新刊サンプルA(WT,全年齢)

01.おとなとこども 【東 春秋】

 高校を卒業すると同時に上京した私は、夢にまで見た都会生活を謳歌していた。受験が終わると早々に一人暮らしをする家を決め、卒業式を終えるなりさっさと新幹線に乗り込んだ。新幹線の中では涙一つ浮かばなかった。それより、新しい場所と生活にときめきしかなかった。
 私は三門市が大嫌いだった。
 ある日突然私たちの「日常」が壊された日のことは今でも覚えている。私の家が受けた被害は少ないほうだったけど、避難所で心細さに親と身を寄せあった日々は今も忘れられない。親には何度も県外、せめて市外に出ようと言ったが、親は慣れ親しんだ土地だからと疎開することを拒んだ。
 だから私は県外の大学を受験し、高校を卒業すると同時に故郷を捨てた。「捨てた」と非難されたってよかった。あんなところには帰りたいとも思わなかった。私からしたら非常識なのは未だにあの街に住んでいる人たちのほうだった。とにかく、私はあの街やそれにしがみつく人たちのことが大嫌いだったのだ。
 しかし、親に泣きつかれ、とうとう帰省しなければならないときがやってきた。しかも一週間も。大学一年の間は何かと理由をつけて結局お盆もお正月も帰らなかった。しかし大学二年の夏休みに入り、とうとう親から涙混じりに顔を見せろと言われ、新幹線のチケットまで送り付けられ、私は渋々帰省していた。
 車窓の景色に見慣れた風景が増えていくたびに憂鬱になっていく。私は浮かない顔で実家に帰った。歓喜する親にばつが悪い気持ちになりながら、一緒に夕飯を食べていた。すると、親の口からありえない言葉が飛び出した。
「大学を卒業したら、こっちに戻ってくるんだろう?」
 私はあんぐりと口を開けて、親の顔を見つめた。何も疑わず私を見つめる親の視線に、私は一気に食欲をなくした。
「……ありえないから。私はこの先何があっても三門には戻らない」
「また、そんなこと……」
「……お母さんたちこそ! 早くこんなとこ出なよ! まだ侵攻だって完全におさまってないんでしょ⁉」
「……でもねえ、意外と平気なのよ。ボーダーの人たちが頑張ってくれてるから……」
 大嫌いな「ボーダー」の名前を出されて、私はテーブルに箸を叩きつけた。
「……あの日のこと、もう忘れたの⁉ またあんな目に……いつ遭うかも分からないんだよ⁉」
「……心配しすぎよぉ」
 そんなふうに言われ、私は反射的に椅子を蹴飛ばすように立ち上がっていた。
「どこに行くの?」
「……コンビニ!」
「ボーダーの公式アプリはダウンロードしてる? サイレンが鳴ったら最寄りのシェルターを案内してくれるから……」
 私は親の言葉を遮るように力いっぱいリビングのドアを閉めた。
 みんなおかしい。こんなとこ、早く出ていった方がいいのに、何事もなかったみたいに、いや、見ないふりをしてるみたいに過ごして、こっちの方が「おかしい」「過剰」みたいな空気を出してくる。何かあってからじゃ、遅いのに……それを、私たちは、四年前に痛いほど知ったはずなのに。
 玄関を開けると、隣の家の人がドアの前に立っているのに気づき、反射的に会釈をした。すると、訝しむように名前を呼ばれた。顔を上げたら、そこには幼いころに何度か遊んでもらった隣の家のお兄さんがいて。
「……はるちゃん⁉」
 予想外の懐かしい顔に、つい幼いころの愛称で呼んでしまう。
「久しぶり。帰ってたんだな」
「あ……久しぶり……です」
 もうとっくに大人の男性なのに「はるちゃん」なんて。子どもっぽくて恥ずかしさに俯くと、「大きくなったなあ」と言われ、そっと視線を上げた。
「なんかそれ、オジサンみたい。いつぶり、ですっけ?」
「敬語はいいよ。お前が中学生の時……以来か?」
「そんなに前⁉」
「早いよなぁ」
 うんと見上げないと目が合わない高身長のお兄さんは、「どこ行くんだ」と聞いた。
「あ……えと……コンビニ……」
「……俺も一緒に行っていいか。久しぶりだと危ないだろ、ここは」
「うん、もちろん」
 二人で並んで歩く。お兄さんは手足もすらっと長くて、同級生にはない落ち着きがあって、緊張でドキドキした。
「東さん……も、帰省?」
「もう『はるちゃん』って呼んでくれないのか」
 そうからかわれて、私は「もうっ!」と笑いながら袖を引っ張った。
「冗談。だけど遠慮はいい。呼びやすいように呼んでくれ」
「じゃあ……春秋くん、て呼んでいい?」
「いいよ。あとさっきの質問の答えは、ちょっと親の様子見にきただけ」
「そっか」
「いつ帰るんだ?」
「一週間後」
「結構長い帰省だな。その間はなにするんだ?」
「たぶんずっと家にいるよ」
「……友達と遊んだりとか」
「地元に残ってる人とはほとんど連絡とってないから」
「懐かしい場所に行ったり?」
「瓦礫の山見たって仕方ないでしょ」
「……じゃあ、親孝行するんだな」
 そう言われて、つい重いため息を吐いてしまう。
「……どうした?」
「さっき喧嘩したばっか」
「若いな」
 春秋くんに笑われるのは、嫌な気分にならなかった。それどころか、私までつられて笑ってしまう。
「ずっと家にいる……けど、気まずいなあ」
 そうこぼすと、春秋くんは考え込むように顎に手を当てた。
「……じゃあ、明日俺と遊ぶか?」
「えっ!」
 そう提案されて、私は弾かれたように顔を上げた。
「お前はつまらないかもしれないけど」
「行くっ!」
 食い気味にそう返すと、春秋くんはまた笑った。

(中略)

「そうだったんだ……春秋くんって今どこで働いてるの?」
 何気ない質問だった。まさかあんな答えが返ってくるとは思ってもいなかったから。
「大学院とボーダーの二足のわらじ」
 まさか、ここで、春秋くんの口からその名前を聞くことになるとは思わなくて、私はぽかんと惚けた。呆然としながら「なんで」と問う。言葉足らずな質問だったけど、春秋くんはおおよそ正確に私の質問の意図を汲み取った。
「なんで? ……楽しいから、かな」
 ぞわっと肌が粟立つ。私は立ち上がると、「もう帰る」と言った。
「どうした?」
「春秋くん、おかしいよ! なんであんなところで……楽しい、って、何? あんな侵略者と戦って、何が楽しいの?」
「……落ち着け」
「帰る! さよなら!」
 春秋くんは私の名前を呼んで、私の手にそっとその大きな手のひらを重ねた。
「引いてる」
 そこでやっと手の中で釣り竿がぴくぴくと震えていることに気づいて、私はうろたえた。
「えっ、えっ、どうし、どうしたらいい⁉」
「ここを巻く。ゆっくりな」
「こ、こう?」
 ゆっくり、慎重にリールを巻いていると、透き通った水に薄らと魚の影が見え始めた。
「わ、ほんとにかかってる……!」
「だろ?」
 水面近くまで引き揚げると、春秋くんが魚を網ですくって、釣り針を外すとバケツの中に放した。
「うわあ……! 魚だ……!」
「魚だな」
 春秋くんに喉の奥で小さく笑われながら、バケツの中で窮屈そうに何度も身を翻しながら泳ぐ魚に目を奪われた。そんなに大きくはない魚だったけど、うろこを煌めかせながら自由自在に泳ぐ姿は綺麗だった。三門市の万物に対して頑なだった私の心を動かすほど。
「見て! 私が釣った!」
 魚を指さしながら春秋くんに笑いかけると、春秋くんはとうとう噴き出して大きく笑った。
 そこで、さっきまで怒っていたのだと思い出したけど、今さらさっきと同じ熱量で怒れないので、私はばつが悪くてまた折りたたみ椅子に座った。
「……ボーダーは嫌いか?」
「きらい」
「そうか」
「……三門市も、きらい」
「そうか」
 私がそう言っても、春秋くんはたしなめるでもなく、今までと同じテンションで海を見つめていた。
「春秋くん」
 私はつんつんと釣り竿を揺らしながら春秋くんを呼んだ。春秋くんは「なんだ」と言った。
「お腹すいた」
「ん」
 春秋くんは腰掛けていたクーラーボックスの中からビニール袋を取り出した。行きがけに寄ったコンビニで買ったやつ。春秋くんはおにぎりの皮をむくと、私の口元に運んだ。差し出されるままにかじりつくと、春秋くんがふっと笑った。
「……可愛いな」
 危うく誤嚥してしまいそうになって、私は慌ててまだちゃんと噛めてないおにぎりを飲み込んだ。
「魚みたいで」
「……春秋くんて、モテないでしょ」
 じとりと横目で睨みながら、たぶん春秋くんはモテる、と私は思った。

(後略)



02.言わない男と聞かない女
⚠親族の死に関する描写、宗教勧誘の描写

 近界民による第一次侵攻がおこなわれたとき、私は両親とともに自宅にいた。何の変哲もない、日曜日だと、そのときが来るまでは思っていた。
 瓦礫の下敷きになった私が助かったのは、両親が私を庇うように私の上に覆いかぶさっていたからだ。私は、少しずつ冷えて固まっていく両親の体の重みとともに、救助されるまでの数十時間を過ごした。
 病院はどこも怪我人で溢れかえっていて、比較的軽傷の私は怪我の処置が終わるとすぐに退院を余儀なくされた。でも、私は途方に暮れてしまった。どこに行けばいいのかわからなかった。家はつぶれてもうないし、避難所の案内もされたけれど、そんなところで今日から一人で過ごすのは不安で、考えると気が狂ってしまいそうだった。
 そんなとき、私に声をかけてくれたのは、幼なじみの匡貴のお母さんだった。匡貴のお母さんは、母親(匡貴のおばあちゃん)の付き添いで病院に来たと言っていた。
 病院で、途方に暮れたように立ち尽くす私と、私の家のあった地区(もとは匡貴の家のあった地区でもある)の状況を見た匡貴のお母さんはすべてを察したらしく、「無事でよかった」と私を抱きしめてくれた。匡貴のお母さんは幼いころから親交があって第二の母親のようなものだったし、温かい体温に包まれて体の力は少しだけ抜けた。でも私は泣けなかった。ぼうっと惚けてされるがままだった。
 「これからどうするの?」と訊かれて俯いた私に、匡貴のお母さんは「落ち着くまで、うちに来る?」と言った。匡貴の家族は、去年引っ越して新しい家に移ったばかりだった。その口ぶりから、匡貴たちは被害を受けなかったのだとホッとする。
「でも……」
「避難所で一人なんて、不安だわ。寒いし治安もあまり良くないらしいし。嫌じゃなかったらいらっしゃいよ。匡貴もきっと安心するわ」
 そう説得されて、私はまだぼうっとしたまま頷いた。そうして匡貴の家にお邪魔すると、みんな痛ましそうな顔で私を見て、口々に「無事でよかった」と言ってくれた。でも、私は「よかった」なんて到底思えなかったから、へらりと笑って黙っていた。
 二宮家はみんな私のことを歓迎してくれた。匡貴も、優しい言葉をかけたり大袈裟に励ましたりはしないけどなんとなく目に入るところにいてくれた。そんな、匡貴なりの距離での寄り添いは、少しだけ私を落ち着かせた。つくづく、いい人たちだと思う。
 怪我をした私のために、匡貴のお母さんがお風呂の介助までしてくれて、着替えやご飯もいただいて、その日は私だけ一階のリビングに布団を敷いて寝た。匡貴のお母さんは私もここで寝ようかと言ってくれたけれど、どうせ眠れないだろうし、これ以上気を遣わせるのも申し訳なくて断った。
 私以外の人たちが二階に上がっていったので、私も電気を消して布団に入った。知らない部屋の天井や、カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりをぼうっと見つめてただ寝転がっていた。意識して何も考えないようにする。そうしないと、どこまでも転がり落ちていってしまう。そこから這い上がる術を私は知らない。
 眠れないだろうと思っていたが、数日ぶりにちゃんとした布団で眠れることと、ここ数日の心身の疲労から、私はいつの間にか微睡んでいた。
 両親がいた。私が駆け寄ろうとすると、両親は笑顔のままどろりと溶けていく。私が両親を掬いあげようと手を動かすたびに、両親だったものは原型を留めないほどぐちゃぐちゃになっていく。
「―ッ!」
 目を開けると、知らない天井で混乱する。はっ、はっ、と呼吸が不規則になっていく。お父さん。お母さん。
「ひゅ、はっ……」
 なんで家じゃないところで寝ているのか。私の家はもうないからだ。なんであんな夢を見たのか。両親はもういないからだ。
「あ、うー……」
 そう記憶の整理が行われていくうちにぼろぼろと涙がこぼれていった。ああ、泣いてしまった。
 そっと名前を呼ばれ、私は反射的に顔を跳ね上げた。静かに傍に腰を下ろしていた匡貴の体に縋りつく。
「う゛ぅーー……」
 匡貴がぎこちなく私を抱きしめると、落ち着かせるように背中を撫でた。
 匡貴のパジャマを涙でべちゃべちゃにしたところでようやく疲れきって涙も出なくなった私を、匡貴はそっと布団に入れた。
「今日はずっとここにいる。少し寝ろ」
「手、握ってて……」
 匡貴が手を握って、傍で見張っててくれてやっと、私は眠ることができた。
 それ以降、私は匡貴が傍にいないと寝ることができなくなった。夜中に悪夢で飛び起きては匡貴を求める日が続いた。
「匡貴っ! どこっ、来て! 来て!」
「また見たのか」
 匡貴はいつも文句も言わずにパニックになった私を抱きしめてなだめてくれる。
「わた、私、ここ、いる?」
「いる。ほら、手握ってるだろ」
 私の手を取った匡貴の手をきつく握りしめる。
「お、お父さんとお母さんがいる、私だけ助かったから怒ってる……」
「おじさんとおばさんがそんなこと言うわけねぇだろ」
 匡貴がそんなのただの夢だときっぱりと一蹴して、寝るまで傍にいてくれないと眠れない。
 本当はすぐに親戚の家に引き取られる予定だったのに、私が眠れないしパニックを起こすし、病院に罹っても匡貴以上に効果のある薬や治療法は見つからないしで、昔から親交があった匡貴のお父さんとお母さんが高校を卒業するまでは居候を続けていいと申し出てくれた。私が訊いても、匡貴のお父さんとお母さんが訊いても、匡貴もそれでいいと言った。私はこれ以上迷惑をかけられないと辞退しようとしたが、匡貴のお母さんはあっけらかんとしたもので「まあこの子タフだから大丈夫よ」と笑っていた。通院は続けること、大学生になったら一人暮らしまたは親戚の家に引っ越すことを条件に、私は匡貴とひとつ屋根の下で暮らすことになった。

 高校を卒業し、大学に進学した私は一人暮らしを始めていた。親戚は県外にしかいなかったし、何より……
 そっと名前を呼ばれながら揺り起こされ、私は「おはよう……」と答えた。匡貴は慣れた手つきで私を抱え起こすと、ぎゅっと私のことを抱きしめた。
 私が匡貴の家を出ると同時に、匡貴も一人暮らしを始めた。私の隣の部屋を借りて、今でも毎朝匡貴は私がパニックにならないように抱きしめてくれる。だから、私が一人暮らしを始めても何の支障もないということだ。
 匡貴は、勘違いされやすい態度をしているけど、優しいし責任感の強い人だ。だから、この歳になっても私の面倒を見てくれる。幼なじみとして、「親を亡くした哀れな女」として。
 悪夢を見なくなったのは、二年前の、高校三年の冬だった。それからずっと私は、その代わりにこの手を匡貴の背に回す夢ばかり見ている。

「今日は一緒に帰れない」
「もう、大丈夫だって。私もう大学生だよ?」
 向かい合ってトーストを齧りながら、今日の予定をすり合わせる。匡貴は今日もボーダーの任務があるらしい。
「私も今日はサークルに行くから」
「帰りは遅くなるのか?」
「うーん、たぶんみんなでご飯行くだろうから、少し遅くなるかも……」
「そうか……二十二時を越えるなら連絡しろ。迎えに行く」
「もう、だから大丈夫だって! 子どもじゃないんだから……」
 食べ終わったお皿をまとめて流しに持っていく。洗い物は匡貴に任せて、私は身支度を進めた。
 そのまま二人で登校して、学部棟の前で分かれると、私は友人のもとに向かった。
「また二宮くんと来てたでしょ」
「うん……だって二宮くんが迎えに来るから」
「だからってもう大学生でしょ」
 呆れたようにそう言う友人にはにかむと、友人は「二宮くんだって彼女できそうなんでしょ? そろそろ独り立ちしないと」と続けた。
「え……?」
「あんた聞いてないの? 最近二宮くん、佐藤さんにめちゃくちゃアピールされてるし、今までみたいにバッサリ拒否したりしてないんだって……」
 ほら、と指さされた方を見ると、匡貴と同期の中でも可愛いと評判の佐藤さんが喋りながら歩いているのが窓から見えた。
 匡貴に、恋人ができる。そう思った私が最初に考えたことは、「どうやったら匡貴は私とずっと一緒にいてくれる?」ということだった。私は自分のその思考に心底ぞっとした。これじゃダメだ、匡貴から離れなきゃ。私はぎゅっと手を握りしめると、匡貴の背中を見つめた。

「ごめんね、送ってもらっちゃって」
「いいって。てか本当に近所だったんだな」
 帰りが遅くなったので、方向が同じサークルの同期に部屋の前まで送ってもらった私は小声でお礼を言った。
「あ……お茶でも、」
 「飲んでいく?」という言葉は、隣の部屋のドアが開く音にかき消された。顔を覗かせた匡貴に、同期が目を丸くする。
「マジで部屋隣なの? 冗談だと思ってたわ」
「あはは……」
 匡貴はぎろりと私を睨むと、「連絡をしろと言っただろ」と言った。
「スゲ〜、これが噂の幼なじみブロックか〜。ま〜でも大丈夫スよ、今後は俺が送るんで」
 同期は私の肩を叩くと、「お茶はまた今度」とささやいて帰っていった。
「おやすみ! 気をつけてね!」
 そう声をかけた私を、匡貴は冷たく見下ろした。
「あ……あのね、匡貴に言わなきゃいけないことが……」
「……入れ」
 ドアを大きく開けた匡貴に、私は「ここでいい!」と慌てて言った。
「あの……私、もう大丈夫だから」
「……大丈夫?」
「だからね、朝も起こしに来てくれなくていいし……もう夢もあんまり見ないし……学校も一緒に行ってくれなくて大丈夫、とにかく、私は一人で大丈夫だから」
 そう伝えると、匡貴は何事かを言おうとするように薄く口を開けたが、結局すぐに「……わかった」と言った。呆気なくも、これで私と匡貴の繋がりは途絶えてしまったのだった。

 ごろり、と今度は左半身を下にして寝返りを打つ。カチカチという時計の秒針の音が気になる。うっすらと目を開けるともう窓の外は明るくなりはじめていた。
「寝れない……」
 はあ……とため息をつく。匡貴を避けるようになってから、私はすっかり不眠になってしまった。悪夢にうなされることはないけれど、単純に寝付けない。眠りが浅い。これ以上寝転がっていても無駄だと思った私は、重い体を引きずって起き出した。
 不眠の原因は、やはり匡貴だろうと思った。でも、私に不足しているのは本当に「匡貴」なのかというのが今の私にとっての懸念事項だった。もしもただ「他人の温もり」がほしいだけだとしたら……相手が匡貴じゃなくてもいいのだとしたら? それで問題はすべて解決するではないか。やはり実証実験が必要だ。
 私は携帯を操作すると、マッチングアプリに登録した。

「これお前だよな」
 今朝方登録したばかりのマッチングアプリのプロフィール画面を見せられて、一瞬なんの話かと思った。時間差でそういえば登録したなあと思って……登録した時点で半分満足してしまって忘れていた……「うん」と頷くと、同期に大きめのため息を吐かれた。
「……このアプリはヤリモク多いからやめとけ」
「そうなの? そういうの全然わからなくて……じゃあ削除するね」
 その場でアプリから退会すると、「あれってマジなの」と聞かれる。
「うん?」
「ソフレ募集ってやつ」
「うん。添い寝フレンドって言って……」
「それは知ってるわ。なんで?」
「うーん……最近あんまり寝れてなくて、人肌恋しい、みたいな?」
「……なら俺がなってやろうか」
 同期にじっと見つめられて、私は首を振った。
「お友達は、関係がこじれちゃった時に面倒だから」
「あー……それでマチアプ、ね」
 苦笑いした同期は、私の目の下のクマをなぞった。
「んじゃ、今日こそ茶でも飲み行く?」
「あはは、いいよ。行こっか」

「マジで大丈夫?」
 帰り道、寝不足の頭が重くてフラフラしながら歩いていると、心配そうに顔を覗き込まれた。
「うん、多分……」
「重症じゃん」
 私の体を引き寄せて支えてくれる同期に少し凭れると、「あの話さ」と切り出された。
「ん……?」
「絶対手は出さねぇし、一回試してみねえ? それでお前が寝れたら儲けもんじゃん」
 ああ、添い寝の話か。アパートの外階段をほとんど引っ張りあげてもらいながら上る。
「でも……」
 やっと上りきった、と思ったら同期にぎゅっと抱きしめられた。
「普通に心配なんだよ。試す価値はあんじゃねーの」
 他人の体温とか、鼓動の音が心地いい。確かに、これなら眠れるかもしれない。「匡貴じゃなくてもいい」って思えたら、それだけで私にとっては大きな一歩なんだから。
「うん……」
 半ばうとうととまどろみながら頷きかけた時、グイッと強引に後ろから引き寄せられた。こんなに強引なことをする人は一人しか知らないし、嗅ぎなれた洗剤の匂いがして、「匡貴……?」とつぶやく。
 匡貴は同期に冷たく一瞥をくれると、「世話になったな。あとは俺がやる」と言って私の腕を引っ張った。
「あー……えーと……またね……?」
 回ってない頭でとりあえず同期に手を振る。同期もぽかんとしつつ手を振り返してくれた。

「お前、寝てないだろ」
 私をベッドに座らせた匡貴は、テキパキと私と自分の服をゆるめた。
「一緒に寝てやるから、少し寝ろ」
「いいよ……大丈夫だから」
「どこが大丈夫だ」
 ギロッと睨まれて、私は口をつぐんだ。
「大丈夫……ではないけど、恋人でもないのに匡貴がここまでお世話してくれるのはおかしいっていうか……匡貴だって恋人とか……いるでしょ?」
「恋人になればいいのか?」
「そういう話じゃなくて……」
「話を逸らすな。それが一番の解決策だろうが」
「……匡貴のことは好きだし大切な人だけど、私は匡貴のこと、そういう対象として見たことないから……」
「だろうな」
「ていうか匡貴だってそうでしょ? だから私のお世話焼くために付き合おうとまでしなくたって……」
「いや、俺はお前のことが好きだ。だから問題ない」
「もっ……」
 その言葉に私の眠気は一撃で吹き飛んでいった。問題大アリじゃない⁉
「え……えっ」
「性欲もある」
「え⁉」
 余計ダメじゃん!
「別にお前からの見返りは求めてない。だからお前は気にせず俺を使え」
「そ、そんなのダメだよ……! 匡貴がしんどいでしょ……!」
 私が匡貴に返せるものがあるかわからないのに、匡貴の優しさにつけ込むようなこと。今までだって私は匡貴の優しさに甘えきって生きてきたのに。
「お前、俺以外のやつにかすめ取られるのとどっちがマシだと思ってるんだ」
「……」
 あまりの気迫に黙り込んでしまった私を、匡貴が優しく抱きしめ、ベッドに寝転がる。
「いいからとりあえず寝ろ」
「まって……」
 必死で抗おうとしたけど、優しくとんとんと背中を撫でられ、落ち着く匡貴の匂いと温度に包まれて、私は瞼の重さを支えることができなかった。無意識に匡貴に擦り寄り、匡貴の鼓動の中で、私は何一つの憂いも不安もなく眠ってしまっていた。
 これまで、どんな夜だって匡貴がいてくれたら大丈夫だったように。

(後略)



03.初恋と忠誠 【ヒュース】

 風に揺れる可憐な花のように美しく、強く、気高い彼に、初めて会ったときから私は目を奪われていた。だから、私は彼に『イオン様』という愛称をつけた。彼にぴったりの、美しい花の名だ。彼の本当の名前を知ったのはそれから少ししてからで、それでも私の中では彼はずっと麗しい『イオン様』だった。
 そして、私は今日、初恋の彼と結婚をする。
 玄界との同盟関係において重要な役割を任されている彼と、ベルティストン家の配下として長く忠義を貫いている我が家。これは、言うなれば「政略結婚」だった。この婚姻には、エリン家の当主が「神」になるのを免れ肩身が狭くなった今でも「裏切るな」という監視の意味が強い。……そういう意図があることはわかっている。でも、まさか私が彼の伴侶になるなんて、そんなことが起こるなんて信じられなかった。
 もともとは私の姉が嫁ぐ予定だったのだが、姉は体が弱く、その代わりとして私に話が回ってきた。それに対する彼の反応は「どちらでも構わない」で、彼にとっては結婚ですらも主君への忠義の道具なのだとわかった。そういう人だというのは評判から聞き及んでいたので、本当に真面目な方なんだと思った。元々は平民の出身ながら、ヴィザ様に剣を習い、若くして「蝶の楯」の適合者となり、軍人としてエリン家のために尽くしている。私が彼について知っていることはこのくらい。
 対する私は、トリオン能力も器量も平凡で、これといった特技もない。トリオン能力は子に遺伝しないのだから、まさしく彼にとっては「誰でもいい」相手なのだが、妻となったからには、彼のためにできる限りのことはしよう、と決意した。

 婚姻に関する儀式を終え、今日から私たちは私たちのためにあつらえられた新居で暮らす。今宵は初夜だ。
 湯浴みを終えると侍女たちが私を飾り立て、部屋から出ていく。私はそわそわと落ち着かない気持ちで寝台に座った。
 肌に纏うのは職人の手によって作られた繊細な布で、さらさらとした手触りと、肌が透けてしまうほどの薄さが特徴の下着だった。その下は裸で、ほとんど衣服としての意味を成していないそれに、私はつい自分の体を抱きしめた。侍女が部屋を温めてくれたから寒くはないのに、体が震える。
 ああ、あのイオン様と、ついに私は―
 しかし、待てど暮らせどヒュース様はやって来ない。侍女の話だと半刻もすればやって来るという話だったが。寝台でまんじりともせずに待つ。既に時刻は天頂を過ぎていた。
 そして、ヒュース様は結局その日おいでにならなかった。
 翌朝、控えめに部屋に入ってきた侍女が、一人でいる私を見て怪訝そうな顔をする。
「ヒュース様はお帰りになったのですか」
「えっとその……」
 乱れた形跡もないシーツを見て、侍女がぴくりと眉を寄せた。
「……まさか」
 苦笑いをこぼした私に、侍女は憤った。
「あ……有り得ません! 昨夜は初夜ですのよ⁉ ヒュース様はなにをお考えになって……!」
「その気にならないということもありましょう……ごめんなさい、せっかく飾り立ててくれたのに」
 潤んだ瞳で私を見つめる侍女は、私にそっと衣服を差し出した。
 正直に言うと、ショックは大きかった。でも、ヒュース様からしたらこの婚姻は仕事の一環なのだから、それもそうかと納得する気持ちもあった。私はただ、ヒュース様のお邪魔にならないように、求められた時だけお相手をすればいい。そこに私の感情は必要ない。

 その日の夜、誰になにをせっつかれたのか、婚姻の儀ぶりにヒュース様が顔を見せた。夜の挨拶をすると、「昨日は悪かった」とあまり反省していなさそうな……というより、何か悪いことをしたとは思っていないような顔で言われる。
「お気になさらないでくださいね……」
 私は笑いながらそう言った。それは偽らざる本心だった。
「ヒュース様は、やや子についてはどのようにお考えを?」
「ゆくゆくは作らなければならないだろう」
 やはり、今のヒュース様にとって最も大切なのはお仕事で、今すぐに子作りをするつもりはないようだ。私たちはまだお互いに若いのだから、焦る必要もない。
「ならば私も、無理にする必要はないかと考えます。子を作るタイミングについては、二人で話し合って決めましょう」
「いいのか」
「でなければ提案しておりません。妻となったからには、ヒュース様のお役に立ち、家のために生きていく覚悟です」
「……そうか。わかった。理解に感謝する」
 ヒュース様は頭を下げる所作さえ美しく、つい見とれてしまう。私は小さく頭を振って雑念を追い払うと、意を決してヒュース様の名前を呼んだ。声が震えないように必死で虚勢を張る。
「結婚生活を営む上での決め事を作りたく思います」
「……決め事?」
「お互いに、これだけは譲れないという条件を決めるのです。円満な家庭を築くためには必要かと」
「たとえば、何が望みだ?」
「……朝ごはんは一緒に食べること」
 ヒュース様は奇妙なものを見るような顔で私を見た。
「お時間は私が合わせますので、ヒュース様はお好きなタイミングでお食べください。ただ、一緒に食事を摂ることを許可いただければ」
「……食事くらい一緒に摂る」
「それと……毎日寝る前の挨拶をさせてくださいませ。こちらも、私がヒュース様をお待ちしておりますので、ヒュース様はお気になさらずお過ごしください」
 ヒュース様はいよいよ不可解そうな顔をして頷いた。
「……オレにとっての不都合が何一つないが」
「それは良うございました。ヒュース様も、私になにか求めることがあればなんでもおっしゃってくださいね」
 微笑んでそう伝えると、ヒュース様は「……思いついたら言う」と頷いた。

(中略)

 後半はほとんど夫への愚痴大会になってしまい、空気と化していたサロンから帰宅する。今日はいつもより疲れたので、少し自室で休もうと廊下を歩いていると、偶然ヒュース様が何方かと通信をしているのを見てしまった。
 アフトクラトルでは見たことのない通信機器を使用しているし、通信相手の映像には見慣れない衣服や建造物が見える。ヒュース様が一時期捕虜として捕われ、今は二つの国を結ぶ大使として仕えている、玄界との通信に違いない。
 邪魔をしてはならないとその場を離れようとしたのだが、どうにも仕事の話をしているようには見えなかった。というより、相手はほとんど獣を連れた幼子が話している。どうして子どもがと気になってしまってそっと様子を窺っていると、通信画面に女性が映りこんだ。
「こら、陽太郎。一応定期連絡の通信なんだから、あんたばっか喋ってんじゃないわよ」
 彼女はぽこんと頭を小突き、「ヨータロー」と呼ばれた幼子の前に割り込むようにして顔を覗かせた。
「ヒュース、あんたそっちでちゃんとやってんの?」
「問題ない」
「なにが『問題ない』よ! 察して甘えんボーイのくせに!」
 ヒュース様と同じ年頃の可憐な女性だ。ヒュース様ともひどく親しげに会話をされている。ヒュース様のこともよくご存知のようだし、ヒュース様はあちらの世界でこのような関係を築いていたのだと、初めて知った。
 それは、妻として、エリン家に仕える者として、喜ばしいこと、のはずなのに。
「心配するな、オレは一人ではないからな」
 そのときの、ヒュース様の慈しむような表情を、私は、初めて見た。
 ……ああ。彼女の前では、そのような顔をなさるのだ。離れていてもなお、お二人の間には強い絆があるのだ。隣にいても、「妻」とは名ばかりで、ヒュース様のことを何一つ知らない私とは大違いだ。
 きっとあの女性は、可憐で聡明で芯が強く、優しい心をもった方なのだろう。通信越しに見ただけだったが、それでもなんとなくわかった。ヒュース様があのような表情を向けるお方なのだから。
 私は気づかぬうちに握りしめていた手から力を抜くと、服の裾をそっと離した。

「ヒュース様、決め事を一つ追加してもよろしいですか?」
 おやすみの準備を整えながらそう声をかける。「なんだ」と答えるヒュース様に、私は意を決して切り出した。
「もしもヒュース様に、他に慕うお相手ができたら、私はそれを認めます」
「……どういうことだ」
「子を残すためには、そちらの方が効率も良いですし……とにかく、私は気にしませんので、お気遣いは不要です。私は……」
 あなたが幸せになってくれたらそれでいいの。その相手が私じゃなくても。
 昼間に見た、あの素敵な淑女は、きっとヒュース様のお相手としても相応しいだろう。そう思っての進言だった。ヒュース様にとって私は「誰でもいい」相手なのだから。そう、思っていたから。
「すまないが、それ以上喋るな。不愉快だ」
 思いがけないヒュース様の冷たい声に息が詰まって、言葉は途中で体の中に押し戻された。おろおろとヒュース様を見つめると、ヒュース様は不快そうに眉を寄せ、私をじっと見た。
「オレが不貞をするような人間に見えるのか?」
「い……いえ、そのようなことは……!」
「……今日は部屋に戻る」
 私は寝室を出ていくヒュース様を呼び止めることもできずに、一人部屋に取り残された。
 やってしまった。違うの。私はただ、ヒュース様のことを思って……
「……最悪だわ。本当に、ヒュース様への侮辱ね」
 項垂れて自己嫌悪に苛まれる。
 だって、どうしたって考えてしまう。ヒュース様ほどの殿方のお相手が、本当に私なんかでよかったのか。他に、もっと綺麗で、気が利いて、ヒュース様が甘えられるような、お似合いの女性がいるのでは……
 そんなことを考えていると、結局一睡もできぬまま夜が明けてしまった。そのまま食堂に向かったが、結局朝食のときにもヒュース様が会話を拒絶するような態度だったので声をかけることができず、言葉を交わせないままヒュース様を見送った。

(後略)



04.水と油 【水上 敏志】

「まお……げっ」
 室内に目を走らせて、そこにいた水上と目が合った女は分かりやすく顔を歪めた。
「マリオなら出てんで」
「見れば分かります」
 女の刺々しい声も気に留めず、水上は自分が座っている椅子の向かいを顎で指した。
「すぐ戻ってくるし、座って待ちや」
「廊下で結構です」
 ぴしゃりと取り付く島もなく鋭い一瞥をくれたのちに出入り口から退いた女に、水上はため息をつきながらやれやれと腰を上げた。本当に廊下の先を見つめながら細井が帰ってくるのを待っている女の首根っこをむんずと掴む。
「まま、そんなこと言わずに先輩の相手してや」
「はあっ? ちょっと!」
 水上は身長の差を利用して、そのまま女をずるずると作戦室に引きずりこんだ。
「そんな義理は私にはないんですけど⁉」
「ええやんかちょっとくらい。マリオに仲良うするように言われてるやろ?」
 細井の名前を持ち出すとぐっと言葉を詰まらせる分かりやすい女は、渋々椅子に腰を下ろした。
 この女は細井の親友で、細井と仲の良い生駒隊の隊員に並々ならぬ対抗意識を燃やしている。特に水上に対して。
「なあ、イコさんたちへの態度は軟化してるやん。なんで俺だけトゲトゲしてんの?」
「うさんくさい。信頼できない」
 一刀両断。
 水上ははあとため息をつくと、頬杖をついた。
「どういうところが? こうやって改善しようとする姿勢は褒められるべきものやろ」
「私が嫌がるって分かっててそういうこと言うとこ」
 きゅるんと可愛げのある表情を作った水上に、女は吐き捨てるようにそう言った。
「なにが嫌やねん」
「だから、私はあなたとは関わりたくないんです。放っておいてください」
 呆れた顔の水上が次に放った台詞は、女にとっては炸裂弾ほどの威力をもっていた。
「そもそもおまえが絡まれ待ちするから俺が絡んでるんやで」
 その言葉の意味が理解できず、「は?」と固まる女に、水上はつらつらと言葉を続ける。
「本当に俺が嫌やったら近づかんかったらええ話やろ。今日だってわざわざ作戦室に来んでもどっか別の場所でマリオと待ち合わせたらよかったやん」
「そ、れは……!」
 反論しようとした言葉は、目の前の男によってきっと一手で絡め取られてしまうのだろうと思うようなものばかりで。結局何も言えなくなってしまった女は、悔しさに歯噛みした。
 それを見て、水上は王手を宣言するように余裕たっぷりに笑った。
「ぎゃあぎゃあ言うくせに俺に甘えてて、かわいいなあ?」
 小馬鹿にしたように笑う水上に、女はわなわなと体を震わせた。二人はしばらく言葉を交わさずに、睨み合うようにお互いを見つめていた。
 と、そんな殺伐とした雰囲気の作戦室に細井が戻ってくる。珍しく水上と対峙している友人に目を向けると、「あれ、来てたん」と声をかけた。
「真織っ……」
 一秒前まで睨み殺さんばかりの形相を浮かべていた女は、ころりと表情を変えて弱々しい顔を浮かべた。
「水上先輩が嫌なこと言うんっ……」
「後輩いじめたらアカンで」
「こわあ……」
 変わり身の速さに肩を竦ませる水上をその場に残し、女二人は身を寄せ合いながら作戦室を後にした。
「そんで、何されたん?顔真っ赤やで」
 十分に作戦室から離れたところでそう聞かれ、女はぐっと唇を噛みしめた。
「ほんとあんたは損な性格しとるよなあ。もう少し正直になったら?」
「真織には言われたくないっ……」
 まるでこの頬の赤みは塗料のせいだとでも言うかのように、女は乱雑に手の甲で頬を擦った。

(後略)



05.ふたり 【村上 鋼】

(前略)

「お待たせ」
 家まで迎えに来てくれた村上くんに微笑む。着付けはちょっとだけお母さんに手伝ってもらったけど、髪の毛やメイクは自分でやって、一番かわいい私になったつもりだ。
「かわいい……」
 じっと私を見る村上くんに「えへへ」と笑う。
「どれくらいかわいい?」
「そのセリフがもう……水槽の中に飾っておきたいくらい」
「水槽⁉」
「……今だいぶ変なこと言ったな⁉ その、先輩の趣味でアクアリウムとか見てるから……ごめん」
「ううん、嬉しいよ……」
 赤くなった顔をうつむかせると、ペディキュアを塗った爪先が目に入る。村上くんの髪の色、とか、バレたら気持ち悪いかな。そっと足を引いて裾に隠そうとする。
「行こっか」
 私たちは歩いて祭りの会場に向かうと、出店を一つ一つ見て回った。
「だいぶ人が増えてきたな」
「うん。侵攻のあとしばらくお祭りも開催できてなかったんだけど、最近復活したから……みんな嬉しいんだよ」
 村上くんに笑いかける。
「村上くんたちがいつも私たちのために戦ってくれてるからだね」
「……ありがとう」
「お礼を言わなきゃいけないのは私の方だよ〜」
「……おまえのそういうところが、好きだ」
 ストレートな好意をぶつけられ、カーッと体が熱くなって、また顔が赤くなってしまう。
「あ……暑いね」
「そうだな……」
 ふたりしてぎこちなく歩いていると、いつの間にか人が増えて混雑している地帯にさしかかっていた。
「わ……!」
 人波に押されていると、手首をがっしりした手に掴まれる。
「こっち」
 村上くんに触れられている、と思って胸を高鳴らせるよりも先に、お腹の締めつけが緩くなったことに気がついた。
「あっ……!」
 後ろ手に帯を押さえていると、それに気づいた村上くんが私を道端に誘導してくれた。
「どうした?」
「お、帯が……」
「……解けた?」
「く、崩れてるくらい、かも。今は」
 でも、帯は難しくてお母さんに手伝ってもらったから、一人で直せない。
「ど、どうしよ……」
 おろおろしていると、村上くんが、「とりあえず、こっち」と路地裏に私を連れ込んだ。
「オレが直していいか?」
「村上くん、できるの……⁉」
 神の助けが、と思ってキラキラと村上くんを尊敬の眼差しで見つめる。
「今のみたいなかわいいやつはできないけど、オーソドックスなやつなら多分……」
 難しい顔で帯を見つめている村上くんに、「お願いします!」と頼む。
「じゃあ、解くな」
 するっと解けかけていた帯が完全に解けてしまって、心もとない感じがする。襟元が崩れないようにギュッと押さえておく。
「苦しくないか?」
「うん、大丈夫! ていうか、もっとキツくてもいいかも……」
「ん」
 村上くんの手つきには迷いがない。シュッシュッと衣擦れの音がしばらくしていて、それが止むと、ポンと帯を叩かれた。
「これでどうだ?」
「み、見たい見たい! 写真撮って!」
 村上くんが撮ってくれたバックショットを確認すると、きちんと帯がまとまっている。
「すごい……! 村上くん、着付けもできるの……⁉」
「何があっても大丈夫なように、昨日、動画で予習しといた」
 こんな場面さえ予想して対策しているなんて、やっぱり村上くんはすごいなと思っていたら村上くんが急に顔を真っ赤にして、手で私の視線を遮った。
「……変なこと言ったな。悪い、忘れてくれ……」
 今、村上くん変なこと言ったかなあ? と思ったけど、村上くんはこれ以上触れてほしくなさそうだったから黙っておく。
「……戻ろうか」
 まだやや赤いままの頬で村上くんが大通りの方を指さす。私は、今しかないと思って村上くんの袖を引っ張った。
「あ、の……!」
「どうした? 足痛いか? 休憩する?」
「えっと、その……!」
 さっき村上くんが触れてくれた手首がじんと熱くなる。大丈夫、きっと、村上くんだって、嫌じゃない、はず。
「手……つないでいい、かな」
「あ、ああ……はぐれたら大変だしな」
 そう言って手を差し出してくれる村上くんに、「ちがうの」と首を振る。
「人が多いから、じゃなくて……私が、村上くんに触れたいの」
 思いきって、正直な気持ちを伝える。すると、少し赤みが引いていた村上くんの頬がまたぶわわっと赤くなった。
「……意気地なくてごめん、オレも……おまえに触れたい」
 村上くんの真っ直ぐな視線が私の視線を絡めとる。村上くんは、私に手のひらを差し出した。
「……触って、いいか?」

 半歩先を歩いて、人混みの盾になりながら、私の手を引いてくれている村上くんの背中を見つめる。きゅって手に力を入れたら、それ以上の力で握り返してくれる。するっと指と指を絡めて恋人繋ぎにしたら、村上くんの指がぴくっと震えて、手から力が抜けた。むうと口を尖らせて、ギュッと握りしめる。すると今度は壊れ物を扱うように弱々しく握り返された。

(中略)

 ギシ、とベッドがきしむ。村上くんがベッドに手をついて、私に覆いかぶさった。村上くんの影に体がすっぽり囚われる。
「村上くん……?」
 村上くんの真剣な顔にドキッと心臓が跳ねた。村上くんの顔がそっと近づいてきて、村上くんの瞼が見えた。
 唇に柔らかいものが当たる。私はただ体を動かさないように、息を詰めてじっとしていることしかできなかった。村上くんの唇がふっと離れたので、やっと息を吸うと、もう一度村上くんにキスをされて、今度は、口の中に、ぬるっとしたものが入ってきた。
 びくっと体が跳ねる。びっくりして目を開けたら、また村上くんの瞼が見えた。私の舌に村上くんの舌が絡みつく。にゅるにゅるして、気持ちいい。
 村上くんは唇を離すと、そっと目を開いた。
「……あんまり、煽るようなことしたら、我慢できなくなるから……気をつけて」
「い……良いと思います……!」
 初めてのキス、それも、舌を使うやつにすっかり魅了された私はキラキラと瞳を輝かせながら村上くんを見つめた。もう一回、してくれないかなあ。
「なんで受け入れるかな……」
 困ったように笑った村上くんに、「我慢しないでいいのに」と言う。
「それは……するよ」
「なんで?」
「女の子だから」
 その答えに納得できなくてむうっとしていると、村上くんがちょっと笑った。
「おまえは、体もオレより小さいし、力だってオレより弱い。……だから、本当は嫌でも、拒否できないかもしれない」
 「おまえが『してほしい』『してもいい』って言うこと以外、俺からはしない」と気風よく言い切った村上くんに、私は「村上くん……」と呟いた。「村上くんから全然求めてくれない」って拗ねてた自分が恥ずかしい。村上くんはこんなにも私のことを大切にしてくれているのに。
「じゃあもう一回チューして」
「えっ」
 てことは、私がちゃんと「したい」って言えばいいのか、と思ってそうおねだりをすると、村上くんは体を強ばらせた。私はすっと目を閉じて村上くんを待った。
「……今日はもうダメだ……」
「なんで⁉」
 話が違うな⁉ と思って目を開くと、村上くんは顔を赤らめて、目を逸らした。
「……エロいこと、したくなるから……」
 そう言われて、私もぶわわわ、と顔に熱が集まる。
「……女の子がしたいことと、男がしたいことは、違うと思う、から……」
「村上くんがしたいことって、どんなこと……?」
 我慢できなくてそう訊くと、村上くんは「エ」と固まった。
「知りたい……」
 ドキドキしながらじっと村上くんを見つめると、村上くんはじわっと瞳を潤ませて顔を赤くした。
 か、かわいい。村上くんのいろんな表情、もっと見たい。

(後略)