甘い誘惑



少し先でひょこひょこと揺れている栗色の細い髪の毛を見つめていた。先程までは鼻の先にニンジンをぶら下げられた馬のようにその髪の毛を見るだけで走る力が湧いてきていたのだが、そんな眼福マジックも徐々に解けていき、私はとうとう足を止めてしまった。
「ま……まって……」
ぜえぜえと肩で息をしながら膝に手を当てて休んでいると、目の前を走っていた二宮くんが引き返してきた。
「……まだ五百メートルも進んでないぞ」
ため息とともにそう言われ、ぐうっと黙り込む。だから、ついて来なくていいって言ったのに。
「あ、足の長さが、倍くらい違うから、二宮くんについてくの、むり」
「……ならおまえに合わせる」
そう言って咳き込んでいる私の背中を撫でる二宮くんに、うぐっとまた呼吸が困難になった。しかし元を辿れば休日の朝早くからランニングをしている原因はこの人なのだ。
二宮くんが美味しいものをたくさん食べさせてくるから体重計の針がふた目盛ほど進み、私は運動を決意したのだった。元凶の二宮くんにもダイエットを宣言すると、二宮くんは私が信用ならないのかランニングに付き合ってくれた。
今度は私のペースで走り出すと、二宮くんがゆっくりと一歩踏み出した。二宮くんの歩幅が少しずつ大きくなり、早歩きになり……走り出さ、なかった。
「……まさかこれが全力か?」
信じられないものを見るような目で私を見る二宮くんのそういうところはたまに好きじゃない。私のランニングに早歩きでついてくる二宮くんに、もう置いていってほしいと喚きたい気分だった。
「運動、に、ならない、から、二宮くん、私に合わせなくて、いいよっ」
「それじゃあ意味がない」
どういう意味か分からないけどどういう意味か聞くほどの余裕もない。私がノロノロと足を進めていると、歩道の植込みの淡いピンクが目に飛び込んできた。
「わあ、沈丁花。きれい〜」
私は足を止めると携帯のカメラ機能で写真を撮った。沈丁花は昨夜の雨の雫を花や葉にたたえ、キラキラと陽の光に光っている。
「知ってる?沈丁花って毒があるんだよ〜あ、ナメクジだ」
葉の上をのたのたと這うナメクジを指さして二宮くんを見上げると、二宮くんは少しだけ口角を上げた。
「わ、笑った」
すかさずレンズを今度は二宮くんに向ける。陽の光にキラキラと輝いている髪の毛はどこの王子様かと思うほどの眩しさだし、ジャージでさえかっこよく着こなしている二宮くんに見とれた。……あれ、なんでジャージ着てるんだっけ。
「ああっ!足止めちゃった!」
そういえばランニングをしていたんだったと思い出して頭を抱える。こんなんじゃ運動にならない。今度こそ足を止めずに走るぞと気合いを入れ直していると、二宮くんが道の先を指さした。
「カフェで休むか?期間限定のケーキがある」
「わあ〜、おいしそう!あ、ここのカフェ、前にSNSで見たやつ!」
すごい偶然だねえと二宮くんに笑いかけて、ああでも今お財布持ってないんだったと思って、なんでお財布持ってないんだっけと思って、そういえばランニングをしていたんだったと思い出した。
「……ああっ!また!!」
甘い誘惑をしてくる二宮くんにじとりと湿っぽい視線を送る。
「二宮くん?二宮くんも協力してくれないと痩せられないよ」
「痩せなければいい」
真顔で前提をひっくり返すようなことを言ってくる二宮くんに私は頭を振った。
「もう!このままだと十キロも二十キロも体重増えちゃうよ!彼女がそんなに太ったら嫌でしょ?」
「俺が抱えられる重さまでは問題ない」
「問題あるよっ!」
真面目にそんなことを言ってくる二宮くんの天然にやられていると、「それで、行かないのか?」と追い討ちをかけられた。グラグラと大きく揺れ動き出した心の中の天秤は、あと一押しで「行く」方に傾いてしまいそうだ。たとえば、そう、二宮くんが微笑みながら誘ってきたりしたら。



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