隣の芝生はあおい

 数週間前から、葵くんとのお付き合いが始まった。小さい頃から家が近所で、葵くんのことはもう飽きるくらい見ていると思っていたのに、付き合い始めた途端、なんだかへんになった。葵くんの体ってこんなにおっきかったっけ、葵くんの顔つきってこんなに男の人だったっけ、葵くんの声ってこんなに低かったっけ。まるで葵くんがいきなり成長したみたいに思えた。本当に変わったのは葵くんじゃなくて私のほうなのに。
 恋というのは盲目になるものだと聞いていたのに、昔の人達は嘘つきだ。
 恋を知ってから、葵くんの男らしさ、とか、自分とは違うところ、が、よく見えて、見えすぎて、困ってる。

「お邪魔します」
 今日はテスト前なので、葵くんに勉強を教えるという名目で葵くんの家に来た。私を出迎えたのは、葵くんのお姉さんだった。
「だから服着ろっつってんだろ!」
 藤堂くんはそう言って「すまん汚ェもん見せて」と謝ったけれど、私はその女性らしい体つきに釘付けになっていた。豊かなバストに、くびれのあるウエスト、肉付きのいいヒップ。まさに「出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる」体型だった。それから自分の体を見下ろすと、悲しいくらいすとんと一直線なブレザーが目に入った。こんな体を見慣れていて、あまつさえ「汚ェもん」と言ってしまう葵くんに、私の貧相な体なんか見せられない。絶対幻滅されてしまうに決まっている。ぽかんと虚無顔で惚けていたら、いつの間にか葵くんの部屋に通されていた。
 抜かりなくお茶やお菓子が出されて、勉強会が始まったので、私も気を取り直して葵くんの勉強を見た。
 葵くんは授業中ほとんど寝ているから定着していないだけで、地頭はそんなに絶望的というわけではない、と思う。私のたどたどしい教え方でも、葵くんは要点を掴んでくれる、昔から。
「数学はこの公式と、あと教科書の……」
 教科書を指した私の手と、ペンを握る葵くんの手は、一回りくらい大きさが違う。手のひらは豆だらけで、拳も硬そうで、手を繋いだら私の手なんかぺちゃんこにされちゃいそうだと思った。この硬い手で触られたら、どんな感じなんだろう。
 葵くんの手に見とれてぼうっとしていたら、名前を呼ばれた。
「アチィか?」
「あっ、う、うん……ううん、大丈夫」
「この部屋クーラーねェんだよな」
 葵くんはそう言って、自分のほうが汗をかいているのに扇風機の向きを調節してくれた。その首筋を伝う汗の滴に私は釘付けになった。葵くん、首太いな。筋張っているそこに顔を埋めたらどんな匂いがするんだろう。
 また不埒なことを考え始めてしまったのに気づき、私は頭を振って「次は国語しよっか」と話を転換した。
「国語、記述問題のカバーは今からじゃ無理だと思うから、そこは捨てて点取れそうなとこ詰め込んでこ。でも記述問題も時間が余ったら何かしら書いたほうがいいよ。ダメ元でも部分点もらえるかもだし」
「国語って答え決まってねェから苦手なんだよな」
 がしがしと頭をかいた葵くんの腕は筋肉質で、その腕に抱かれた時のことを考える。身体中どこもぷにぷにしてる私と違って、葵くんの身体は硬くて厚い。その腕に食べられるみたいに力強く抱きしめられたら……
「おい、マジで大丈夫かよ?」
「えっ……」
 はっと葵くんの顔を見ると、その唇に目が吸い寄せられた。葵くんの身体の中で唯一柔らかいそこは、一体どんな……
「だい、じょうぶじゃ、ない!!」
 私はバン!と教科書を閉じると、慌てて荷物をカバンの中に突っ込んで「今日はこれで!!」と葵くんの部屋を飛び出した。「お邪魔しました!」と大きな声で挨拶をしてそのまま外階段を駆け下りる。
 私、本当にどうしちゃったんだろう。こんなことばっか考えて、変態みたいだ。もしこんなこと考えてるって葵くんが知ったら、気持ち悪く思うに決まってる。葵くんにも失礼なことだし、絶対嫌われる。恋人になるまではこんなことなかったのに、なんで。
「もう嫌だっ……」
 私は泣きそうになりながら家までの道のりを全力疾走した。



「いい加減にしろよ」
 大ピンチに見舞われた私は俯いて自分の爪先を見ていた。ここ最近気まずくて葵くんを避けていたら、とうとう廊下の隅っこに追い詰められてしまった。
「なんかあんなら言えよ。『察しろ』っつーの、俺はムリだぞ」
「ち、ちが……」
「あんだけ露骨に避けといて何が違うんだよ」
 ヤンキー上がりの葵くんはすごむと迫力があって怖い。私がびくっと震えると、葵くんはため息を吐いて身体を離した。
「……理由も分からずに避けられンのってこんなにキツイんだな」
「っ……」
「怒らねェから思ってることあんなら言えよ。あとあんまり露骨にされっとこっちも……」
「ち……違うの!」
 私の大きな声にびっくりしている葵くんにもう全部打ち明けてしまおうと思った。自分が恥ずかしいのと葵くんが傷つくの、天秤にかけたらどちらに傾くかなんて、答えは最初から分かってる。続けて口を開こうとして、ここが公共の場だということを思い出した。
「葵くん、今日、おうちに行っていい?」
 話したいことが……と言いながらずいっと葵くんに迫ると、今度は逆に葵くんが後ずさって身構えた。
「……べつに良いけど……」
 私はもうヤケクソになった気持ちで葵くんを見つめた。

 一週間ぶりに来る葵くんのおうちは、今日はしんと静まり返っていた。
「あれ、おうちの人は……?」
「姉貴は仕事。妹は泊まり行ってる」
「そう、なんだ……」
 葵くんの部屋で座って待っていると、葵くんがグラスに入った麦茶を出してくれる。
「ありがと……」
 窓を開けたり扇風機を調節したりしている葵くんに「避けててごめんね」と言うと葵くんはちらりとこちらを見た。
「……私、へんで……」
「ヘン? どこが」
「葵くんと一緒にいると、その……変なことばっか考えちゃって……」
「……変なことって……」
「葵くんのからだ……筋肉とか、唇とか、そういうとこばっか見ちゃって……、き、気持ち悪いよね。引くよね……」
 じわっと涙が浮かんできて、葵くんの顔がぼやけた。葵くんは今、どんな顔してるのかな。
「……葵くんに潰されるくらい抱きしめられたいなとか……葵くんの汗の匂いってどんな感じなのかなとか……葵くんの唇ってどんな感触なのかなとか……」
 恥ずかしくって俯くと、ごくりと葵くんが息を飲む音が聞こえた。



 目をうるませながら震える恋人を前にして、藤堂は頭をフル回転させていた。この状況、自分の返答ひとつで地獄にも天国にもなり得るということは直感的に分かった。
 不安そうに見つめてくるなまえを安心させるために早く答えてやらなければならない。この後どれだけ完璧な返しをしたところで、返答が遅かったら「本当にそう思ってるのか」と怪しまれるに違いない。
「ぜ……全然変じゃねェし気持ち悪いとも思わねェよ」
 なまえの表情に安堵と疑いの色が混じる。もう一押しだ。
「俺のほうがお前で抜いてっから安心しろよ。質・量ともにお前にゃ負けねェ」
 あ〜〜失敗した〜〜、と藤堂は思った。残念なことに短時間で上手い返しができるほど頭の出来は良くない。
「葵くんはどんなこと考えるの……?」
 しかしなまえは引いた様子もなく、藤堂ににじりよってきた。暑さのせいか興奮しているからか、その頬は紅潮している。
 ここでまた藤堂は選択を迫られる。正直に答えるか、当たり障りのない部分だけ申告するか、のらりくらりと受け流すか。お互いに恥をかかなくて済む選択は受け流すことだろう。しかしそうすればこの先にあるかもしれないボーナスステージはきっとやってこない。残されたのは、引かれるのを覚悟で正直に答えるか、良いとこ取りができそうな過小申告の二択である。……いや、予防線なんてダセェこと言ってらんねェだろ。リスクなんて考えるのは性に合わない。
「……お前の小っせェ口に舌突っ込んだらどんな声出すのかと、か……」
 ちゅ、と小さなリップ音が鳴った。言語化すんのクソ恥ずいなと考えていたところ、口に柔らかいものが当たった。藤堂が固まっていると、「……分かんなかった、からもう一回……」となまえが呟く。再びちゅう、と唇に湿ったものが押し付けられる。眼前には目を瞑ったなまえの顔がある。まるで子ども同士の戯れのようなキスに、藤堂はむらむらと湧き上がってくる気持ちを抑えることができなかった。
「っ……」
 なまえの顔を手で固定すると、噛みつくように唇を覆って、舌を捩じ込もうとする。がち、と歯が当たった。それでも強引に熱い口内に滑り込ませた舌をなまえの舌に擦り合わせる。舌を押し付け合うだけの拙いキスだった。それでも、自分の身体の一部がなまえの身体の中に入っているのだと思うだけで藤堂は目眩がするほど興奮した。
「んう……」
 なまえが鼻に抜けるような甘い声を出した。離れようとすると今度はなまえが唇と舌を押しつけてくる。扇風機の風が当たっても冷めないほどの熱が藤堂の身体の中にわだかまっていた。なまえの身体が触れているところが、溶けていきそうなほど熱い。机の上に放置していた麦茶のグラスの中の氷がからんと音を立てたころ、ようやく口を離すと、お互い汗だくになっていた。
「ひりひりする……キスってこんな感じなんだね」
 唇に指を当てて笑うなまえの顔が、知らない女に思えた。
「……水分摂れ。ぶっ倒れんぞ」
 グラスを持たせるとなまえは半分ほどを飲んだ。藤堂もグラスを煽って冷たい麦茶を流し込む。なまえが上下する藤堂の喉をじっと見つめた。
「うオ!?」
 いきなり首筋に顔を埋められ、藤堂がびくりと肩を飛び上がらせた。その上すうと息を吸われる。
「おいっ……汗クセーだろ」
「葵くんの汗の匂い……」
 なまえはぼうっとした目でとろりと藤堂を見つめた。どきりと心臓がきしむ。引き剥がすこともできずにいると、ぺと、と湿ったものが首筋に触れた。それは汗の滴をなぞるようにつう、と首を這う。ぶちんと何かが切れる音がした。
 藤堂がなまえの身体を手でまさぐり、胸の膨らみに触れると、なまえが身をよじった。
「やだっ……」
「なんでだよ。お前も触っただろ」
「だって私、おっぱい大きくない……」
「はあ?」
「豊胸運動してるからもうちょっと待って〜」
「……手伝ってやるって」
「やっ……」
 なまえの小さくて柔らかい身体を手のひらで味わっていると、なまえがぴくりと身体を震わせた。
「どうやってんの」
「ンっ……」
 なまえが身体を動かしたことで、ごり、と硬くなったものがなまえの腰に当たった。それに気づいたらしいなまえが真っ赤な顔で見つめてくる。変な心配してたみてェだが、べつに大きくても小さくても平等に興奮するから安心しろ。
「っ……」
 ごくりとなまえが喉を上下させる。二人で見つめ合っていると、突然ガチャガチャと玄関が騒がしくなった。
「葵〜帰ってんのか。今日シフト変わったから飯よろしく」
 突然聞こえた身内の声に、ばっとなまえから身体を離して藤堂はブルブルと震えた。
「葵〜? 返事しな」
「わァったよ!!」
 藤堂がそう怒鳴りつけると、居住まいを正したなまえが顔を赤らめて「私、もう帰るね」と呟いた。
「ああ……」
 確かにこれ以上どんな顔して二人で過ごせばいいか分からなかったので、藤堂は玄関までなまえを送った。
「あれ、来てたの」
「はい。お邪魔しました」
 逆上せたような顔で笑ってなまえが出ていく。ぱたんと閉じたドアを見ていると、横合いから声をかけられた。
「邪魔した? 悪いね」
「黙ってろよッ!!」
 部屋の中には藤堂の切実な叫びが響いた。


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