目眩



新学期。退屈なホームルームでは退屈な委員会決めが行われていた。みんなやる気なさそうに早く枠が埋まらないかと待っていて、ほとんど仕込みのように決まった学級委員が困った顔で黒板の前に立ち尽くしている。内申点の欲しい者によって早々に「楽」な委員会が埋まり、残るのは不人気なものばかりだった。刻々と過ぎていく授業時間に焦れた担任が助け舟を出し始める。
「三輪、おまえ去年図書委員だったろ。どうだ?」
「はい……いいですけど」
「じゃあ男子の図書委員は三輪な。女子は……」
「はい」
ほとんど条件反射だった。自分でも挙手をしてしまったことに驚いていた。そして「三輪」の隣に並ぶ自分の名前に、どこか気恥ずかしさを覚えたのだった。



図書委員といえば、結構な頻度で昼休みや放課後の図書室当番が回ってくる、「地味なのに大変」で不人気な委員会筆頭だった。それなのに立候補してしまったのは、三輪秀次という人間に興味があったからだ。
「三輪くん、よろしくね」
早速回ってきた放課後の図書室当番。三輪くんと話すのは初めてなので軽く自己紹介をする。私は一方的に三輪くんのことを意識していたが、去年は別のクラスだったし三輪くんは私のことなんか名前も知らないだろうから。
「ああ。よろしく」
小さく頷いた三輪くんは最初に私に謝った。
「ボーダーの防衛任務で抜けることも多いと思う。早めにわかってる場合は他のクラスのやつに代わってもらうが、急な呼び出しがあった時は一人でやってもらうことがあるかもしれない」
「あ、そういうこと。全然、全然大丈夫だよ。……他のクラスの人に代わってもらう時って、私にも教えてもらえたりする?」
「ああ……構わないが」
「じゃあ私も他の子に代わってもらおうっと。できるだけ一緒にやろうよ」
「……なんでだ?」
「三輪くんと仲良くなりたいから」
理解できないという顔をしながらも、三輪くんはそれ以上何も聞いてこなかった。

うちの学校で放課後の図書室を利用する人なんてほとんどいない。勉強するなら自習室があるし、本を探すなら新しくて蔵書も多い市立図書館が近くにある。古臭い匂いの充満する図書室には、私と三輪くんだけだった。必要ないだろうけど、三輪くんに図書委員の仕事について質問してみたりする。三輪くんは一つ一つ丁寧に教えてくれる。真面目だなあ。教えるのも上手だ。
「三輪くん、教え方うまいね。分かりやすい」
「よく陽介……友達の勉強見させられてるからな」
「ああ、米屋くん。ボーダーで同じチームってほんとう?」
「ああ。……よく知ってるな」
そりゃあ去年からコソコソと三輪くんの情報を集めてましたから……という言葉を押し止め、苦笑しつつ「有名だよ。強いんでしょ」と誤魔化した。
「ねえ……近界民と戦うって、どんな感じ?」
ついポロリと口からこぼれてしまった言葉に、三輪くんは目を見開いた。
「あ。待って待って。やっぱ今のナシ。ごめん!」
慌てて自分の言ったことを撤回した私は、パタパタと手を振り回した。
「ええっと、つまり、何が言いたいかって……いつも私たちのために戦ってくれてありがとうってこと!」
ずっと三輪くんに伝えたかった言葉を伝えると、三輪くんは目を逸らした。もしかして、照れているのだろうか。
「別に近界民と戦ってるのは俺だけじゃない」
でも、私は三輪くんに感謝を伝えたかったし、三輪くんのことを称賛したかったのだ。
そうこうしているうちにチャイムが鳴り響き、当番の時間が終わりを告げた。
「あ!終わっちゃった。ごめん、結局ずっと私ばっかり話して……うるさかった!?」
「いや……別に」
「よかったあ。じゃあ改めて、これからよろしく、三輪くん」
あとは私がやっとくよ、と申し出たのに三輪くんは律儀に最後まで付き合ってくれた。鍵を職員室に返すだけなのに、真面目だな。

こうして私と三輪くんは、話したこともない同級生から、『図書委員』という繋がりを得た。



「三輪くんって甘いもの好き?」
二人での図書当番にも慣れてきた数度目の放課後。
「普通だな」
「じゃあこれをあげよう」
ポケットからチョコレートを取り出し、三輪くんの手にそっと置いた。
「……ありがとう」
「これねえ、すごい美味しいのに売ってるところ少ないの!だから私毎回ちょっと遠回りしたとこのコンビニに行くんだ」
「いいのか、そんなものもらって」
「美味しいものは分けるものっておばあちゃんが言ってたから!」
じっと期待の眼差しで三輪くんを見つめていると、その意図に気づいた三輪くんが包みを開いてチョコレートを頬張る。
「……美味しいな」
「でしょ!?だから今みんなに布教してるんだ〜」
三輪くんは「うまい」じゃなくて「美味しい」と言う人。「ありがとう」と自然に言える人。そういうところが素敵だと思う。
時計の秒針の音と、私たちの会話だけが響く図書室は、時間の進みが他の場所とは違うみたいだ。ゆっくりで早い。
「……でね、テスト範囲狭めてくれって他のクラスの子に言われて、うちのクラスが先生にめちゃくちゃ質問して進度遅くしたの!その結果期末のあのテスト範囲ができちゃったってわけ」
「なんだそれ」
三輪くんが小さく笑う。三輪くんはうるさいのが嫌いなのかと思っていたけど、結構おしゃべりは好きらしい。
「平均点80は先生も苦笑してたよ」
「そのぶん次のテストの範囲広がったけどな」
「そう!そこなんだよね〜!盲点でした」

教室ではほとんど話すことがないのに、図書室当番で二人になったら、私たちの距離は少し変わる。



三輪くんにクッキーをもらった。この前のチョコレートのお礼だという。
「え、すごい。美味しそう。もしかしてお菓子屋さんのやつ……?」
「いや、手作りだ」
「は」
三輪くんの手作りのクッキーをいただいてしまった。
「いやいやいや、お礼が豪華すぎるよ!数十円のチョコ一個とこれじゃ釣り合わない!」
「別にそんなにいいものじゃない」
「ええ……めちゃくちゃ美味しそうだけど……ていうか、料理とかするんだね」
「……たまに」
「でも確かに、三輪くんお菓子作りとか得意そう!分量とか手順きっちり守りそうだもんね」
今度の調理実習、三輪くんと一緒のグループになりますように〜と祈ると、三輪くんが「馬鹿だな」と笑った。
「食べてもよろしいでしょうか」
「ああ」
包みをそっと開けて、指で四角いクッキーをつまむ。サクサクとした食感とバターの香り。
「おいし〜……!売れるよ、これ」
「そうか。よかった」
「……米屋くんたちにもあげたりするの?」
そう聞くと、三輪くんはすごく嫌そうな顔をした。
「そんな気持ち悪いことするか」
「……じゃあ、三輪くんのクッキー食べたことあるのって、私だけだったりする?」
「……家族以外は、そうだな」
「そっか」
三輪くんの何気ない言葉にまた少し、私の心が動く。私はそれに気付かないふりをして、もう一つクッキーに手を伸ばした。



「みょうじ、悪い。来週防衛任務だ」
「オッケ〜。じゃあ隣のクラスの子に交代頼んどくね!」
「ああ。ありがとう」
三輪くんが私に物事を頼んでくれるようになった。最初は自分でやると律儀に言っていたが。これも一つの信頼と捉えていいのだろうか。
隣のクラスの図書委員に当番交代をお願いしにいくと、藪から棒に三輪くんと付き合っているのかと聞かれた。
「違うよ〜。なんで?」
「だって毎回二人で当番交代するじゃん」
「え〜だってあんまり知らない人と当番するの気まずくない?」
「それもそうか。でも三輪と二人とか、息つまんない?」
「そうでもないよ」
「へ〜。三輪顔はいいから私も一回一緒に当番してみたいな〜」

そんな言葉に感じたのは、少しの優越感と、焦りと。この感情に名前をつけられない。



先生に呼び出された三輪くんに先んじて図書室を開ける。カウンターの返却ボックスには珍しく数冊の本が入っていた。それを元の位置に戻すのも図書委員の仕事である。
漫画は入り口付近のカラーボックスに。小説はタイトル順に壁際の本棚に。辞書は本棚の一番上の段に。カウンター前の踏み台を取ってくるのを面倒がった私は背伸びをして辞書を本と本の隙間に収めようとした。しかし背幅に比べて隙間が小さい上に辞書自体が重いもんだからなかなかうまいこといかない。上を向いて背伸びをしていると、くらりと目が回って、後ろによろける。そんな私の手に一回り大きな手が重なり、本棚に辞書を押し込んだ。
「悪い。遅くなった」
「あ……ありがとう」
目眩の中で見る三輪くんはチカチカと輝いて見える。
私は慌ててその場を離れると、カバンからノートを取り出した。
「これ、こないだ休んでた時の。写す?」
「ああ。助かる。いつも悪いな」
ドキドキがおさまらない胸を必死に無視していると、長机の一席に座った三輪くんがじっと私を見つめた。すぐにノート写しに取り掛かるもんだと思っていた私は、もしかして私顔赤い!?と気が気じゃなかった。
「……なぜこんなに良くしてくれるんだ?」
あまりにも突然で、私は一瞬惚けてしまった。……それ、聞く?
「三輪くんのことが気になるから」
「俺の、どこが」
「…………三輪くん、お姉さんが亡くなってるってほんとう?」
意を決して私がそう呟くと、図書室に静寂が満ちた。
「わた、しも。四年前。おばあちゃん……が」
私の通っていた中学校は山の近くで、近界民による被害は少なく、私の周りに身内を亡くした人はいなかった。
「わ、私はおばあちゃんの死に際に立ち会ったわけじゃない。近界民に直接おばあちゃんが殺されたわけじゃない。それでも……」
おばあちゃんは病院で寝たきりだった。機械がないと生きられない体だった。ほとんど大往生だった。
「ねえ。まだ、わ、忘れらんない。近界民が憎くてたまらない。で、でも私、自分で戦う勇気もない……」
でも、あの日、病院のインフラが止まらなかったら。私はおばあちゃんの死に目に会えてた?あと一言でも言葉を交わせた?生きてるおばあちゃんに会えてた?
「だ、だから、それでも近界民に立ち向かう三輪くんが。すごく……」
私は深く息を吸うことで震える喉を落ち着かせた。
「ごめん。本当に。プライベートなことに突っ込んだ。こんなの私の自己満足でもない……」
「……オレも、忘れられない」
私は息を詰めた。三輪くんの苦しそうな顔を見て、私の体は勝手に動いていた。
三輪くんの頭を自分の胸に抱きしめる。
「ねえ、三輪くん。同盟を組もう」
自分でも何を言っているのかわからない。それでも言葉が口から溢れていく。
「三輪くんが悲しい時、辛い時、私がこうやって慰める、から。だから、私が辛い時は三輪くんが慰めて」
三輪くんは何も言わない。大事な人を失った悲しみを共有した私たちは、しばらくそうやって身を寄せあっていた。
「……温かいな、みょうじは」
逆に三輪くんは少し体温が低い。
「冬場は重宝するよ」
「……わかった」
三輪くんがこんな馬鹿な提案に乗るわけないと思っていた。しかし三輪くんの悲しみは私が思っていたより深かったのかもしれない。

この日、私たちの関係性に、一つ名前が追加された。



最近の三輪くんは様子がおかしい。目の下に隈を作り、髪の毛も乱れていて明らかに不健康そうだ。私は図書室にやってきた三輪くんをとっ捕まえると奥のソファに座らせた。
「ちょっと待ってて」
私は三輪くんを待たせると、自分のカバンからフェイスタオルを取り出した。
「じゃん」
それをセーラー服の下に仕込むと、三輪くんの頭をそっと抱えた。三輪くんは大人しくそれに従った。
「養殖でごめんだけど」
家にあったタオルの中でも貰い物のふかふかなやつを持ってきた。試してないけど、私の薄い胸よりは気持ちいいと思う。
「三輪くん、いつもありがとうね。私でよければいつでも胸貸すから」
頑張りすぎないでね、なんて、私の立場で軽々しく言えなかった。
「……本当は」
秒針の音にもかき消されそうなくらいの声量だった。私は三輪くんの丸い頭を見つめた。
「クッキーを作るのがうまいのは姉さんだ。それでもあの味にならない」
私はグッと三輪くんの頭を支える手に力を込めた。
それが最初だった。その時三輪くんは確かに弱っていて、悩んでいて、お姉さんの話を私にしてくれた。それから、三輪くんは少しずつ私にお姉さんのことを話してくれるようになった。
だいたい一ヶ月に一回くらいの頻度で、私たちの同盟はひっそりと、誰にも知られることなく続いていた。
「姉さんもよく話す人だった。だからみょうじと話すのは嫌いじゃない」
時間にしたら、5分にも満たない間。三輪くんは私に頭を預け、瞼の奥でお姉さんのことを思い出す。終わったら、少しだけ気まずそうに離れていってお礼を言う。
「……みょうじは、いいのか」
「えっ?」
「そういう同盟だろ。みょうじは辛くないか」
「い、今は大丈夫、かな」
「我慢はするなよ」
三輪くんの厚意を拒みながら、私はあいまいに笑った。



放課後の図書室。私は一人でソファにぼんやり座っていた。背もたれに首を預けて、ソファの後ろにある窓から空を眺める。
今日はいつも当番を代わってもらっている子に逆に交代を頼まれた。いきなりバイトが入ったとかで、三輪くんは朝から防衛任務でいなかったから、私一人で請け負ったのだ。
最初は、身内を亡くしていると聞いて気になった。その後に、ボーダーに所属していると知って、尊敬した。大事な人を喪ってなお立ち向かおうとするその姿はカッコよくて、三輪くんは私の理想だった。だから、三輪くんのために何かしたかった。お礼を言えて満足だった。
それなのに、私は今三輪くんへの感情に名前をつけそうになっている。ただの憧れ。ただの尊敬。それが今、優越感と焦りに侵食されている。私は馬鹿だから、きっと名前をつけたら「そう」思い込んでしまう。だから必死で堪えて、見て見ぬふりをして。それでも、最近よく考えてしまう。本当は逆だったのではないか。三輪くんに近づくためにおばあちゃんや三輪くんのお姉さんのことを利用したのではないか?違う。そんなことしない。そう否定しても心のどこかで「本当に?」という声がする。
じわりと目に涙が浮かんだ。空の青が目にしみる。涙がこぼれないようにただ空を睨みつけていると、静まりかえった図書室に急に大きな声が響いた。
「……やっぱり、無理してるだろ!」
反射的に声のした方に顔を向けてしまい、目尻から涙がこぼれていった。
涙の膜が消えてすっきりした視界に三輪くんが映る。なんで、ここに。そう思っているうちに三輪くんに力強く抱きしめられた。
「なんで一人で泣く!」
三輪くんに抱きしめられた瞬間から私の胸は別の鼓動を刻み始め、せっかく無視し続けていた私の感情には、簡単に名前がついてしまった。
「ち……がうの、これは」
「じゃあなんで泣いてる」
鋭く睨みつけられてびっくりして、私はつい言葉を漏らしてしまった。
「み、三輪くんが、好きだから」
三輪くんが息を呑むのがわかった。ああ、言っちゃった。
「さ、最初は、三輪くんが、近界民に立ち向かうたびに、自分まで救われてる気になってたの」
観念した私はほとんど嘔吐するように言葉を紡いだ。
「だ、だから、お菓子とかノートとか同盟とか、なんでもしてあげたかったの」
そう、最初は本当にそれだけだったのだ。
「でも、三輪くんのこと好きになっちゃって、私のこれは、見返りを求めた行動なのかもって、思ったら、い、いやで、嫌で、くるしくて」
ぼろぼろと後から後から溢れてくる涙を拭うこともせず、私は三輪くんに謝った。
「......馬鹿だな。救われてたのも見返りを求めてたのも、俺の方なのに」
三輪くんの声が優しく滲む。三輪くんの低い体温がじわじわと私の体温と混ざっていく。
「......もうとっくに、同盟の理由なんて変わってる」
私だってそうだ。寂しいからじゃなくて、三輪くんだから。
「好きだ。......俺も」
その言葉に、私は三輪くんの背中に手を回してぎゅうっと抱きしめた。

「もう同盟は解消だね」
二人ソファに並んで腰掛けて、私はそう呟いた。
「今日から恋人だもんね」
「......おまえは、恥ずかしいことを言うな」
目を合わせてくれない三輪くんにヘラヘラ笑う。恥ずかしくてもいい。私たちの関係は、今日また名前が変わった。
「俺からも一ついいか」
改まってそう言われたからなんだろうと思っていると、やっぱり目を合わせてくれない三輪くんに「もうタオルは入れるな」と言われて、静かな図書室に私の笑い声が小さく響いた。



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