極夜



籠ったバイブレーションの音が響く。クッションの下に携帯を封印した姿勢のまま、私はため息を吐いた。こんなことしても意味がないということはわかっている。それでも今の精神状態で二宮くんと話すことはできそうになかった。
ここ数週間私は二宮くんを避けているので、さすがの二宮くんもきっと何かあったと気づいているだろう。だからこうやって珍しく着信があるのだろうし。
ぷつりと静かになった携帯を恐る恐るクッションの下から掬い上げると、そこには「不在着信」の表示があり、私は慌ててその通知を削除した。その行為で着信がなかったことになどならないとわかってはいるけど。私は泣きたい気分でベッドに突っ伏した。

最近ボーダーに所属した私はそこで二宮くんと出会い、お付き合いをする間柄になった。二宮くんが元A級隊員で、部下の隊務規定違反のためB級に降格していることは噂で聞いていたけど、あの日まではそのことを気にもしていなかった。
数週間前、私が駅前のカフェでレポートを書いているとそこに偶然二宮くんがやって来た。二宮くんはこちらに気づいていないようだったし、知らない人と一緒だったから声をかけることはせず、好奇心から二人の会話に耳をすませた。そこで知った、二宮くんの「元部下」の話。それは私が想像していた形とは全く違った。だって、ボーダーの人たちの中ではそれは完全に「終わった話」で、二宮隊のみんなも軽く話題に出せるような空気だった。それなのに、なんで上層部でもない二宮くんがそんなに必死に「彼女」のことを探ってるの。探したって、近界に行った人間をどうすることもできないのは、二宮くんが一番よくわかってるでしょう。
気づくと私の指先は冷えきっていて、二宮くんたちはとっくに出ていっていたようだった。二宮くんたちが座っていたテーブルの上にはコップの輪っか一つ残っていなかった。

二宮くんの中で、彼女はいなくなる前のまま、鮮明に生きている。



飲み会の帰り道をとぼとぼと歩いていても、頭の中では二宮くんのことを考えてしまう。この気持ちには、慣れるしかないんだと思う。誰に何を言われても私は気にするし、飲み下すこともできない。だから、慣れて、諦めるしかないんだと思う。それまでの間、二宮くんとは会いたくなかった。
友人たちに「少し嫌なことがあった」と言って、毎日のように飲みの席で恋人の愚痴を語り合ったり、カラオケに行ったりするのに付き合ってもらった。友達と一緒にいる間は楽しいけど、一人になった瞬間に会ったことのない彼女と二宮くんのことを考えて落ち込んでしまう。でも、この痛みに慣れることが、二宮くんと一緒にいられるただ一つの方法だと思うから。
やっと駅に到着すると、改札の前にすらりとスタイルのいい人がいるのに気づいた。二宮くんは冷たい眼差しで私を見下ろした。世界一会いたくなかった人に会ってしまった私は俯いて自分の爪先をじっと見つめた。二宮くんは私の手首を掴むと何も言わずに歩き出した。二宮くんに引き摺られながら、私は途方に暮れていた。

ローテーブルを挟み向かい合って座ったはいいものの、なかなか切り出すことができなかった。でも二宮くんは圧をかけてくるばかりで、私が喋らないとこの時間は永遠に続く。私は半ばやけになった。
「……少し、距離を置きたい」
俯きながらそう言うと、二宮くんは大して驚いた様子もなく口を開いた。
「理由を言え。じゃないと納得できない」
それはもっともな話で、そう言われることがわかっていたからこの数週間私は二宮くんを避け続けたのだ。理由を言ったらきっと二宮くんに振られるから。
「それは……言いたくない」
あくまで黙秘を貫く姿勢でそう言うと、「ならこの話は平行線だ」と二宮くんも譲らない。
「……二宮くんは悪くないの。私の気持ちの整理に、少しだけ時間がほしいだけ」
「だから、その『気持ち』はなんだと聞いている」
二宮くんの声がどんどん不機嫌そうな色に染まっていく。
「……言いたく、ない」
「あれも言えない、これも言えないじゃ話にならないな」
びく、と体が震えた。この先に待っているのは別れ話しかないだろう。だったら、と私はとうとう白旗を上げた。
「ちょっと前……駅前のカフェで、二宮くんを見て」
ぽとぽととものを取り零すように半ば諦めるような気持ちで私は白状した。
「その時の会話聞いちゃって……ごめん」
二宮くんはなにも言わなかった。いつの話だと考えていたのかもしれない。でもその優秀な頭脳はすぐに記憶の引き出しからあの日の記憶を見つけ出したらしい。
「……鳩原の話か」
ああ、その名前をあなたの口から聞きたくなかったのに。親から叱られている子どものようにどんどん瞳に涙が溜まっていって、あと少しのきっかけで決壊する、と思った。
「……それがどうした?」
引き金はその言葉だった。ぱたぱたと膝の上に置いた手の甲に涙が落ちていく。わかってるよ、二宮くんにとってはその程度の話なんだって。
「私が……勝手に気にしただけ……」
「……何を気にする必要がある。鳩原はただの部下だ」
「うん……そうだよね」
知ってるよ、知ってる。そんなことわかってる。でもどれだけ言い聞かせたって、二宮くんが私以外の女の子を特別扱いしているのが許せない。この数週間、こういう自分の心が狭くて醜いところに何度も落ち込んで、自分のことを嫌いになった。
「だから、距離を置きたいの」
「……なぜそうなる」
二宮くんはため息をついた。
「俺が鳩原について調べるのは、ただ気になるからだ。別に連れ戻そうと思ってるわけじゃない」
「うん……」
それでも顔を上げずに泣く私に、二宮くんは苛立ったように言葉を繋げた。
「……だから、鳩原はただの部下で、それ以外の感情は……」
「……わかってるよ!」
二宮くんの言葉を遮って私は叫んだ。もう何も喋らないでと思った。
「そんなの最初からわかってる!二宮くんが付き合ってるのは私なのも、二宮くんが意外と情に厚い人なのも、知ってる!!でも嫌なの!!二宮くんが私以外の女の子のことをずっと考えてるのも、気にしてるのも……でもそんなの、私のわがままで、別に二宮くんに鳩原さんについて調べるのをやめてほしいわけじゃない、だから、この気持ちは自分で処理するしかないでしょ!!こんなこと言ったら二宮くん困るでしょ!!」
堰を切ったように言葉が止まらなかった。部屋には私が鼻水を啜る音だけが響いた。
コンクリートのように重い時間が過ぎたあと、視界の端に何かが滑り込んできた。少しだけ目線を上げると、それは写真だった。
「この女が鳩原未来だ」
ぎくりと体を強ばらせた私になお、二宮くんは言葉を続けた。
「こいつは弟を近界に攫われている。それで遠征選抜を目指していた」
私はなにも言葉を返せずにただ穴が空くほど写真を見ていることしかできなかった。
「……俺はこいつが、部隊でならともかく、単身で近界に行くべきじゃなかったと今でも思っている。──この女は人が撃てない」
私は息を飲んだ。たしかに、トリオン体といえども対人での戦闘を苦手とし、オペレーターやエンジニアに転向する隊員は一定数いる。
「それでもこの女がA級部隊の隊員だったのは、こいつが人並みじゃない努力をしていたからだ」
……そうか、二宮くんは鳩原さんのことを、とても信頼していたのだ。
「この女は重要規律違反を計画できるようなタマじゃない。俺が知りたいのはこの馬鹿を唆したやつだ」
はっと息を飲む。その言葉にほんの些細な揺れがあったような気がした。
「こいつの努力を踏み躙ったやつがのうのうと生きているとしたら……そんな馬鹿な話があってたまるか」
「……二宮くんは、後悔してるの?」
「そう見えるか?」
「わかんない……」
二宮くんはきっと、鳩原さんのいる二宮隊で遠征に行きたかったんだろう。自分が気づいていれば、上層部を説得できていたら。……二宮くんがそう思っているかはわからないけど。
「……わかった。見つけよう、黒幕。そんで私をこれだけ苦しませた償いもしてもらう」
手の甲で涙を拭いながらそう言うと、二宮くんは驚いたような顔をした。
「言っとくけど、そんな説明じゃ私のもやもやは解消されないからね」
そう言って、二宮くんを真っ直ぐ見つめる。
「でも、二宮くんが大切にしてるものは私も大切にする」
小さな覚悟とともにそう伝えると、二宮くんは私の肩を強い力で掴んだ。
「え、なに?」
「……わからない」
私は小さく笑うと、「そういうときは抱きしめるんだよ」と教えてあげた。



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