祈ってやまない



風が草木をくぐり抜け、その香りが鼻腔をくすぐる。
髪を柔らかに揺らすその優しさに、戦乱の終わりを改めて実感した。

「ねえ、陸遜」

隣で一緒に腰を掛ける彼に呼びかける。
同じく正面を向いていたその顔が、凱風に目を細めながらこちらに微笑みかけた。

「どうかしましたか」
「…平和、だね」
「ええ、そうですね。戦は終わりましたから」
「あ、でも陸遜は忙しいんだよね、今は今で…」

これまで都督として周瑜殿や魯粛殿、呂蒙殿らと共に呉をけん引してきた。
戦が落ち着けば、彼らは国内での政務に明け暮れることになる。
現に今、孫堅殿や孫策殿の支援を受けながら、孫権殿を中心とした新たな呉が生まれつつあった。

「私の身を案じて下さるのですね。ありがとうございます」
「だって…少し、寝不足なんじゃないの?」

そう言いながら、隈がうっすらと確認できる目の下を指で示す。
彼は笑って否定するけれど、政務室の明かりは消えることがないと聞いた。
きっと夜通し仕事をこなしているのだろう。
私はそういったことに一切精通していないから、何も力になれない。
そのもどかしさでいっぱいになるのだけど、その気持ちを打ち明けても<一緒にいてくれるだけで充分ですよ>と、やんわりと制されてしまう。
それが思い出されて下唇を噛んで堪えていると、恵美殿、と優しく呼ぶ声が耳に届いた。

「そんな顔をしないでください」
「私も、陸遜の力になりたいよ」
「でもこうして、」
「会うだけじゃなくて。支えたいの」

真っすぐ彼の目を見つめる。
普段の陸遜は自分に不都合があっても、決して相手から目を逸らすことがない。
私であっても上司であっても。
そんな彼が何かを思案するように視線を落とし、口元に指を添えて黙り込んでしまった。
きっと考えがあるのだと、彼の返答を待つ。
ふわりと風が私たちの間を通り抜けた頃、不意に膝に重みが感じられた。

「……っ、陸遜?」
「そうですね、確かに最近の私は睡眠不足かもしれません」
「…そう、でしょう」
「今は…貴女さえ良ければ、こうさせてください」

足元から聞こえる声に、緊張から体が強張る。
平静を装って彼に応えるけれど、膝に乗せられた温もりに、動揺を隠しきることができない。
そんな私の気持ちを察してか、彼が私の頬に手を伸ばし、撫でるように触れた。

「…陸遜が、いいなら」
「充分すぎるくらいです。ありがとうございます」

微笑む彼は、頬に伸びた手はそのままに、再び目を細め微笑んだ。

「…私が、なぜこうして政務に励んでいるか、わかりますか?」
「周りの方々からの期待に応えるため?」
「それもありますが…ちょっと違いますね」
「じゃあ…どうして?」
「…それは、恵美殿。貴女ですよ」

彼の手が触れている部分が、より熱を帯びるような感覚。
彼の真意がわからず、でも恥ずかしくて、それなのに彼から目を逸らせなかった。

「貴女と一緒に過ごす時間を、少しでも増やしたいのです」
「わたし、と…?」
「戦の間、ずっとつらい思いをさせてしまいましたから」
「それは、そんな風に言われることじゃない、当たり前のことで…」

当然だけど、戦の最中は隣にすらいられないし、帰って来るまで待つのは当然だ。
そこで陸遜が申し訳なく思う必要などない。
それなのに彼は、眉尻を下げながら私を見つめ返している。

「私がいつ帰って来れるかもわからない中、貴女はいつも同じ笑顔で迎えてくれました」
「それは、私ができる数少ないことだから…」
「お待たせしていた間、つらかったでしょう」
「実際に戦ってる陸遜の方が大変だよ」
「いえ、貴女の方が…」
「だから陸遜の方が」
「………」
「………ふ、」

ふふ、と、どちらともなく笑いが零れる。
これではいくら言っていてもきりがない。
それだけお互いに、お互いのことを考えているのだろう。

「でもね、陸遜。つらいのは、今何も手助けできていないことだよ」
「恵美殿…」
「私にできることは数少ないってわかってる。でも、だからこそ、その少しでいいから…」
「恵美、それ以上は」

私の言葉を遮るように、彼の長い人差し指が私の唇に触れる。
恥ずかしさが沸き上がって来て、頬を真っ赤にしながら口をつぐんだ。
彼は人差し指をそっと離すと、再び微笑んで私を見上げた。

「貴女の気持ちは、よくわかりました。貴女にそのような気持ちを抱かせていたなんて…私もまだまだ未熟ですね」
「陸遜…」
「これからは、もっと貴女に甘えます。遠慮なく」
「…うん。そうしてくれると、嬉しいな」
「…いや、これからは、ではなく、今から…でしょうか」
「…うん?」

膝の重みが少し増した気がする。
彼は私に体重を預け、ゆっくりと目を閉じていく。

「早く与えられた任務を片付けて、貴女に会いに行きたいと、そう思っているんです」
「…そのために?」
「はい。でもさすがに、簡単には終わらせられず…」
「呉の復興も兼ねてるんだもの」
「そう…ですね。でも、こうして貴女と、一緒に過ごせることが…」
「…陸遜?」

彼の徐々に声が小さくなり、不安から名前を呼んだ。
…返事はない。
どうしたのかと顔を寄せて確認しようとすると、急に口角が上げられた。
そしてその目は、しっかりと私を捉えていた。

「今の私の、一番の幸せなんですよ」

ふと視界が暗くなり、右頬に一瞬何かが触れる。
動揺する私から離れる彼は、少年のような爛々とした笑顔を浮かべていた。

「油断、しましたね?」
「も、もう…!恥ずかしいよ…」
「貴女のそんな反応が可愛らしくて…またしてしまいたくなるんです」
「陸遜…!」

…だけど、私も同じだ。
彼の仕事ぶりからは想像つかないような、明るい笑顔。
もっと彼に笑っていてほしくて、そのためなら何でもしてあげたい。

「……ふあ」
「休んでいいよ、陸遜」
「…すみません。せっかくの時間なのに」
「だからこそ、だよ。寝れるなら、休んでほしいな」
「…ありがとうございます」

帽子を取り、そっと頭を撫でる。
こうしていると、国をまとめあげる立場とは思えないほど、あどけない顔をしている。
そんな表情を私に見せてくれていることが、とても嬉しかった。
彼はもう一度欠伸を噛み殺すと、小さく寝息を立て始めた。

「…いつもお疲れ様、陸遜」

皆大変だけど、彼の、仲間の力で、呉という国がますます反映しますように。
そして彼にとって、これからも一番の理解者でありますよう。
彼の穏やかな顔を見つめ、そう願わずにはいられない。

大好きな人と国が、幸せでありますようにと。



「おお、朱然に徐盛…なんだ、周瑜までいたのか」
「…しっ!声が大きいですよ、殿」
「……?そうだ、陸遜を見かけなかったか?」
「陸遜は…あちらに」
「あちら…と、いるのは恵美ではないか」
「ええと…今、お休み中で」
「何、体調が優れないのか?だから早く休めとあれほど」
「だから声が大きいですって、殿!」
「なっ…どうしたお前たち、揃いも揃って…」
「やれやれ、空気を読んでくださいよ、孫権殿」
「ふふ、殿はしばらく気付かないかもしれないな」



title by 確かに恋だった 1724



EHL.