて、熱く湿った唇が素早く唇の先に触れて、馥郁とした後味の残る舌を舐め取っていった。束の間の短い口づけに、アキレウスの方がはにかんでいた。
「アンタの選択は間違っちゃいない。アンタの意志であり、俺の意志だった。運命なんかじゃなくてな」
「全然、嬉しくないねえ」
はにかむアキレウスの表情から喜色を読み取ったヘクトールが、心底嫌そうに呟く。苦々しく見返す視線にアキレウスは屈託なく笑う。
「今、アンタと俺はこうして隣りあって、雨宿りしてる。それがすべての答えだろ」
「……まあね」
アキレウスの直截的な答えに、ヘクトールはそう答えるしかなかった。突っぱねたところで、サーヴァントとして同じマスターの元、縁で繋がっている事実は覆せないのだ。ヘクトールが軒先から空を眺めると、薄い雲間を通して雨の向こうの、青空が透けて見える。しかし、細やかな雨は止む気配がない。まだしばらくは、ここで雨宿りになりそうだった。
店内から「ご飯の支度をしますよ、二人とも」と巴御前が声をかける。先にアキレウスが立ち上がった。
「……だとさ。中に入ろうぜ」
「へいへい」
立ち上がるヘクトールの腕を、アキレウスが当たり前のように掴んで引っ張り上げる。あまりに自然な仕草で引っ張り起こされたヘクトールは、思わず「あーあ」と溜息をついた。
「?なんだよ?」
「別にィ」
何も解っていない顔をして怪訝そうに見てくるアキレウスを一瞥すると、ヘクトールはわざとらしい返事と共に肩をすくめ、ダイナーの中に引き返していった。
- 2 -
*前次#
TitleList